第陸頁 崇徳上皇……最強怨霊、被害も甚大且つ長期なり

怨霊にされた人 陸
名前崇徳上皇(すとくじょうこう)
生没年元永二(1119)年五月二八日〜長寛二(1164)年八月二六日
身分上皇、流刑者
理不尽な仕打ち強制退位、息子への譲位阻止、納経拒否
怨めしい相手鳥羽法皇、後白河天皇
「怨霊の影響」後白河法皇后達の連続死。皇族政権の凋落
略歴 元永二(1119)年五月二八日、鳥羽天皇を父に、その中宮・藤原璋子(待賢門院)を母に第一皇子として生まれた。諱は顕仁(あきひと)。

 生後一ヶ月も経ない六月一九日に親王宣下を受け、保安四(1123)年一月二八日に五歳で皇太子となり、曾祖父・白河法皇のごり押しで同日、鳥羽天皇から譲位され、、翌保安五(1124)年二月一九日に正式に即位し、第七五代天皇となった。
 だが大治四(1129)年七月七日、院政創始者として栄耀栄華(と書いて、「やりたいほうだい」と読む)を極めていた白河法皇が崩御すると、父・鳥羽上皇が院政を開始し、崇徳天皇の待遇は急転直下した。

 というのも、鳥羽上皇は祖父・白河法皇に疎んじられていて、崇徳天皇は白河法皇が自分の中宮に手を付けて生まれた子供と見做していて、息子である崇徳天皇を陰では「あの叔父御(つまり自分の子ではなく、白河法皇の御落胤だから、自分にとっては叔父になるということ)」と呼んでいた。
 院政を開始した鳥羽上皇は、永治元(1141)年一二月七日、寵愛していた藤原得子の子・体仁親王を即位させんとして、崇徳天皇に譲位を強要した。体仁親王は近衛天皇として即位したが、彼は崇徳上皇の中宮・藤原聖子の養子となっていたので、崇徳上皇と近衛天皇は公式には養子関係にあった。
 それゆえ近衛天皇は崇徳上皇の「皇太子」の筈だったのだが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた。つまりこれは「上皇が我が子の政務を補佐する。」という院政のコンセプトから崇徳上皇と近衛天皇の関係は該当しない、と宣言するもので、将来の崇徳院政を否定したに等しかった。

 えげつないまでの鳥羽法皇の崇徳上皇に対するいじめだったが、それでも崇徳上皇には希望が有った。和歌の道に生きる崇徳上皇に対して、鳥羽法皇は和歌に関心のない人物だったので干渉せず、近衛天皇も兄を立て、崇徳上皇の子・重仁親王にもそれなりの待遇が与えられていた。
 体が頑丈でない近衛天皇には子が無く、近衛天皇に不幸があれば次の帝は重仁が最有力で、重仁が即位すれば将来的には崇徳上皇の院政も可能と見られた。だが、鳥羽法皇は白河法皇憎しの念から崇徳上皇も嫌い抜いており、久寿二(1155)年七月二三日、病弱だった近衛天皇が一七歳の若さで崩御すると、崇徳上皇の弟である雅仁親王を次の帝とした(後白河天皇)。

 崇徳上皇はこの決定に愕然とした。
 というのも、雅仁親王は当時二九歳で、崩御した近衛天皇より一二歳も年長だった。にもかかわらず崇徳天皇退位時に後継者に選ばれなかった人物で、当然立太子されたこともなく、崇徳上皇もこの期に及んで雅仁親王に皇位が回るとは思わず、弟よりは自分の子の方が有力候補と思っていた。
 だが、鳥羽法皇は愛息・近衛天皇は崇徳上皇と懇意だった藤原頼長の呪詛により死んだと信じていたらしく、崇徳院政の望みは粉々に打ち砕かんとの想いが有ったと云う。

 失意の崇徳上皇だったが、保元元(1156)年五月、鳥羽法皇が病に倒れたことで状況が動き始めた。同年七月二日、鳥羽法皇は崩御。臨終の見舞いに訪れた崇徳上皇を足止めさせ、側近に自身の遺体を崇徳上皇に見せないよう遺言した程だから、尋常な嫌い振りではなかった。
 そして死の間際に鳥羽法皇は崇徳上皇を牽制する様々な手を打っていた。崩御三日後の七月五日、崇徳上皇が左大臣・藤原頼長と組んで反乱を起こそうとしているとの噂が洛中に流され、法皇初七日の七月八日に、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を集めること禁ずる綸旨が後白河天皇によって諸国に下された。
 同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の兵に摂関家の邸宅・東三条殿を没収させた。ここまで来ると崇徳上皇のみならず、上皇と懇意な者達までが完全に犯罪者扱いだった。

