第参頁 松永久秀………降伏の達人が最後に拒んだ降伏

降伏者松永久秀(まつながひさひで)
生没年永正五(1508)年〜天正五(1577)年一〇月一〇日
降伏した戦争反信長包囲戦
降伏した相手織田信長
降伏条件多聞山城開城
降伏後その後裏切り、敗死
前半生 少し恥を白状するが、薩摩守は松永久秀と云う人物の実像を良く分かっていない。
 勿論久秀自身、謎の多い人物で、歴史の専門家でもない薩摩守がその全貌を知る由もないのだが、世に有名な久秀の三大悪行(将軍足利義輝弑逆、主家三好氏滅亡、奈良の大仏焼亡)のイメージに引きずられ、彼の政治家・文化人としての優れた力量に長年目を向けてこなかった。
 足利義輝弑逆や三好家滅亡に関しても久秀の関与の度合いには謎が多く、まだまだ考察や研究が必要なことを理屈では知りつつも、やはり長年久秀を良くは見てこなかったイメージは今でも根強い。
 それゆえ、独断と偏見が正像を歪めることを恐れて、過去作『裏切者の譚詩曲』でも久秀を採り上げなかった。

 ただ、久秀が降伏を繰り返し、並の才覚ならもっと早くに落命していたのに巧みに生き延びたのは事実で、最期の最期に降伏の道がありながら自害を選んだ展開が興味深くて、正像を捉え切れる自信が無いにもかかわらず採り上げたことを白状しておきたい(苦笑)。

 そんな松永久秀だが、永正五(1508)年に生まれたが、出身地は山城とも、阿波とも、摂津とも云われている。身分も土豪とも、商人とも云われ、はっきりしないのだが、それ以前に両親の名前さえ不詳である。
 天文二(1533)年か同三(1534)年頃より細川家の右筆だった三好長慶に仕えたと云われているが、はっきり史料にその名が見えるのは天文九(1540)年で、この頃には奉行職にあって、「松永弾正」の名を署名していた。
 既に武将としても活躍しており、主君・長慶がそのまた主君である細川晴元を放逐して畿内にて権力を持つようになるのに伴い、久秀もまた出世し続けた。

 一方で渉外も得意とし、長慶が天文一八(1549)年に室町幕府第一三代将軍・足利義輝と細川晴元を近江に追放して京都を支配した際には、久秀が在京の公家や寺社との折衝を担った。そして長慶に従って上洛すると三好家の家宰となり、弾正の名を唐名である霜台(そうだい)と改めた(←「中納言」が「黄門」、「左馬之助」が「典厩」に改めたと思って下さい)。
 以後も三好家を敵視する勢力と戦い続け、天文二〇(1550)年には相国寺を焼いてしまう程の激戦を経て、天文二二(1553)年に長慶が畿内を平定すると摂津滝山城主に任ぜられた。

 これらの連戦は将軍家に対する反逆ではあったが、久秀は六角義賢の家臣に送った書状にて、悪いのは長慶との約束を何度も反故にした義輝・晴元の方で、京都を追放されるのは天罰であると記し、同時に送られた長慶も書状にて平和を望んでいる旨を記していた。
 まあこの辺りの善悪がどちらに傾くは薩摩守の研究不足で詳らかではないが、古今東西武力や権力を駆使する者が自分で「悪事を働いてます。」と云う筈はないわな(苦笑)。
 ただ、義輝側もそう簡単に権威や権力の奪還を諦めるはずなく、近江より幾度となく京を目指し、久秀はそれに対抗して時に交戦し、時に籠城し、時に威嚇し、時に和睦したりした。

 勿論、この間も対朝廷、対公家との折衝も担い続け、永禄二(1559)年には部下の楠木正虎が、先祖である楠木正成が南朝に味方していた過去で北朝系である朝廷から朝敵扱いされていることに対してその赦免を正親町天皇に申し出、赦免と共に正虎の河内守任官も勝ち取った。
 尚、この正虎赦免要請には義輝も関与していた。本来北朝を立て、三代義満の代に北朝に皇統を取り戻すのに尽力した足利家にとって楠木正成及びその一族は仇敵とも云える存在で、その赦免に同意することすら在り得ない話だった筈が同意・赦免要請に至ったのだから、これには義輝と三好家との複雑な駆け引きが背景にあると思われ、なかなかに話は単純ではない。

 永禄三(1560)年、久秀は興福寺を破って大和を統一した。興福寺は義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が僧となって修行していた場で、そこに刃を向けながら、久秀はその年に義輝から三好義興(長慶嫡男)と共に御供衆に任じられているから、この辺りの関係は本当に複雑である。ともあれ、同年一一月に久秀は大和生駒に当時としてはまだ珍しかった天守閣を持つ城・信貴山城を築城し、城主となった。
 この頃になると久秀は三好家の被官でありながら義輝の下に出仕して仕事を行う頻度も増えた。勿論他の被官には無かった話である。また義輝が義興の私邸に下向した際は膳を運んだり、献上品を献じたり、と本来なら三好一族の者が担うべき任を担った。もはや久秀は三好家家臣と云うより、三好家と将軍家の橋渡し役に等しい存在となっていた。

