第肆頁 足利義昭………徹底的に生き残る!

降伏者足利義昭(あしかがよしあき)
生没年天文六(1537)年一一月一三日〜慶長二(1597)年八月二八日
降伏した戦争槙島合戦
降伏した相手織田信長
降伏条件京からの放逐及び人質差出
降伏後備後鞆に潜伏して抵抗
前半生 歴史漫画や大河ドラマで(かなり意図的に)カッコ悪く描かれることの多い足利義昭だが、薩摩守は結構この人物は好きで、過去作でも何度も取り上げている。それゆえ冗長な分の多い拙サイトだが(苦笑)、ここは少し簡略化しても罰は当たるまい(苦笑)。

 足利義昭は天文六(1537)年一一月一三日、室町幕府の第一二代将軍・足利義晴を父に、慶寿院(近衛尚通の娘)を母に次男として生まれた。幼名は千歳丸(ちとせまる)。
 既に将軍位は同母兄・義輝が継ぐことになっていたので、家督相続者以外は仏門に入るという将軍家の慣例に従って、覚慶(かくけい)と名乗り、一乗院門跡となった。

 権少僧都にまで栄進し、本来であれば興福寺別当となり、高僧としてその生涯を終える筈であったが、永禄八(1565)年五月一九日、兄である第一三代将軍・足利義輝が三好三人衆、松永久通等によって殺害され(永禄の変)、母・慶寿院、弟・周ソも落命した。
 三好方の魔手は興福寺にも及び、覚慶は松永久秀等によって興福寺に軟禁されたが、七月二八日夜、兄の遺臣であった細川藤孝(幽斎)と一色藤長等の手引きによって、興福寺から脱出。その後、伊賀、近江を経て越前の朝倉義景を頼り、後に明智光秀を通じて美濃を制したばかりの織田信長から上洛協力の約束を取り付けた(この間に還俗し、名を義秋、次いで義昭と改める)。

 永禄一一(1568)年七月二五日に義昭信長と美濃の立政寺で初対面。信長は九月七日に尾張・美濃・伊勢の軍勢六万を率い、美濃の岐阜から京へと出発した。
 途中、六角義治の抵抗に遭ったものの、九月一三日に信長はこれを破り、近江平定の方を受けて義昭も京に向かった。

 九月二六日、遂に義昭は上洛を果たし、信長の尽力で畿内を平定し、一〇月一八日、義昭は朝廷から将軍宣下を受けて、室町幕府の第一五代将軍に就任した(同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも任官)。
 義昭信長の尽力に涙して感謝し、足利家の家紋である桐紋と二引両の使用を許可し、僅か三歳年長の信長に対して「御父(おんちち)」と呼び、それを称号としても認可した。他にも義昭信長を(織田家主筋であった)斯波氏の家督、管領・副将軍への任命を持ち出して信長に報いんとしたが、信長はいずれも受けず、(自称していた)弾正忠への正式な叙任、桐紋と二引両の使用許可のみを受け、堺・草津・大津を自身の直轄地とすることを求め、許可された。

 永禄一一(1568)年一〇月二六日、信長が京に一部の宿将と僅かな手勢を残して、美濃に帰国すると三好三人衆は報復に出た。永禄一二(1569)年一月五日、三好三人衆は将軍山城を焼き払い、義昭のいた本圀寺を襲撃した(本圀寺の変)。
 幸い、奉公衆及び、 摂津の池田勝正・和田惟政・伊丹親興、河内の三好義継等が駆けつけて奮戦したことにより、六日にこれを撃退した。
 三人衆急襲の報を受けた信長は二条城を新築し、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が続々と出仕する様になり、義昭の念願であった室町幕府は完全に再興された。

 だが、勢力拡大を目論む信長の動きは徐々に義昭の将軍権威を蔑ろにするようになっていった。




戦端 永禄一二(1569)年一月一四日、足利義昭織田信長より、殿中御掟という九ヶ条の掟書を承認させられ、これを機に義昭信長の関係は微妙なものとなっていった。
 だが両者の関係はすぐに瓦解した訳ではなく、同年四月二一日に信長が帰国の暇乞いをした際に義昭はそれまでの信長の尽力に涙して感謝し、門外まで送り出したばかりか、粟田口にその姿が消えるまで見送ったと云う。
 また八月には伊勢北畠氏攻めで苦戦する信長の要請で、仲介を行ったりもした。

