第漆頁 後醍醐天皇……祟る前に我が身を振り返れや
怨霊にされた人 漆
名前 後醍醐天皇(ごだいごてんのう) 生没年 正応元(1288)年一一月二日〜延元四/暦応二(1339)年八月一六日 身分 天皇 理不尽な仕打ち 無 怨めしい相手 足利尊氏 「怨霊の影響」
略歴 正応元(1288)年一一月二日、後宇多天皇を父に、 五辻忠子を母に、第二皇子として生まれた。諱は尊治(たかはる)で、「尊」の字が足利高氏に下賜されたことで、足利尊氏になったのは有名である。
当時皇族では皇位を巡って大覚寺統(後嵯峨天皇の次男・亀山天皇系)と持明院統(後嵯峨天皇の長男・後深草天皇系)が対立し、鎌倉幕府の仲介で両統が皇位を譲り合っていた(実際は奪い合い)状態にあった(両統迭立)。
嫡男でさえ皇位に着くのは一苦労で、即位後も退位への圧力を食らいまくる時代にあって、次男であった尊治には皇位は縁遠いか、即位出来てもすぐにおさらばとなりかねないものだった(実際皇位を追われたこともあった)。
参考:大覚寺統・持明院統系図
徳治三(1308)年、持明院統の花園天皇が即位したのに伴って皇太子に立てられ、文保二(1318)年二月二六日の花園天皇の退位を受けて、三月二九日に即位し、三一歳で後醍醐天皇となった。
即位後三年間は父・後宇多法皇が院政を行ったため実権は無かった。しかも後宇多法皇の遺言では、後醍醐天皇は亡き兄・後二条天皇の遺児・邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎでしかなかった。
後々「天上天下唯我独尊」、「世界は自分を中心に回っている」、「自己チュー」を地で行く思想で人生を送った後醍醐天皇が当時の境遇を我慢出来るはずなく、怒りの矛先は持明院統にも、鎌倉幕府に対しても向かい、その度合いを増幅させていったのだった(←早い話、自らの皇位・政権に反対しかねない存在は全員敵視した訳やね)。
倒幕を策謀した後醍醐天皇だったが、正中元(1324)年、六波羅探題にその動きを嗅ぎ付けられ、側近・日野資朝等が処分された(正中の変)。日野達は後醍醐天皇の身代わりで処罰された訳だが、後醍醐天皇はこれに感謝するでもなく、懲りるでもなく、その後も倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳二(1329)年関東調伏の祈祷を行わせた。
だが、幕府以外にも、持明院統や、身内である大覚寺統にも敵の多かった後醍醐天皇は次第に窮地に陥った。見かねた側近の吉田定房は元弘元(1331)年に後醍醐天皇の再度の倒幕計画を敢えて密告。無謀な計画を実行に移して敗れて厳罰に処されるよりは、未遂に終わらせて軽い処分で収めようという定房なりの忠義による苦渋の決断だったが、後醍醐天皇は京都を脱出し、三種の神器を持って挙兵した。
だが比叡山に相手にされず(笑)、笠置山(現・京都府相楽郡笠置町内)に籠城したが、幕府軍に敗れ、捕らえられて隠岐島へ流刑となった(元弘の乱)。
幕府は後醍醐天皇を廃位とし、皇太子・量仁親王(←勿論持明院統)を光厳天皇として即位させた。後醍醐天皇は、承久の乱の先例に従って謀反人とされた訳だが、良くも悪くも「信念の人」である後醍醐天皇の辞書に「懲りる」と云う字は無い(苦笑)。
元弘三年/正慶二(1333)年、名和長年等を頼って隠岐島から脱出すると伯耆船上山(現・鳥取県東伯郡琴浦町内)にて挙兵。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏が味方について六波羅探題を落としたのを皮切りに、東国で挙兵した新田義貞が鎌倉を陥落せしめ、鎌倉幕府は滅亡した。
帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位及び在位を否定。光厳天皇の元で行われた人事をすべて無効とし、幕府も摂関も廃しての親政を開始した(所謂建武の新政)。
