第伍頁 片倉景綱・・・・・・生きても死んでも伊達家を救った冷徹者

名前片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)
暴走を止めた主君伊達政宗
最終的な肩書き仙台藩重臣
片倉景長
後継者片倉重綱
暴走の止め方情を失わない理知整然型
略歴 一般には小十郎の通称で有名な片倉景綱は弘治三(1557)年の生まれで、後の主君・伊達政宗より一〇歳年上である。

 武家の生まれではなく、米沢の成島八幡神社の神職・片倉式部景長を父に、本沢刑部真直の娘である母との間に生まれ、兄の片倉景広は米沢八幡神職を継ぎ、異父姉・喜多(政岡とも云う)は後に政宗の乳母となった。

 政宗の父・輝宗に徒小姓として仕えたのが伊達家への奉公の始まりだが、永禄一〇(1567)年に輝宗の嫡男・梵天丸(勿論後の政宗)が産まれると、異父姉・喜多が乳母に選ばれた縁か、小姓時代の輝宗の覚えが良かったためか、伊達藤五郎(政宗の一歳年下の従弟で、元服後、伊達成実となった)と供に梵天丸の小姓に選ばれた。
 骨肉の争いも珍しくなかったこの時代に伊達輝宗ほど我が子を愛した人物も珍しく、梵天丸の教育者として虎哉禅師が招聘されたのは有名だが、輝宗は梵天丸二歳の時には儒学の師として相田康安を岩城から招いた。
 勿論二歳の幼児に儒学をいきなり理解出来る訳もなく、まずは喜多と景綱が康安に師事することとなった。

 梵天丸六歳の時に虎哉禅師が招聘されると、景綱もまた成実とともに虎哉に学んだわけだが、そういった教育環境もあってか、後々伊達政宗片倉景綱に伊達成実と鬼庭綱元の四人は主従というより友のような強い絆の関係を(一時成実が抜けたが)終生持続した。  昭和六二(1987)年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で、この四人、政宗を渡辺謙氏が、景綱を西郷輝彦氏が、成実を三浦友和氏が、綱元を村田雄浩氏が演じ、家督を継ぐ寸前の政宗が丸で時代の結束を誓うように他の三人と膳を囲んで両手を握り合っていたシーンは今でも道場主の脳裏に焼き付いている。


 梵天丸が九歳のとき、景綱は伊達家家老・遠藤基信の推挙によって正式に政宗の近侍となった。
 家老・基信は、元は伊達家重臣・中野宗時の家臣だったが、宗時が輝宗暗殺企んだときにこれを密告してを未然に阻止してた功績で輝宗に家老に取り立てられていた人物だった。輝宗が殺されたときには追い腹を切ったほど輝宗とは強い絆で結ばれていた人物で、そんな基信の推挙を受けた意味は極めて大きかった。
 ともあれ、以後景綱政宗が一八歳で家督を継ぐ二年前の天正一〇(1582)年の初陣以来、重要な戦には必ずと云って良い程従軍し、弾丸の様に敵陣に切り込み「武の成実」と呼ばれた成実とは対称的に、常に二重の策を用意し、偽り敗走・伏兵を併用した陣頭指揮で臨戦した景綱「智の片倉小十郎と呼ばれ、敵味方に恐れられた。

 人取橋の戦い郡山合戦摺上原の戦い等を経て、政宗は会津の名門芦名氏を滅ぼし、奥州に覇を唱えるに至るが、ここに政宗の生涯最初の大敵が立ちはだかった。
 大敵の名は豊臣秀吉。それまでの政宗は敵を見くびったりしない一方で、まともに恐れたことも無かった。だが、さすがのことときは勝手が違った。
 伊達家は小田原の北条氏政・氏直との同盟を利して秀吉に対抗戦とするタカ派と、関白の意向を以って迫る秀吉に逆らうまいとするハト派の対立(と白黒はっきり断じられる単純な物ではなかったのだが…)が対立し、ことは政宗の母・義姫が次男・小次郎を焚き付けて政宗を暗殺せんとするに至った。
 政宗は実母に毒殺されかけ、挙句には実弟を自らの手で斬り、実母を追放せざるを得ないという、人生で三本の指に入る悲劇に見舞われた。

 紆余曲折を経て、結局政宗は小田原に参陣し、強敵・芦名を滅ぼして得た会津を没収されるも改易は免れ、葛西・大崎一揆の鎮定を経て伊達家は米沢から岩出沢に五八万石の居を構えた。
 この間、景綱政宗の懐刀として常に政宗の側にあり、人たらし男・秀吉に三春五万石(政宗の正室・愛姫(めごひめ)の実家・田村家の領土)の大名として取りたてることを条件に自らの直臣になるよう誘いかけられたこともあった。
 勿論景綱は伊達家への忠誠を貫くとしてこれを丁重に断った(余談だが、秀吉は上杉景勝の重臣・直江兼続にも似たような誘いをかけている)。

