第伍頁 平将門……いや、アンタ「反逆」しているし

怨霊にされた人 伍
名前平将門(たいらのまさかど)
生没年不詳〜天慶三(940)年三月二五日
身分地方豪族、新皇(←僭称)
理不尽な仕打ち
怨めしい相手平貞盛、藤原秀郷
「怨霊の影響」
略歴 生年は不詳。平良将(たいらのよしまさ)を父に、県犬養春枝(あがたのいぬかいのはるすえ)の娘を母に三男に生まれた。幼名は小次郎 (こじろう)。
 祖父の平高望(たいらのたかもち)は桓武天皇の孫で、平姓を賜って臣籍降下し、関八州に下向すると都で出世に齷齪するよりも、地方で気楽に過ごす道を選んで土着していた。

 桓武平家系図


 父・良将は下総国佐倉(現・千葉県佐倉市)を領有していて、豊田・猿島両郡を勢力範囲としていた。少年期の将門は平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平に仕えた。
 将門は忠平からはその人柄を認められるも、出世は覚束ず、一二年程在京したが、検非違使にもなれず、故郷に戻った。

 地元に戻った将門を待っていたのは、関東の土地を巡る伯父達との骨肉の争いだった。
 承平五(935)年二月、伯父・平国香(たいらのくにか。父・良将の長兄)に糸引かれた源扶等に常陸国真壁郡野本(現・茨城県筑西市)にて襲撃されるが、将門はこれを撃退して、返す刀で敵の本拠である真壁郡へ進軍して扶の父・源護の本拠を焼き討ちし、国香を焼死させた。
 同年一〇月、平国香・源扶護の仇を討たんとして、軍勢を集めて押し寄せた叔父・平良正(良将の弟)と鬼怒川沿いの新治郷川曲(八千代町)にて対峙。将門がこの軍を破ると良正は良兼(良将次兄)に救いを求め、良兼は国香の遺児・平貞盛(たいらのさだもり)を誘い、承平六(936)年六月二六日に上総国を発って将門を攻めんとした。
 劣勢の将門方は奇襲を受けてこれを敗走せしめた。良兼達は下野の国衙に逃れ、将門はこれを包囲したが、この時点では事を大きくすることを懸念し、包囲の一部を解いて良兼達敢えてを逃亡させた。

 実際、敗れた良兼方は政治的に将門を罪人に仕立てんとして、同年源護が朝廷に将門を告発した。将門は朝廷からの出頭命令に応じて平安京に赴き、検非違使庁で争いは伯父達の方から仕掛けて来たもので、正当防衛であることを主張。摂政で、旧主でもあった藤原忠平も将門に同情的で、承平七(937)年四月七日の朱雀天皇元服による大赦の形で将門は罪を許されて帰国した。

 その後も、良兼を初めとする一族との対立が続いた。
 同年八月六日、良兼の攻撃を受け、数に劣る将門は敗れて妻子を連れ去られた(妻子は翌月、将門の弟達の手助けで将門の元に戻ってきた)。将門は、今度は自分の方から朝廷に自分側の正当性を訴え、同年一一月五日に太政官符を得て大義名分とした。
 これを機に将門は良兼等の兵を筑波山に駆逐し、力を落とした良兼は三年後に病死した。

 この勝利で将門の武威は関東一円に鳴り響いたが、それは不幸の始まりでもあった。というのも、将門の武力を頼って、様々な者達が助けを求めて来たことが災いを呼び込んだからであった。
 天慶二(939)年二月、武蔵国権守・興世王(おきよおう)が同国介であった源経基(みなもとのつねとも。清和源氏始祖)と紛争を起こし、将門は両者の仲裁に乗り出した。
 興世王は仲裁を受け、これを入れたが、経基は都に逃亡し、将門、興世王の謀反を朝廷に訴えた。
 将門は再度藤原忠平に上書を送って謀反を否定(常陸・下総・下野・武蔵・上野五ヶ国の国府の証明書を添えた)。上書と忠平との伝手は功を奏し、朝廷は将門への疑いを解き、逆に経基を誣告の罪で罰した。正確には朝廷では将門の動きを「私闘」と見做し、当時田舎と見做していた関東でのいざこざに対して真剣に介入しようとは考えなかったこともあった。

 その後、興世王が新任の武蔵国守・百済貞連と不和になって再度将門を頼り、常陸国で不動倉を破ったために追捕令が出ていた藤原玄明(ふじわらのはるあき)が助けを求めて訪れ、将門は彼等を匿って身柄引き渡し要求を拒否したため、朝廷の心証が悪化した。
 結局この事が元で天慶二(939)年一一月二一日、将門はやむなく常陸国府と戦うこととなり、手勢一〇〇〇人余で国府軍三〇〇〇人を打ち破った。国府の責任者・常陸介藤原維幾は印綬を差し出して降伏。これにより理由はどうあれ、国府を襲った平将門は「朝廷への反逆者」となった。