両統迭立に対しても、持明院統を否定しただけでなく、大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児達をも皇位継承から外した。つまりは自分の子々孫々で皇統を独占せんとした訳だが、そもそも後醍醐天皇の血統自体、大覚寺統的に見ても傍流で、父の遺言を反故にするものでもあった(上述の系図参照)。
かくして建武の新政は当然の様に専制君主・後醍醐天皇による独裁(と云い切ると語弊があるが)路線を走った。だが功績よりも自身の好き嫌いを重んずる後醍醐天皇の自己チュー施政は、性急な改革・恩賞の不公平・朝令暮改の繰り返し等により、倒幕に功績のあった武士は勿論、貴族、大寺社からも嫌われ、陰で無能の誹りを受け、徐々に敵を増やした。
あまつさえ、実子の護良親王さえ、倒幕の功績をたてに征夷大将軍の地位を望んだことで疎んじ、自分に反発している筈の足利尊氏の言を受けて鎌倉に配流する始末だった。
かくして新政からは足利尊氏が離反。後醍醐天皇の元には天皇に対する絶対忠義から従った楠木正成を例外とすると、後は新田義貞の様に尊氏と敵対する者が「敵の敵は味方」という理屈的に後醍醐天皇に従った。
建武二(1335)年、中先代の乱(北条高時の遺児・時行を擁しての旧幕府勢力の反乱)鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が鎮圧に付き従った将兵に鎌倉で独自に恩賞を与え出すと、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じた。
義貞は敗れたが、楠木正成や北畠顕家等の活躍もあって、後醍醐天皇方は尊氏を大敗せしめ、尊氏は九州へ落ち延びた。だが、尊氏はすぐに九州で態勢を立て直し、退位させられていた光厳上皇の院宣を得て、新たな大義名分を得て京都に迫って来た。
後醍醐天皇に絶対の忠義を持ちつつも、現実重視者でもあった楠木正成は尊氏との和睦を進言した。だが忠義と理想の両方を求める後醍醐天皇 (苦笑)は、正成の建言を容れず、義貞と正成に尊氏追討を命じた。だが戦いは新田・楠木軍の大敗終わり、義貞は都に逃げ帰り、正成は弟と刺し違えて命を絶った(湊川の戦い)。
尊氏が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れた。そこへ尊氏方から和睦要請があると三種の神器を尊氏方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院宣により持明院統から光明天皇を新帝に擁立し、征夷大将軍に任じられて室町幕府を開府した。
だが、退位し、花山院に籠った筈の後醍醐天皇はそこを脱出し、奈良吉野に入ると、「尊氏に渡した神器は贋物である。」として、自らの退位を虚偽、光明天皇の即位を無効とし、ここに南北朝時代が始まった訳だが……………はっきり云って、やっていることがセコイ…………他人の非は責めまくるのに、自分がどんな汚い手を使ってもそれは意に介さないのね……。
ともあれ、後醍醐天皇は、親王達を新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、他の親王達も九州、関東、奥州へ送って南朝方勢力として北朝方に対抗させんとした。だが程なく後醍醐天皇は病に倒れ、延元四/暦応二(1339)年八月一五日、義良親王に譲位(後村上天皇)した。
そして吉野金輪王寺で後村上天皇に朝敵討滅・京都奪回を遺命し、これに従わぬ者は身内でも子孫と認めず、何者も朝臣と認めない、と述べて翌一六日に崩御した。後醍醐天皇享年五二歳。まさに執念の生涯だった。
死後の経過と祟り(?) 身も蓋も無い云い方をすれば、後醍醐天皇の怨霊化は『太平記』に記載されたもので、フィクションである。その『太平記』の第三部(巻二三〜四〇)に後醍醐天皇率いる南朝関係者の怨霊が登場する。
ここで少し『太平記』の構成について触れたいが、全四〇巻、三部構成となっている。 第一部が巻一〜一一で、後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡が描かれている。第二部は巻一二〜二一で、建武の新政の失敗と南北朝分裂から後醍醐天皇の崩御までが描かれている。そして第三部は南朝方の怨霊が跳梁跋扈して足利幕府に内部混乱を来たすものとなっている。