 これ等の仕打ちを受け、堪忍袋の緒が切れた崇徳上皇は七月九日夜中、鳥羽田中殿を脱出。翌一〇日には、頼長も宇治から白河北殿に入り、崇徳上皇の元には源氏から源為義・頼賢・為朝父子が、平氏からは平忠正(清盛の叔父)等が集結した。
 この動きを受けて後白河天皇方は、崇徳院の動きを謀反と断じて武士を動員。自分の元に駆け付けた平清盛、源義朝等を信西に組織させ、一一日未明、白河北殿へ夜襲を掛けさせた。
 いわゆる保元の乱で、自らの側近である頼長が「卑怯」として退けた夜襲逆に受けた上皇方は周章狼狽。強弓の士・源為朝の奮戦も空しく大敗した。そして二日後の一三日、崇徳上皇は仁和寺に出頭し、弟の覚性法親王に取り成しを依頼した。だが同母弟にも関わらず覚性法親王は申し出を拒絶したばかりか、兄を軟禁して監視下に置かせた。

 勝利を収めた後白河天皇方では戦後処理を進め、崇徳上皇は讃岐への流罪となった。
 同月二三日、崇徳上皇は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、讃岐国へ護送された。死を免れたとはいえ、天皇・上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路島配流以来、四〇〇年振りの出来事で、死刑を停止していた当時にあっては極刑に近かった(武士達に対しては斬首刑も復活した)。

 同行を許されたのは寵妃・兵衛佐局と僅かな女房だけで、軟禁生活を強いられた崇徳上皇は仏教に深く傾倒した。
 極楽往生を願う一方で弟・後白河上皇保元の乱の三年後に退位して院政開始)に対して赦免要請にも努めていた。五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念(一説には血で書いたとも云われている)し、保元の乱における戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めて欲しいと朝廷に差し出した。
 ところが、あろうことか後白河上皇「呪詛が込められているのではないか?」と疑って受け取りを拒否し、写本を送り返した。
 私見を挟むが、薩摩守は後白河天皇を源頼朝と並行してその人格を嫌っており、この行為には「自分を基準に物事を考えるな!」という罵声を浴びせたい。
 この仕打ちを激しく怒り恨んだ崇徳上皇は、本当に呪詛する道を選び舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」、「この経を魔道に回向す」と血で書き込み、以後、爪や髪を切らずに伸ばし続け、夜叉・天狗の姿を模して後白河上皇のみならず、朝廷そのものも恨み抜いたと云われている。
 そんな怨嗟の日々を送った失意の崇徳上皇は二度と京の地を踏むことはなく、保元の乱から八年後の長寛二(1164)年八月二六日に崩御した。崇徳上皇享年四六歳。


死後の経過と祟り(?) 憤死とも云える非業の死を遂げた崇徳上皇だったが、こんな悲惨な最期の報を受けたからと云って、反省するような玉ではなかった、後白河上皇は。
 『百錬抄』によると、「太上皇(←崇徳上皇のこと)、服喪の儀なし。」と書かれ、『皇代記』によると国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置は何もなかった。つまりは皇族と認めなかったと云っても過言ではなく、最低限の供養さえ拒否したのである
 崇徳上皇と同様に保元の乱で罪人として配流された藤原教長らが帰京を許され、乱にて戦死した藤原頼長の子・師長が後白河上皇の側近になっても崇徳上皇は罪人として軽視・無視され続けた。

 だが安元三(1177)年になると状況は一変した。
 この年、延暦寺の強訴安元の大火鹿ケ谷事件が立て続けに起こり、既に後白河法皇と平家の蜜月状態が終わっていたこともあって、世の中は不安定な様相を見せ始めた。
 『愚昧記』によると同年五月九日の日記に崇徳上皇と藤原頼長の怨霊を疑った旨が記述され、四日後の五月一三日の記述によると、前年である安元二(1176)年における建春門院、高松院、六条院、九条院といった後白河法皇に近しい人々の相次ぐ死に対して崇徳上皇や頼長の怨霊が意識されていたらしい。
 三年前に清盛を失い、平家が既にすっかり力を落としていた寿永三(1184)年四月一五日の記述では、藤原教長が崇徳上皇と頼長の怨霊を神霊として祀るべきと主張しており、同日、保元の乱の古戦場である春日河原に崇徳院廟設置され、崇徳上皇が崩御した直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現・白峯寺)に対しても官の保護が与えられることとなった。
 そして罪悪感が欠片も無い後白河法皇もこれら一連の動きを無視出来ず、怨霊鎮魂の為に保元の宣命を破棄し、八月三日に崇徳上皇の院号を「讃岐院」から「崇徳院」に改め、頼長には正一位太政大臣が追贈された。

 その一方で、崩御の地である四国における崇徳上皇は、怨霊よりも守護神とされた面が強かった。
 鎌倉時代初期に承久の乱で土佐に流された土御門上皇(後白河法皇の曾孫)は崇徳天皇御陵にて慰霊の為に琵琶を弾いたところ、夢に崇徳上皇が現われて、土御門上皇が都に残してきた家族の守護を約束したと云う(後に土御門上皇の遺児であった後嵯峨天皇は鎌倉幕府の推挙により皇位に就いた)。
 また、室町時代には管領で、足利義満側近となった細川頼之が讃岐守護となった際に崇徳上皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功したことから、以後細川氏は代々において崇徳上皇の霊を守護神として崇敬した。