 興世王からもう後戻りが出来ないことを諭され(唆され?)、将門は関東立国を志し、同年一二月一一日に下野に出兵したのを皮切りに関東一円の国府を襲っては、降伏した責任者から印綬を没収し、岩井(現・茨城県坂東市)を新都として、自らは「新皇」を称した。
 謂わば朝廷における天皇を認めず、自らを新たな天皇とした訳で、これにより名実ともに朝廷に反逆したこととなった。さすがにここまですることには弟や側近達の反対もあったが、将門はもはや戻ることが出来ない状態になっていた。

 この動きは「将門謀反」の報として直ちに平安京にもたらされ、西方で藤原純友の乱にも苦慮していた朝廷は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。朝廷では諸社諸寺に将門調伏の祈祷を命じ、翌天慶三(940)年一月九日に源経基の罪を赦し、一〇日後に参議・藤原忠文を征東大将軍に任じて関東に出陣させた。

 坂東でも貞盛が下野国・押領使の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を伴って四〇〇〇の兵を集め、押し寄せて来た。将門は諸国を統治する為に兵の殆んどを地方に分散させていたこともあって、自らの手許には一〇〇〇人足らずの兵しか残っていなかった。
 数に劣るゆえ、先制攻撃で機先を制するしかないとみた将門は二月一日に出撃し、自軍は戦を有利に進めたが、配下達の軍は軍略に優れた藤原秀郷軍に敗れまくった。かくして将門も時間の経過と共に劣勢に追いやられ、ついには退却を余儀なくされた。

 そして四〇〇にまで減った手勢を率いて将門は二月一四日、最終決戦に出た。
 将門は北風を利用して矢戦を優位に展開したが、周囲に散った援軍が間に合わないまま、風向きの変化とともに劣勢に転じた将門は額に矢を受け、討死した。平将門、正確な享年は不明だが、三七、八歳での没と云われている。

死後の経過と祟り(?) 平将門戦死後、将門の弟達も、興世王等も戦死したり、捕らえられて処刑されたりし、反乱は新皇宣下からたったの二ヶ月ほどで鎮圧された。
 また東の脅威だった将門の如く、西の脅威であった藤原純友の乱も程なく鎮圧され、平安京は武士を見下す世に戻ったが、武芸に優れているばかりでなく、世に受け入れられない者の代弁に努めたという点で関東一円を中心に人気のあった将門の死は逸話や伝説として人々に語り継がれてきた。

 有名な伝承は勿論「首の伝説」だろう。
 平貞盛藤原秀郷に討たれた将門の首は反逆者の常として京都・七条河原にて梟首となった。だが、朽ちていく筈の首は何ヶ月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかの様だったと云われている。
 ある時、歌人の藤六左近がそれを見て歌を詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯つけて一戦せん。俺の胴はどこだ?」と云った。声は毎夜響いたと云う。
 そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んで行ったと云われる。それゆえに将門の首塚は京都になく、飛んで行った首が力尽きて落下したされる関東各地に首塚が有る。最も有名なのが東京都千代田区大手町のそれであるのは世人の言を待たないところだろう。

 直後こそ、天変地異や貴族に不幸をもたらした訳でもなかった将門は中央では怨霊信仰の対象ともならなかったが、関東ではその影響(と世の人々が信じた出来事)が顕著だった。
 前述の将門塚周辺では天災が頻発すると、これ等を「将門の祟り」として恐れ、その死から四五〇年以上も経た延慶二(1309)年に他阿(時宗の遊行僧)主導の下、民衆によって神と祀られ、銭形平次で有名な神田明神に合祀されることとなった。

 そして戦国の世になると、神田明神には太田道灌、北条氏綱等が、更には徳川家康が戦勝祈祷を行った。
 また、江戸時代となって平和が訪れた後も、徳川家光が勅使・烏丸光広(大納言)を通じて朝敵認定を取り消させ、神田明神が江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座されるといった動きも見られた。

 だが、将門を恐れる声は武士の世が終わるとともに沈静化した。
 明治の世となり、皇国史観が確立すると平将門「日本史三大悪人」の一人とされた(後の二人は弓削道鏡と足利尊氏)。明治七(1874)年に教部省の指示により神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座された。
 だが、第二次世界大戦後、皇室批判が戦前ほどにはタブー視されなくなると、「朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かった英雄」としての側面が再度クローズアップされ出し、昭和五九(1954)年、平将門神は再度、神田明神に合祀されたのだった。