そして注目すべきは巻二一で終わる第二部と、巻二三で始まる第三部の間で巻二二が欠落している。勿論その行方も、内容も、欠落した原因も詳らかであない。
そもそも『太平記』には誰が作者なのかを初めとして謎が多く、皇国史観全盛期には南朝方の楠木正成がスーパーヒーローとなり、足利尊氏が「日本史三大悪人」の一人にされるに及ぶと様々な圧力で改訂(または改竄)が行われたであろうことは想像に難くない。
故に真偽に関しては敢えて触れられない。ただ、そういうネタが為された背景があったものとして、『太平記』に準拠して語ると、後醍醐天皇の怨霊は崇徳上皇、後鳥羽上皇、淳仁天皇等と日本を動乱に陥れる相談をするという形で登場した(ちなみに座長は日本史上最大怨霊である崇徳上皇)。
崇徳上皇は前頁にて通りで、後鳥羽上皇は承久の乱、淳仁天皇は恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で敗れ、流刑先で無念の死を遂げた(後鳥羽上皇は病死だが、淳仁天皇は極めて不自然なタイミングで死んでいる)。同時に彼等は後醍醐天皇同様、朝廷内の皇位を巡る醜い争いに苦しんだ経験を持つ。
またかつての皇族以外にも、後醍醐天皇は生前自らが従えた護良親王、新田義貞、楠木正成等も率いており、中でも正成は巻二三にて、尊氏配下の大森彦七が持つ刀(←徳川家に対する妖刀・村正の様な存在らしい)を奪おうとした。
大森達は一度死んだ者を再度殺せないという怨霊の反則的な特殊性に苦しんだが、、「鎮めるには大般若経を読むのが一番」という助言を得た縁者の禅僧が大般若経を読誦したことで何とか怨霊達は鎮まった。
ともあれ、『太平記』では皇位や皇統を巡る史上の怨霊達の無念がぶつけられたかの如く、彼等の談合に祟られたことで足利幕府は尊氏、義詮、義満の三代に渡って南北朝の対立に苦しんだとされている。
また確かな史実として、尊氏は後醍醐天皇崩御の報を受けて、夢窓疎石の勧めに従って後醍醐天皇供養の為に全国に安国寺を、京都嵯峨野に天竜寺を建立している。
祟り(?)への疑念 本来、後醍醐天皇に怨霊になる資格(?)は無い、と薩摩守は考えている。
自己チュー男・後醍醐天皇に云わせれば、北朝が存在し、自分が吉野の山中に無念の内に死す羽目に遭った段階で、(自らの行いを思い切り棚に上げて)「怨む権利がある。」と考えるだろうが、その何十倍もの人間が後醍醐天皇を怨みたいことだろう。
故にここで白状しておきたいのは(苦笑)、「後醍醐天皇を批判する為に本作で採り上げた。」ということである。これまた過去作で幾度か触れているが、薩摩守は歴代天皇の中では、後白河天皇と並んで後醍醐天皇を人格的に買っていない。
現代に比べて人権意識が希薄で、君主=絶対者としてのカラーが濃い時代に在って、天皇が多少わがままや自己チューになるのは止むを得ないものがあるのを考慮しても、後白河天皇と後醍醐天皇は「度が過ぎるし、利用する時の節操が無さ過ぎる!」と薩摩守は思っている。
後醍醐天皇は今際の際に、「平和だけが朕の望みだった…。」として後村上天皇に「朝敵」(←勿論、自分の敵)の討滅を遺言したが、そもそも平和を乱したのも、平和の存続を阻害したのも自らの失政や「治天の君」への執着に在ったことを全く意識していないから質が悪い。
逆に立場上敵に回りながらも敬意を持ち続け、供養にも努めた足利尊氏の方がよほど人格者で、後醍醐天皇によって「朝敵」認定を受けて無念の内に戦死した足利家の兵士の方がよほど祟りたかったことだろう。
皇国史観論者や、皇室絶対尊崇者達の批判・避難を覚悟の上で叫ばせてもらう。
「後醍醐天皇よ、御前に人を祟る権利も資格も無い。御前は怨みを受ける方だ。」
と。
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戦国房へ戻る令和三(2021)年六月八日 最終更新