 だが、永禄一三年(1570)年一月、信長殿中御掟に五ヶ条を追加し、義昭は渋々これを承認したが前年よりも更に厳しい内容に、信長に対して強い不満を抱いた。

 そして信長が京都を離れている間、義昭が申し入れたことによって、朝廷は同年四月二三日に義昭の畿内平定を認めた形で年号を永禄から元亀に改元した。
 これに前後して義昭は各地の大名や寺社勢力に信長打倒の御内書を送っており、表向きは信長とともに浅井・朝倉勢と戦っていたが、裏で糸引いていたのは云うまでもない。
 そして九月一二日、石山本願寺が蜂起し、法主・顕如が諸国の門徒に檄を飛ばし、一一月には比叡山延暦寺が浅井・朝倉軍に加勢した。
 信長は闇雲に戦うだけでなく、義昭や朝廷の権威で講和や交渉も繰り返した。

 そして元亀三(1572)年一月一八日、義昭の面前において、上野秀政と細川藤孝が信長比叡山焼き討ちに関して激論を交わし、この時点で、幕臣は親信長派と反信長派に分裂していた。
 同年四月一三日に細川昭元が義昭を裏切ると風聞が流れ、三日後に松永久秀と三好義継が畠山秋高方の交野城を攻め、摂津でも伊丹親興や和田惟長が義継に内通する動きを見せた。久秀と義継は細川昭元を盟主とする動きも見せ、結果的に昭元も畠山氏も義昭を裏切らなかったが、畿内はいつ誰が義昭を裏切るかわからない不安定な情勢となった。
 まだこの時点においては、義昭信長と手を切るつもりはなかったと考えられるが、三好方が連合を図ったことにより、義昭は畿内において孤立することになり、九月、信長義昭に対して、自身の意見書である異見十七ヶ条を送付してきた事が両者の対立を決定的なものとした。
 この意見書には義昭の様々に批判し、その材料に過去に殺害された将軍の名を出したこともあって、義昭にとって耐え難いものでもあった。

 同年一〇月、甲斐の武田信玄が上洛の進軍を開始し、三河・遠江に侵攻した。
 一二月に信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康の軍勢を破り、信長は本国である尾張・美濃の防備を固めざるを得なくなり、この信玄の勢いに幕府内部では信長と信玄のいずれに付くかで議論が交わされ、幕臣の多くが信玄の支持に回った。
 これに力を得た義昭は元亀四年(1573)年二月一三日、朝倉義景や浅井長政、武田信玄に御内書を下し、遂に反信長の兵を挙げた。力は無くても征夷大将軍の権威は絶大で、反信長派の諸将は喜び、浅井長政は即座に「公方様から御内書を下された。」と各所へ喧伝した。

 一方、信長義昭の裏切りに大いに驚いた。挙兵は義昭の意志ではなく、幕臣が勝手に企てたことだと云って、当初は信じようとしなかったというから、信長義昭に背かれるとは予想だにしてなかったのだろう。同時に義昭に見限られたということは、信長への帰趨を決めかねている勢力が大量に離れる可能性を極めて強くすることを意味していた。
 尋常ならざる危機感を抱いた信長義昭に使者を急派し、息子を人質とすることで講和を申し入れた。つまり自前の武力に乏しくても、保持していた権威を利して義昭は、一度は信長を戦略的に屈服させていたのである。

 ただ、この信長降伏は幻に終わった。
 同月二八日に信長は朝山日乗、村井貞勝、島田秀満の三人を使者とし、人質と誓紙を出そうとしたが、義昭は承知しなかった。交渉不首尾と見た使者達は講和が成立しない場合は、京都を焼き払うと脅し、これに対して義昭は三月六日に三好義継と松永久秀の両名を赦免し、同盟した。
 そして翌七日、義昭信長と断交した。畿内近国に上洛の命を下し、摂津から池田重成・塩河長光、丹波から内藤如安や宇津頼重が応じて京都に入った。