   正室・愛姫と庶長子・兵五郎(後の伊達秀宗。宇和島藩伊達家始祖)を京に人質に取られるなどの幾ばくかの屈辱に甘んじたものの(伊達家だけじゃありませんけどね)、豊臣政権下で一応の地位を保った。
 やがて政宗朝鮮出兵に従軍し、秀吉死後に長女・五郎八姫(いろはひめ)と徳川家康の六男・松平忠輝との婚約を皮切りに徳川家と急接近した。
 そして慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いでは東軍の当初の征伐先であった上杉景勝軍との戦いを伊達家が担い、その功により、伊達家は六二万石を有し、仙台に本拠を置くこととなった。
 その二年後に一国一城令が出て、各藩の城は一つだけを除いてすべて破却するよう命じられたのだが、景綱の白石城一万三〇〇〇石だけは特例として残され、以後片倉家は幕末までこの地を領有し続けた(幕末に片倉家当主は北海道に入植し、入植先が札幌市白石区と名付けられたのは片倉氏の旧領に因む)。これは異例中の異例であった。


 こうして内政・外交・軍事のほぼすべてに渡って主君・政宗を支えてきた景綱だったが、さすがの彼にも限界が訪れた。
 大坂の陣には病のために従軍が叶わず、嫡男・小十郎重長が従軍した。重長は猛将・後藤又兵衛を討ち取る大活躍を遂げ、「鬼の小十郎」と畏怖され、この活躍をもって小十郎の名は家督とともに景綱から重長に譲られたのであった。

 大坂夏の陣の最中、政宗の婿・松平忠輝に関する問題(忠輝勢が戦場に遅参し、将軍秀忠の旗本を無礼討ちにした)や神保勢同士討ち事件(伊達鉄砲隊が戦場で敗走した神保相茂隊を敵軍諸共一斉射撃で全滅させた)、キリシタン問題(大坂城下のキリシタンが大勢伊達陣に逃れんとして斬られた)等の事件が政宗の周囲にて連発していた。
 只でさえ「独眼竜」を自称し、天下への野望を捨て切れないと目された政宗の身辺は穏やかならないものとなった。
 そんな渦中の主君・政宗が見舞に訪れた際、景綱は戦の終わった世で政宗並びに伊達家が泰平を乱す不穏分子とみなされないよう、五ヶ条の遺言(詳細後述)を残し、後々政宗もよくこれに従った。

 元和元(1615)年一〇月一四日、片倉小十郎景綱没、享年五九歳。訃報を耳にした政宗は、

 小十郎景綱は死んだのではない。借り物の肉体を返したまでよ。」

 と云って悲しみを隠しながら景綱の身は滅びても、心は伊達家の中にて滅ぼさせまいとの決意を固めるのだった。



Stop! My Boss 前頁の明石全登同様、片倉小十郎景綱も様々な意味において、伊達政宗にとってのストッパーだったと云える。
 何故なら、景綱のストッパーとしての役割はただの諫言役の域に留まらなかったからである。

 景綱のストッパーとしての第一は政宗がまだ梵天丸と呼ばれていた頃に遡る。
 梵天丸が一歳の時に疱瘡(天然痘)を患い、一命は取り留めたものの、右目を失ったのは余りにも有名だが、疱瘡の毒が回った右眼の眼球は視力を失っただけではなく、眼窩から飛び出し、その容貌に劣等感を抱いた梵天丸は無口で、内向的な幼年期を過ごした。
 そこで景綱梵天丸を侍医のいる部屋に引っ張っていき、自ら梵天丸の頭を抱え込み、短刀で一気に眼球を抉り出した!
 現代の視点で見たらどんでもない荒療治だったが、これをきっかけに吹っ切れた梵天丸は暗い性格から快活で文武両道に精進し始めたと云われている。
 つまりは「梵天丸のネガティブな日々」に対してストッパーとなった訳である。

