第肆頁 菅原道真……呪詛期間長過ぎ………

怨霊にされた人 肆
名前菅原道真(すがわらのみちざね)
生没年承和一二(845)年六月二五日〜延喜三(903)年二月二五日
身分学者、従二位右大臣
理不尽な仕打ち謀反の濡れ衣とそれによる左遷・流刑
怨めしい相手藤原時平、醍醐天皇
「怨霊の影響」時平急死、醍醐天皇皇太子連続死去、疫病流行、清涼殿落雷
略歴 承和一二(845)年六月二五日に参議・菅原是善を父に、伴真成の娘を母に、その三男に生まれた。幼名は阿呼(あこ)、後に吉祥丸と改め、長じて道真となった。

 学者として高名な道真は幼少時に漢詩に才を見せ、貞観四(862)年文章生となった。
 貞観九(867)年に文章得業生(←は文章生の中から二名だけ選ばれる)となり、正六位下・下野権少掾に叙任されて政界入りした。
 以後、玄蕃助・少内記(正五位)、兵部少輔・民部少輔・式部少輔・文章博士(従五位下)を歴任、元慶四(880)年に父・是善が没すると、祖父・菅原清公が創立した私塾・菅家廊下を主宰し、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。

 仁和二(886)年に讃岐守となって任地に赴任。任期中の仁和四(888)年に中央で阿衡事件(あこうじけん。時の権力者・藤原基経が宇多天皇から拝命された「阿衡」の地位に対して、「名は有っても職は無い!」とごねて政務を放棄した事件)に際して、任地から基経に意見書を送って、彼の気持ちを宥めて事件を収束させた。

 寛平二(890)年に帰京。阿衡事件以来、宇多天皇の信任を受けていた道真は、権勢を振るっていた基経達藤原一族への対抗馬にされたこともあって要職を歴任し、寛平五(893)年に公卿に昇進した(ちなみに基経は寛平三(891)年に没した)。
 翌寛平六(894)年遣唐大使に任ぜられるが、安史の乱以来唐の政情が混乱していることから遣唐使廃止を建言し、容れられた(この一三年後に唐は滅亡)。
 その後も昇進を重ね、娘達も皇族に嫁ぐなど、皇室との結びつきも強まり、藤原家にとって増々油断ならない存在となった。本人にそこまで張り合う気が有ったかどうかは不明だが………。

 寛平九(897)年六月に藤原時平(基経の子)が大納言兼左近衛大将に、道真が権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、両頭体制となった直後の同年七月に宇多天皇は子の醍醐天皇に譲位した。
 宇多上皇は醍醐天皇道真を引き続き重用するよう託し、道真時平とともに官奏執奏の特権が許され、昌泰二(899)年には右大臣に昇進した。このとき左大臣だった時平道真への警戒を強め、他にも政治家としても学者としても大昇進を遂げた道真を妬む者は少なくなかった。
 そして昌泰四(901)年一月、時平醍醐天皇道真を讒言した。

 讒言内容は、道真醍醐天皇を退位させ、娘婿にして醍醐天皇の弟である斉世親王を皇位に就けようと謀っている、というもので、醍醐天皇はこれを真に受けた。道真が危機に陥ったことを聞きつけた宇多上皇は道真を救わんとして醍醐天皇を説得せんとしたが、宇多上皇は醍醐天皇の命を受けた門番によって内裏に入ることも叶わなかった。
 結局、道真は太宰府権帥(だざいふごんのそち。大宰府の仮の長官。当時大宰府の長官は皇太子が兼任した。ま、誰も任地に行きやしなかったが)に左遷され、四人の息子達も各々地方に飛ばされた(昌泰の変)。

 大宰府に流される直前、自宅にある梅の木を見上げ、

 東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ
 と詠んだのは余りにも有名だろう。

 史上、左遷されて大宰府に流された者は数多く存在するが、その中でも道真に対する待遇は群を抜いて劣悪だった
 大宰府までの道中にも監視役が着き、通過した諸国においても馬や食糧が給付されず、筑後川では刺客に襲われた(このとき、筑後川の河童・三千坊が道真を庇って手を斬り落とされ落命した伝説があり、福岡県の北野天満宮には「河童の手のミイラ」が残されている)。
 側室の一人は臨月で、道真に同行した途中で輿中を大量出血に染めながら出産するも産後の肥立ちが悪くて亡くなり、息子の一人も山口で病死するという悲劇も続発した。

 勿論大宰府での生活も過酷で、「大宰員外帥」という名ばかりの役職に就けられ、大宰府本庁に入ることも叶わず、給与も従者も与えられず、住居も荒れ放題で放置されていた廃屋という有様だった。そしてそんな生活が道真の心身を大きく衰耗させたらしく、二年後の延喜三(903)年二月二五日、大宰府にて失意の内に逝去した。菅原道真享年五九歳。
 道真の訃報を受け、彼の師にして岳父でもあった島田忠臣は「今後再びあのように詩人の実を備えた人物は現れまい。」と云って嘆き悲しみ、学友だった紀長谷雄は道真が死の直前に大宰府で詠み続けた詩集・『菅家後集』を贈られ、悲しみに満ちた遺作を前に涙したと云う。