 一方の信長は三月二九日義昭と対決するため、岐阜から上洛。だがこの時点で細川藤孝が義昭を見限っており、信長を出迎え、荒木村重と共にこれに付いた。
 信長は三条河原で軍を整え、知恩院に布陣。それに対して義昭は二条御所に数千の兵とともに籠城し、動く気配を見せなかった。
 翌三〇日、義昭は先制攻撃を仕掛け、信長の京都奉行である村井貞勝の屋敷を包囲させた。貞勝は辛くも脱出したが、信長は尚も講和を求め、義昭の赦免が得られるなら、息子の信忠とともに出家し、武器を携えずに謁見すると申し出た。
 四月二日にも信長は柴田勝家等に下賀茂から嵯峨に至るまでの一二八ヶ所を焼き払わせつつも御所に和平交渉の使者を派遣したが、義昭は拒絶。もはや戦端を開かざるを得ないと見た信長は四月三日夜から四日にかけて上京の二条から北部を焼き払わせ、二条御所の周囲に四つの砦を築き、その糧道を断ち、城兵の戦意を喪失させた。



降伏 将軍権威を巧みに利用し、諸大名をそれに従わせる政治力を持ってはいても、直接的な戦闘となると足利義昭はさすがに百戦錬磨である織田信長の敵ではなかった。
 既に頼りとした武田信玄は病に倒れ(←一応この時点では死んでなかったが)、朝倉義景は雪を理由に駆け付ける気配のない体たらくだった。加えて上述の信長の強硬姿勢と糧道遮断で城兵も戦意を喪失させていた。

 信長義昭に降伏を勧告するため、朝廷を動かし、勅命による講和を義昭に求めた。義昭は進退窮まった結果、朝廷を頼り、正親町天皇の勅命講和を求めた。関白・二条晴良等3人の公家の仲介を受け、四月七日、義昭信長は正親町天皇の勅命に従う形で講和した。
 翌八日、信長義昭に謁見せず、岐阜に戻った。義昭にして見ればいずれ諸大名が上洛してくるまでの時間稼ぎ的な偽りの和睦だったのだろう。だが、最も頼りにしていた武田信玄はこの四日後に死去した。

 義昭は四月二〇日に二条御所普請のための人夫を徴収し、五月に義昭は武田信玄(←既に死亡。しかし義昭はそれを知らず)や朝倉義景、顕如らに味方になるように御内書を下し、二〇日に顕如がこれに応じた。
 そして七月二日、義昭は二条御所を奉公衆の三淵藤英のほか、政所執事の伊勢貞興、昵近公家衆の日野輝資・高倉永相などに預けた上で、宇治の槇島城に移り、翌日信長との講和を破棄し、挙兵した。
 だが六日後の七月九日に信長が上洛すると、日野輝資や高倉永相らは二条御所を出て降伏。一二日に三淵藤英も降伏した。その後、信長は御所の殿舎を破却し、兵卒が御所内を略奪するのを禁じなかった(初上洛時には夫人の編み笠を取って顔を見ただけの雑兵や、一銭盗んだだけの兵卒を容赦なく斬首した信長が、である)。
 同月一八日、信長軍は槇島城を包囲・攻撃し、槇島一帯も焼き払らわれた。義昭はこれに恐れを為し、信長に講和を申し入れ、その条件として二歳の息子・義尋を人質に出して降伏した。



その後 かくして足利義昭は元亀四(1573)年七月一九日槇島城を退去して、翌二〇日に河内津田に入り、これにより室町幕府は事実上滅亡した。
 義昭自身は将軍職を退いた訳ではなかったが、京都を追放されたことにより、朝廷を庇護する天下人の役割を果たせなくなったと見做された故であった。
 同月二一日に若江城に入った義昭は七月二四日付の御内書で毛利輝元と二人の叔父・吉川元春と小早川隆景に援助を求め、早くも再起への意欲を見せた。

 同月二八日、信長義昭が永禄から元亀に改元させたのに報復するかのように、朝廷に改元を要請し、元亀は天正に改められ、義昭の権威は完全に否定された。
 だが、同月に信長は朝倉氏を、翌九月には浅井氏も滅ぼし、信長包囲網は瓦解した。