 次にストッパーとなったのは天正一三(1585)年の伊達輝宗暗殺後のことであった。
 父・輝宗を騙まし討ち同然に殺した畠山義継に対して怒りの収まらない政宗はその場で討ち取った義継の首を目玉を刳り抜き、耳を削ぐと云う無惨な形で晒しただけでなく、二本松にも兵を進めんとした。
 だが、景綱政宗の義継に対する仕打ちが街道七家(佐竹・芦名・相馬・白川・石川・岩城・畠山の七家)の怒りを買い、結束を固めさせたであろうことを説いて年内の出兵を諌めた。
 この説得は聞き入れられず、政宗は軍を発したが、直後の人取橋の戦い政宗自身も負傷し、危機に陥った政宗を救う為、老骨に鞭打って斬り込んだ鬼庭左月(綱元の父)の犠牲を経てようやく民家に避難する有り様だったから、結果論的に景綱の指摘が正しかったことが分かる。
 そして、この時景綱は「我こそは伊達藤次郎政宗なり!」と叫んで敵の注目を集め、左月とともに政宗退却に一役買った。つまり殿軍(しんがり)として政宗追撃に対するストッパー役を果たしたのであった。


 景綱のストッパー振りは年を追う毎に円熟味と切れ味を増していった。
 最大のストッパー振りは何と云っても小田原参陣を巡る伊達家中での口論だろう。
 「政宗対義姫・小次郎」という最悪の対立さえ生んだ回答の出し辛い難題に結局政宗は秀吉との徹底抗戦を選ぼうとした大勢の意見ではなく、景綱達の説いた少数意見であった帰順を取り入れた。
 白装束に黄金の十字架をもってのパフォーマンスは遅参による改易を会津没収程度(確かに充分手痛い処置ではあるのだが)に収まったのは、いざという時に揺れる家中を無視して政宗景綱に対する信頼に端を発する両者のコンビネーションの賜で、景綱がストッパーとして未然にストップさせた殉難は計り知れないものがあった。


 圧巻なのは景綱が病に倒れて尚、その恐るべき慧眼が為したストッパー振りだった。
 床の中からも景綱は伊達家に災いを為す要因を見抜き、死の床から政宗に数々の遺言を発した。
 既に大坂の陣も終結していたが、景綱は病のために従軍出来ず、嫡男・小十郎重長を従軍させ、猛将・後藤又兵衛を討ち取る大手柄を立てさせたが、夏の陣における伊達勢の動きに天下を併呑せんとする野望ありとあからさまに幕閣に睨まれた伊達家の立場と、江戸幕府の体制が盤石化した状況を見据えた景綱は、

 「一、徳川家康亡き後の将軍家が器量不足と見ても腹を立てないこと、
 ニ、松平忠輝のこと、
 三、最上家に追放した母・保春院(義姫)を引き取ること、
 四、南蛮人側室マリアをいつまでも側に置いて幕府に睨まれることがない様取り計らうこと、
 五、泰平到来を知らずにイスパニア王の助力を取り付けようと渡欧中の支倉常長を事情知らないまま帰国させないこと。」


 の五ヶ条を遺言として政宗に願い出た。
 政宗は「一」に対しては家康亡き後も秀忠の養女を嫡男忠宗の正室に迎えたり、家光の将軍就任時にの有名な「生まれながらの将軍」の台詞に追随して天下の大乱に睨みを効かせる姿勢を示したりして幕府への恭順姿勢を怠らなかった。
 「二」に対しては五郎八姫を引き取って忠輝の罪が伊達家に及ばぬ様に取り計らった。
 「三」に対しては最上家に人を遣わして母・保春院(義姫)を引き取る旨を知らせた(実際に引き取ったのは六年後の最上家改易後)。
 「四」に対してはマリアを家臣に下げ渡した。
 「五」に対しては横沢将監を呂宋(ルソン・フィリピンのこと)に派遣してイスパニアの助力を得られずに失意の帰国の途にあった支倉常長に泰平到来を知らせ、密命が幕府側に漏れないようにした(この機密が上手く保持されたからこそ、勝海舟による咸臨丸での太平洋横断は当時「日本人の手による最初の太平洋横断」と見做され、今でもそう思う人は多い。実際は支倉の方が先である)。

 後々こそ家康・秀忠・家光の三代に頼りにされ、「天下の副将軍」とも目された伊達政宗だったが、当初は政宗を曲者と見る者も多く(実際に曲者だったのだが(笑))、景綱の遺言が一つでも欠けていれば、或いは政宗が一つでも履行していなければ、伊達家を恐れる幕閣によって豊臣家の如く因縁をつけるような戦の渦中に陥れられた可能性は充分に大きいものだったと云えよう。
 そんな政局にあっての景綱の逝去は幕閣達に、

 「片腕を失った政宗は反旗を翻す力を失った。」

 とも捉えさせた。
 つまり、景綱は自らの死さえストッパーとして機能させたのだった!