 科学が発達し、怨霊の存在が一笑に付されがちになった近代でも将門の霊に対する畏怖は続いた。
 関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員に不審死が相次ぎ、、更には時の大臣・早速整爾までが急死したことで、「将門の祟り」が省内で噂され、省内の動揺を抑える為にも仮庁舎は取り壊された。
 また終戦直後、GHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時にも、不審な事故が相次いだため計画は中止された。
 以後、将門塚に手を出す者は無く、日本有数のオフィス街である大手町の一角はそのまま残り、香華が絶えず、近隣の企業は「史蹟将門塚保存会」を設立して維持管理を行っている。  今も、隣接するビルでは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない。」、「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている。」との気遣いが為されている。
 また、首塚の境内には多数の蛙の置物が奉納されており、将門の首が京から飛んで帰った伝説から、「帰る(カエル)」にひっかけ、左遷による転勤を命ぜられたサラリーマンが地元に「帰る」という御利益を求めての信仰対象となっている。


祟り(?)への疑念 正直、本作で採り上げた他の人々に比べると平将門を怨霊とするには、薩摩守的には若干の躊躇いが残らないでもない。それは、実際に将門が朝廷に反旗を翻したからである。
 特に「新皇」を名乗ったのは大義名分論的にも致命的で、戦前「日本史三大悪人」の一人にされる大要因となった。

 だが、経緯を見れば明らかなように、将門は最初から朝廷に叛意を持っていた訳ではない。祖父の高望王以来、坂東平氏は関東に土着しており、逃走は土地を巡る勢力争いで、自分から喧嘩を吹っ掛けながら敗れた平国香、良兼等が将門を讒訴したに等しかった。
 勿論朝廷は馬鹿ばかりではなく、将門の平安京留学時代の主でもあった摂政・藤原忠平は人格者で、当初は将門の云い分は認められ、検非違使の裁決も寛大なものだった。
 厄介だったのは、当時の関東が京を離れた田舎の地と見做され、平家の争いを重視されなかったことにあった。将門と国香・良兼・良将・貞盛等の戦いは文字通り家庭内の喧嘩と見做され、朝廷は真剣に仲裁しなかった。
 もし本気で仲裁していれば、良兼達が処罰され、将門は関東での面倒見のいい地方領主として生涯を終えていただろう(←実際、国府を襲う前では、朝廷は良兼や源経基の方を罰している。軽罰だったが)。だが、そうは成らなかったために良兼は、そして父を死に追いやられた貞盛は執拗に将門襲撃を繰り返した。

 加えて、興世王や藤原玄明といった朝廷に忠実ならざる者達が将門の武勇を頼り、将門自身来るものを拒めない性格が災いした。彼等を匿ったことは当然、将門を責めたい(攻めたい)者達に口実を与えることとなり、劣勢の将門は「攻撃こそ最大の防御」に走らざるを得なかった。
 それが為に国府を襲ったことで云い訳出来ない立場に追いやられた将門は関八州の国司達を武力で追放し、関東立国に走り、新皇を名乗るに至った。酷な云い方をすれば、興世王・玄明の様な国府に敵対する者達を匿わず、仕掛けられない以上は戦わない様に徹するべきだった。ましてや時の摂政であった藤原忠平は将門の旧主にして、話の分かる人間でもあった。勿論、当初は好戦的ではなかった将門が先制攻撃を選んだ以上、そこは事情もあったのだろうけれど、ここまで来ては「罪無し」とはいかなかった。

 そもそも「怨霊」とは罪無くして敗死・刑死を遂げた者が祟るのが通例で、その例からすると、追いやられたとはいえ、最終的に朝廷に反逆した将門が怨霊化するのは一抹の疑問が残る。

 別の視点で見ると、死後に将門は怪現象を起こしたものの、誰かを呪殺した訳ではない。今でこそ大手町オフィス街の首塚が静かながらも強烈なインパクトを世に発しているが、それ近代以前は合祀や分祀に対して将門の霊が何かをした様子も見られない。そう云う意味でも、通常の(?)怨霊とやはり異なる。ただ、現代にまで強い影響を残しているところに想いの強さを感じるのである。
 平将門という人物は決して単純な人物でもなければ、怒りや怨みで我を忘れるような分からず屋でもない。関東立国における新皇僭称もたった二ヶ月の短期に終わったが、それでも当時都では将門が西の藤原純友と共に都に攻めて来るとのデマが流れ、都人はこれに脅えた。生前も死後も、実態以上に大袈裟に語られ易いタイプの人間なのかも知れない。
 ま、だからといって薩摩守が首塚に軽々しく接しようとは思わないが(苦笑)。


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令和三(2021)年六月八日 最終更新