 義昭は尚も上杉謙信や顕如に援助を求め、毛利輝元も信長との全面戦争を望まなかった故、兵を率いての上洛には至らなかったが、信長の方でもその時点では余力的に毛利と事を構えるのを望まなかったため、両者の間で交渉が持たれ、織田方の羽柴秀吉・朝山日乗と毛利方の安国寺恵瓊がそれを担った。

 一一月五日に義昭は若江城から和泉堺へ入り、織田・毛利双方の交渉役が義昭と面会し、信長と和解した上での帰京を説得した。信長義昭の帰京を認めていたが、義昭は自分が主筋であるとの意地を曲げなかったため、信長からの人質を求め、それを撤回しなかった。
 かかる状況下で強気を曲げない義昭に秀吉は呆れ、「何処にでも行ったら良かろう。」と云い捨てて大阪へ退去。安国寺恵瓊と朝山日乗は尚一日留まって無条件での帰洛を説得したが、義昭は受け入れず、交渉は決裂した。

 四日後、義昭は主従二〇人程とともに堺を出て、畠山氏の勢力下である紀伊に海路で下り、由良の興国寺に滞在した。その力も義昭は諸大名に御内書を送って勢力回復を図り続けた。
 だが天正三(1575)年一一月、信長は朝廷より従三位・権大納言・右近衛大将に任じられ、従三位・権大納言・左近衛中将だった義昭よりも上位の存在とり、官位・権威の上でも義昭は上風に立たれてしまった。
 失意の義昭は天正四(1576)年二月に興国寺を出て、改めて毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後鞆に移った。
 鞆はかつて室町将軍始祖・足利尊氏が光厳上皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利将軍家にとっての由緒がある場所であり、第一〇代将軍・足利義稙が大内氏の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある縁起の良い地でもあった。

 だが、義昭は毛利方に何一つ連絡せず鞆にやって来ており(近臣達にも緘口令を強いていた)、信長との関係からも輝元にとっては有難迷惑だった。ただ、各地の敵対勢力を滅ぼした信長は西方に進出してきており、播磨の国人衆の対立の裏にも両家の後押しは有り、いずれ対決することは充分に考えられることだった。
 結局、五月七日、輝元は反信長として立ち上がり、一三日に領国の諸将に義昭の命令を受けることを通達し、全国の諸大名等にも支援を求めた。
 この輝元の合力に対して義昭は彼を副将軍に任じて報い、毛利軍を公儀の軍隊の中核として位置づけ、西国の諸大名の上位に君臨する正統性を与えた。

 その後、信長は羽柴秀吉を総大将に毛利攻めを敢行し、輝元は義昭を擁して戦うも戦巧者の秀吉の前に鳥取城、三木城を奪われ、備中高松城も包囲されたが、天正一〇(1582)年六月二日に信長本能寺の変で横死し、秀吉がこれを秘して毛利方と講和したことで両者の戦は終わった。
 六月四日に高松城主・清水宗治の切腹・開城を条件に講和は成立し、秀吉はその日の内に撤退した。毛利方が信長横死を知ったのは翌五日で、九日にこれを知った義昭は小早川隆景に対し、帰京するために備前・播磨に出兵するように命じたが、輝元は講和を遵守して動かなかった(当時の毛利家にはその余力が無かった)。

 織田信長と云う怨敵を亡くした義昭は意地を張る必要をなくしたためか、九月二六日に安国寺恵瓊に対し、羽柴秀吉に自身の帰洛を斡旋させるように命じ、秀吉もこれを了承した。
 一方で義昭信長の筆頭家老だった柴田勝家に目を付け、勝家と上杉景勝を講和させる為に一一月二一日に景勝に御内書を下した。悪く云えば性懲りもなく、別の云い方をすれば定石通りに御内書を多用し続け、毛利や上杉を動かさんとしたが、やはり毛利は積極的には動かず、柴田勝家も賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れたことで自害に追いやられる等、なかなか周囲は義昭の思い通りには動かなかった。

 天正一三(1585)年一月、輝元が秀吉との国境画定に応じて、正式に講和し、一〇年に渡った織田と毛利の戦いは終結。同時に毛利が義昭の為に出兵して室町幕府を再興に助力してくれる可能性は消え、秀吉は同年七月に朝廷より関白に任命され、義昭は将軍位こそ失わなかったものの、完全に秀吉の下風に立たされた。
 義昭と秀吉は九州征伐への進軍中に、鞆御所に近い赤坂で十数年振りに対面し、両者は贈り物を交換し、親しく酒を酌み交わした。その後九州征伐には将軍の名で講和の斡旋なども行いはしたが、当然秀吉の意向に突き動かされるものだった。