死後の経過と祟り(?) 菅原道真の死後(というには間が空くのだが)、京には異変が相次いだ。
 道真の死から六年後の延喜九(909)年四月四日、道真讒言の張本人であった藤原時平が三九歳の若さで急死した。
 ついで延喜二三(923)年三月二一日、醍醐天皇の皇太子・保明親王(時平の甥でもあった)が二一歳の若さで薨去。
 二年後の延長三(925)年六月一九日には皇太孫・慶頼王(保明親王の皇子で、時平の外孫)が五歳の幼さで病死した(これにより、時平の血を引く皇位継承者は全滅)。
 そして延長八(930)年六月二六日、朝議の最中、急遽上空に雷雲が立ち込めたかと思うと清涼殿が落雷を受け、大納言・藤原清貫(←昌泰の変に関与したとされている)等の要人が雷撃並びに火災により死傷した(清涼殿落雷事件)。この衝撃的な展開を目の当たりにした醍醐天皇は体調を崩し、三ヶ月後の同年九月二九日に崩御した。

 これら、現代人が見ても「祟りか?」と云いたくなる一連の要人連続死を受け、朝廷は「道真の祟り」と恐れ、保明親王薨去の一ヶ月後となる延喜二三(923)四月二〇日には早くも故人である道真に対して従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を追贈した。
 そして清涼殿落雷事件という衝撃的な事件に遭遇した平安京では直ちに菅原道真の無罪を宣言し、道真の息子達の流罪を解き、京に呼び戻した。そして京の人々は道真の怨霊を「雷神」と結びつけ、火雷神が祀られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。
 世人の受けた衝撃とその影響は長く尾を引き、以後一〇〇年に渡って大災害が起きるたびに「道真の祟り」として恐れ、これが後々の天神信仰に繋がり、生前の学者としてのイメージと相俟って、彼が学問の神として信仰されるようになったのは周知の通りである。
 また、清涼殿落雷事件に脅えた人々が、道真の旧領・信濃桑原に落雷が無かったことから、落雷除けの呪いとして「桑原、桑原」と唱えたことが、現代でも怖いことを避けたがる際に人が「くわばら、くわばら」と呟く習性として残るなど、道真が残した影響は数多い。

 そして道真の死から九〇年を経た正暦四(993)年、朝廷は正一位左大臣、太政大臣の位を追贈した。この間、藤原時平関係者が次々と不幸に遭いながら、道真に比較的好意的だった藤原忠平(時平の弟)とその一族が難を逃れたことから、「道真の祟り」には非常に大きな説得力があった。


祟り(?)への疑念 起きた出来事だけを見れば、誰しもが「菅原道真の祟り」と云いたくなるだろう。

 実際、命を落とした者の顔触れや、通例と比しても過酷だった道真の末路や、当時の怨霊信仰からすれば殆どの人間が祟りを信じただろうし、道真本人が祟りたがったとしても全く不思議はない。
 だが、薩摩守は「道真の祟り」に対して違和感を抱く点が二点ある。

 第一は「祟りの始まり」である。
 前述した様に祟りと思しき出来事は、道真の死から六年を経た延喜九(909)年四月四日の藤原時平の急死に始まる。云うまでもなく時平道真讒言の張本人であった。時平の弟・忠平(←藤原一族でも稀に見る人格者だった)は道真に政治的野心が無いことを述べて陰謀に反対したが時平はこれを強行し、左大臣として権力を独占したのから、外野的に見ても胸糞悪くなる野郎で、三九歳の若さで急死したと有れば、敵意から「道真公の祟り」と喝采した都人も数が多かったことだろう。
 しかし想像して欲しい。もし、本能寺の変の六年後に明智光秀が急死したとして、「織田信長公の祟り」と人口に膾炙しただろうか?

 相変わらず回りくどい書き方で申し訳ないが、死後九年も経ってから始まった出来事を「祟り」というのに違和感を抱くのである。

 もう一つは「祟りの異常な長さ」である。
 迷信深く、自然災害、疫病流行に今以上に無力だった当時、犠牲者の面子的にも「道真公の祟り」と囁かれたことは全然不思議ではない。だが、五九年の人生中、三年の不遇を道真が何百年も怨み続けるだろうか?
 祟りの中には、(当時の人間の思い込みもあるが)次頁の平将門や、次々頁の崇徳上皇の様に千年近く恐れられ、現代に影響を及ぼしている例もあるが、菅原道真は人格的にもここまで長く人を呪い続けるとは薩摩守には考え難い。

 勿論陰謀に陥れられた人間の気持ちが薩摩守に理解し切れるという訳ではない。ただ、道真は政治的野心もなく、官の世界でも、学の世界でも、妬みと悪口に溢れていることに辟易していた。
 また、道真の死から二〇年を経て、皇太子を失った醍醐天皇道真の右大臣復位と正二位追贈を行い、公的にも道真の名誉は回復された。だが、「それでも許さない!」とばかりに二年後に次の皇太子も夭折し、その五年後には清涼殿落雷事件が起き、三ヶ月後には醍醐天皇もこの世を去った。

 つまりは、「道真の祟り」は期間的に延喜九(909)年四月から延長八(930)年九月の二一年五ヶ月に及んだ訳だが、堪りかねた平安京の人々は改めて道真の無罪を宣し、流刑状態だった道真の息子達の帰京を許したが、それでも平安京では事ある毎に「道真公の祟り」が取り沙汰されたのだから、本当に道真が祟ったのだとしたら執念深いにも程がある

 以上のことを鑑みると、菅原道真の人格的にも、謝罪や名誉回復を受けて尚、ここまで祟り続けることには疑問を感じてしまう。
 謂われなき冤罪や、自らに留まらない一族の不遇を想えば道真の人格が一変した可能性まで全面的には否定出来る訳ではないが、「学問の神様」はともかく、「最強の怨霊」や「雷神様」と今も呼ばれていることに草葉の陰で複雑な想いを抱えているのではなかろうか?


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令和三(2021)年六月八日 最終更新