 大きな視点で見れば、景綱の遺言は大坂の陣に続いて起こり得た伊達対幕府の戦をもストップさせたと云える。
 本作最大のストッパーは片倉小十郎景綱かも知れない(「豊臣秀長」の頁でも同じこと書いたが(苦笑))。



ストッパーたり得た要因 一言で云って伊達政宗片倉景綱との絶大なる信頼関係と云える。
 そしてその信頼関係の基礎となったのは政宗を半端じゃなく愛してくれた父・輝宗の熱意で、輝宗が政宗の為に人選した師達は『師弟が通る日本史』に記した様に虎哉宗乙を初め、大正解だったと云えるが、友とも、側近とも云える人材として景綱を配した人選もまた正解だったと云えよう。

 単純な君臣の間柄を越えて政宗はよくこれを信頼し、景綱もまたよくその信頼に応え、政宗の伝記を見る度、景綱の進言・諫言に誤りがない点は「美味しい所どり」と云いたくなる程である。例えて云えば、武田勝頼の伝記を見た時の真田昌幸と云えようか?


 景綱程の非の打ち所のない人物はその優秀さだけでストッパーとなり得るが、基本となるのはやはり人柄で、常に冷静でバランスも取れた男が政宗への忠義となると常識的な判断力を亡くした人間臭さにも注目したい。

 景綱政宗に対する忠義から二回程、常識では考えられない決断を下している。
 一回目は人取橋の戦いで、前述した様にこの戦いで景綱政宗の名を名乗って(騙って?)敵中に切り込んだ。カッコいいのは間違いないが、極めて戦死率の高い危険な賭けであった。
 主君を守る為、主君の名を名乗ったケースと云えば、三方ヶ原の戦いにおける夏目正吉が、関ヶ原の戦いにおける島津豊久・長寿院盛淳が挙げられるが、いずれも壮絶な戦死を遂げている(目的を果たせばこその戦死なのだが)。景綱は本来、この人取橋の戦いが避けるべき戦であることを予見していたから、戦局の不利を悟った折には逸早く離脱することも可能だった。
 だが、政宗のために鬼庭左月とともに危機の中に飛び込んだのだから景綱の忠義は完全に打算や損得を越えていた。

 第二は嫡男・重長が生まれたときである。
 景綱は妻が重長を身篭った時に、主君・政宗にいまだ子供がなく、後に庶長子・秀宗を産んだ飯坂御前もこの直前に流産していたことを慮って、妻に産まれた子が男児であればその命を諦めるように告げた。
 勿論妻が承知する筈もなく、夫婦はひたすら産まれて来る子が女児であることを祈り続けたのだが、これはやがて政宗達の知るところとなり、いくら忠義から来る考えと云え、誰も納得せず、常に助言に従っていた政宗もこれを叱りつけた。
 伊達成実に至っては「うちの前に棄てていけ!」と怒鳴りつけた。つまり殺すぐらいなら自分が拾って育てる、と告げたのである。

 忠義は確かに美徳なのだが、ここまでくると些か、「忠義のための忠義」に思えて、本来の目的である主君のため、御家のため、がおかしなものになってしまっているように思えて仕方がない。
 勿論、薩摩守的には豊臣秀吉に三春五万石の大名として取り立てられようとした時に、秀吉の関白としての面子を上手く保ちつつ、政宗への忠義を堂々と述べて昇格を断ったほどの男である景綱政宗のこととなると冷静さや常識を失うほどの熱意で忠勤に励んでいた、と好意的に捉えたいところではあるのだが。

 つまるところ、人間を他人の為に動かす要因はどれだけ相手のことが好きかなのだろう。
 単純に云えば政宗景綱が好きであり、景綱もまた政宗が好きだったのだろう。大坂の陣の後に帰藩した政宗が真っ先に病床の景綱を見舞ったのもその好例だろう。

 政宗の父・輝宗の例を挙げれば、彼は戦国武将には珍しい程、信心深くて善良で子煩悩な人物だったが、その輝宗に感化されたのか、輝宗が殺害された折には遠藤基信・須田伯耆・内馬場右衛門といった重臣達が次々に殉死し、政宗を落胆させた。
 彼等の殉死は「輝宗への天晴れな忠義」ではあったが、渦中にある政宗にしてみれば「自分を見捨てた行為」にも見え、単純に見ると「英邁な政宗より、人の良い輝宗の方が家臣に好かれた。」とも見える。
 後に殉死は江戸幕府によって禁じられたが、片倉景綱逝去の折には家臣六名が殉死している。そういう点にも片倉景綱が人を好き、好かれることで家中をまとめる良きストッパーであったことが覗えるのである。


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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新