 五月、島津氏が秀吉に降伏。秀吉は義昭の功績と帰京も認め、毛利氏に対し、義昭が帰京に使用するための船の調達を命じた。
 七月、旧臣の細川幽斎と再会し、帰京に関する打ち合わせが行われた。
 八月、息子・義尋が興福寺の大乗院門跡となることが決定し、一〇月、義昭は毛利氏の兵に護衛されながら、一五年振りに京都に帰還した。

 一二月、義昭は大坂に赴き、秀吉に臣従し、かつて信長打倒の兵を挙げた山城槇島に一万石を与えられた。
 天正一六(1588)年一月一三日、義昭は秀吉とともに参内し、将軍職を朝廷に返上。既に名前だけとなっていた室町幕府は完全に滅亡し、その後、義昭は出家し、昌山道休と号した。
 ただ、権威自体は完全には失われず、立場は秀吉の御伽衆(要するに話し相手)に過ぎなかったが、前将軍ということもあって、徳川家康や毛利輝元、上杉景勝といった大大名よりも上位の席次を与えられ、厚遇され、その立場で生涯を終えた。

 慶長二(1597)年八月二八日、腫物により薨去。足利義昭享年六一歳。

 足利義昭という漢(おとこ)、悪意的に見れば、好き嫌いが激しく、然したる能力もないのに与えられた将軍権威をひたすら振りかざし、意固地になって将軍位に固執し、居丈高に諸大名や寺社勢力に自分を味方するよう命じる手紙を送り続けていた人物、ということになる。

 別の見方をすれば、どんな逆境に陥ってもひたすら生き残りを賭け、使えるものは貪欲に使いまくり、将軍権威を守り通した人物で、事が落ち着いた暁には恨みを捨てる一方で感謝を忘れない人物だったと云える。

 結果的に義昭は他社の力を頼り続け、征夷大将軍として世に君臨する状況には返り咲けなかった。織田信長に対しては恩義と信頼を抱いていたのが裏切られたと感じた反動の大きさゆえ、子供じみた短絡的で意固地な言動を連発したが、事が落ち着いた後は意外とさばさばしていた。
 返り咲きの力になり得なかった毛利元就に対しても感謝の言葉を送り、礼物を送って報いている。また、永禄の変に際して興福寺脱出に尽力しながらも槙島挙兵時には裏切って信長に付いた細川藤孝と一五年後に再会した折にはわだかまりを捨てていた。
 将軍権威を振りかざして居丈高に振舞っていたかと思えば、晩年は成り上がり者である筈の豊臣秀吉とも良い仲で付き合っていた。それでも秀吉が征夷大将軍就任を目論んで猶子にして欲しいと云って来た時はきっぱりと断った。
 後の世に在って歴史の結果を知っている我々は足利義昭を、流浪を繰り返し、権威を振りかざして人を頼りまくり、結局敗れた人間として見がちだが、彼は本来室町幕府が安泰なら高僧として生涯を終えていた人物で、将軍としても討伐よりは仲裁を得意とした人物で、率先して敵を打ち破って戦果を強奪するタイプの人物ではなかった。

 思うに、兄を殺された直後こそ、恨みや幕府の存続への使命感に囚われ、なりふり構わない行動に出ていたが、平常時には人に感謝し、争いを好まず、それでも譲れない一線を守り通す人物だったのだろう。それゆえ薩摩守は義昭信長への降伏は決して臆病さや戦下手の腰砕けによる情けなさに起因するものとは考えない。

 歴史の勝者にこそなれなかったが、義昭は室町幕府歴代将軍の中で最も長生きし、有力大名の力に依存した故殆んど安定期を持てずに戦乱の世を生んだ室町幕府を刃に血塗らずして終わらせた。
 今尚、大河ドラマや歴史漫画では不当なまでにカッコ悪い人物に描かれていることが多いだけに、まだまだその実像を追いたくなる興味深い人物である。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和四(2022)年七月一五日 最終更新