 朝廷の滅亡を呪い、菅原道真と並ぶ「最強の怨霊」とされた崇徳上皇への慰霊はその後も続き、慶応四(1868)年八月一八日、明治天皇は自らの即位の礼を執り行うに並行して勅使を讃岐に遣わし、崇徳上皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。これにより崇徳上皇は七一二年振りに帰洛が叶った。
 そして崇徳天皇八百年祭に当たる昭和三九(1964)年、昭和天皇は香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。崇徳天皇九百年祭が行われるであろう2064年まで後、四八年…………………一応、薩摩守が人間技で生きられない未来ではない。一つ長生きして見るとするか(笑)。


祟り(?)への疑念 まあ、崇徳上皇が怨霊化するのは「無理も無い………。」と思ってしまうほど同情の余地に溢れる悲惨な生涯である。
 まず生まれ落ちた環境からして険悪である。前述した様に、顕仁として生まれ落ちた彼が白河法皇の子だったのか、鳥羽天皇の子だったのかが完全に判明するには現代の常識を遥かに上回る科学の発達でもない限り不可能だろう。だが、この怪しげな背景の為に顕仁が鳥羽上皇に憎まれて育ったのが完全に崇徳上皇の不幸の始まりだった。

 まんの悪いことに、白河法皇自身は顕仁を猫可愛がりし、鳥羽天皇に顕仁への譲位を強要した。そしてその報復の如く、白河法皇の死後、鳥羽法皇は崇徳天皇に弟・体仁(近衛天皇)への譲位を強要した。
 加えて悲惨だったのは、鳥羽法皇自身が崇徳上皇を抜きにしても好き嫌いの激しい人物だったことにある。兄弟順でいえば、崇徳天皇の弟して天皇の位が巡って来るのは雅仁(後白河天皇)になる。だが、鳥羽法皇は妃への寵愛を基準として、雅仁よりも幼い体仁を即位させた。こうなると一度候補から外れた雅仁の即位は絶望的になるのが世の常で、崇徳上皇も、病弱な近衛天皇が子を為す前に崩御すれば(実際そうなったのだが)、自分の子・重仁が即位すると見ていたのに、鳥羽法皇は雅仁を即位させた上、雅仁→後白河天皇の次の天皇は後白河天皇の子として、重仁即位の可能性を完膚なきまでに叩き潰した。
 推測でしかないが、鳥羽法皇の中で、息子達に対する愛情順位は、

 体仁(近衛天皇)>>>>>>雅仁(後白河天皇)>>>>>>>>>>>>>>>顕仁 (崇徳天皇)

 となって、いたのだろう(譲位を強要されたとはいえ、近衛天皇存命中の崇徳上皇や重仁の待遇は悪くなかった)。

 そして崇徳上皇にとって、父親との相性もひどかったが、輪を掛けて酷かったのが弟・後白河天皇とのそれだった。
 過去作でも何度か触れているが、薩摩守は後白河天皇の人格を認めていない。恐らくは雌伏の時を経て天皇に即位して以来、彼の中では「すべての者は「治天の君」たる自分に服従すべし!」と思っていたのだろう。但し、後白河天皇は自己中ではあっても、馬鹿ではない。
 時の朝廷が武士の力無しに成り立たないことは認識していたので、利用出来る者、忠実な者であれば、(腹の中での印象はどうあれ)好意的に接することに躊躇いは無かった。そんな後白河天皇だから、天皇に即位すると上皇の権威など認めず、崇徳院政を拒絶し、親政を強調した(天皇親政が当然、と主張しながら、保元の乱の三年後に退位して院政を開始したのだからふざけた話である)。
 当然、保元の乱に敗れた者達には厳罰を以て接し、兄である崇徳上皇にも容赦が無かった。罪を許さなかっただけでなく、謝罪行為すら拒絶し、崩御後の供養すら皇族待遇を与えられなかったのだから(悪い意味で)徹底していた。

 かかる仕打ちを受け、憤死に近い最期を遂げた崇徳上皇は明らかに後白河天皇を呪い、引いては朝廷そのものを呪う意を明言していた。怨霊の実在への真偽はともかく、崇徳上皇が死後に怨霊化することを望んでいたことに疑いの余地はないだろう。
 ただ、「崇徳上皇の呪い」を考えたとき、後白河天皇の妃達が次々と夭折し、後白河天皇の手練手管にもかかわらず時の政権が武家社会に移行し、明治に至るまで皇室が政権を握れなかったことを考えれば、後白河天皇を怨み、「民をもって王と為す。」という崇徳上皇の呪詛は半分叶った感じである。
 肝心の後白河天皇は、その後上皇、法皇となり、(思い通りに運ばなかったことも多かったが)やりたい放題を尽くして天寿を全うしたし、皇室も「権力」は喪失しても「権威」は持ち続けたから、崇徳上皇の呪詛も肝心な相手に対して中途半端だった様に思えてならない。

 薩摩守的には、「呪うなら後白河法皇一人にしておけ。」と云いたくなる話ではある。崇徳上皇のすべてが呪わしく思えてならなかった悲惨な境遇は分からないでもないのだが。


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令和三(2021)年六月八日 最終更新