 その後も三好家支族、六角氏、畠山氏と云った畿内勢力と戦っては和睦し、和睦しては戦うを続けた(ときには義輝も将軍権威でもって仲裁したりした)。だがその間、三好家では長慶の実弟・十河一存や義興が急死するなどの不幸が相次いだ。
 これには後々の久秀のイメージから彼による暗殺説もあるが、少なくとも長慶存命中の久秀は三好家に忠実であったと見られ、一存は落馬による事故死、義興は病死とみられ、暗殺説はほぼ否定されている。
 だが、永禄七(1564)年七月四日、その長慶が逝去したことで久秀の人生も翳りが見え始めた。



戦端 当初、松永久秀は三好長慶の後を継いだ甥の三好義継を三好三人衆と共に支えた。だが、翌永禄八(1565)年五月一九日、義継・三人衆・松永久通(久秀嫡男)が足利義輝を弑逆した(永禄の変)。事件当時大和にいた久秀は襲撃には参加しておらず、興福寺の覚慶に対しても事件直後に害意の無い旨 を認めた誓詞を出し、覚慶の外出を禁じた軟禁状態に置いたもののそれ以上の手出しはしなかった。
 ただ、直に関与しなかったとはいえ、襲撃は将軍及びその母、義輝の子を懐妊していた侍女、弟(周ロ)が惨殺されたという結果、それに嫡男・久通が関与していたことで久秀も世間から悪意の目を向けられた。
 「事件直後の処置が覚慶(義昭)の命を救った。」、「主犯は義継で、久秀自身に義輝への害意は無かった。」との擁護論もあるし、薩摩守もこの事件に関しては然程久秀を悪意の目で見てはいないが、(命を救う処置だったにしても)軟禁状態に置かれ、兄と弟と母と生まれる予定だった甥(または姪)を一度に殺される結果になった覚慶に「恨むな。」と云うのは無理があるだろう。

 ともあれ、事件後久秀は独自路線を進んだ。キリシタン宣教師を追放し、一一月一六日には三好三人衆と絶交し、畿内にて争った。
 義輝を害した三人衆は義輝の従弟・義栄を傀儡として第一四代征夷大将軍に立て、久秀は義栄の名で追討令が出された。これに対して久秀は畠山高政や根来衆と同盟して対抗した。この争いに一度は敗れた久秀だったが、永禄一〇(1567)年二月一六日に他ならぬ三好義継が三人衆の元から逃れてきて、これを機に久秀は勢力を盛り返した。
 戦いは一進一退を繰り返していたが、その間、覚慶が興福寺を脱出し、越前の朝倉義景を、次いで美濃の織田信長を頼り、信長は覚慶改め足利義昭を奉じて上洛することとなり、久秀は永禄九(1566)年には信長と連絡を取り合っていたと云われている。
 信長の方でも上洛に際して大和国人衆に久秀への助力を伝えていた。

 そして永禄一一(1568)年九月、信長は義昭を奉じての上洛に成功し、久秀は同盟者の立場で信長に謁し、一〇月二日に息子を人質に預け、名茶器・九十九髪茄子を献上した。折も折、足利義栄が上洛出来ないまま急死したこともあって、義昭は第一五代征夷大将軍となり、畿内は信長の手で平定された。
これにより久秀は引き続き大和一国の領有を認められ、同時に義継や久通と共に義昭の御供衆となった。この時点で大和は筒井順慶の支配下にあったが、久秀は織田軍と共に平定を進め、信長・義昭とは共闘関係にあり、永禄一二(1569)年の本圀寺の変(信長の帰国時を狙った三好三人衆による義昭襲撃事件)にも信長とともに兵を率いて駆け付け、奮戦した。

 だが、永禄一三(1570)年一月、義昭が信長から五か条の条書(将軍の命令に信長の添状を義務付ける等)を認めさせられたことで信長に反発すると各地の大名に自分に味方して信長を討つよう命じた御内書を送り、その中には久秀もいた。
 だが、久秀はすぐには応じず、信長による朝倉義景攻めにも従軍し、信長が妹婿の浅井長政に刃向かわれて(←くどいが、先に浅井との盟約を破ったのは信長の方)窮地に陥った際には朽木朝綱を説得して味方につけ、信長の撤退を助けてその窮地を救った。その後も石山本願寺攻めにも従軍したが、次第に信長・義昭に対する反感を密かに募らせていた。

 そして元亀二(1571)年五月、畠山秋高の居城・交野城を攻め、義継・三人衆もこれに呼応し、彼を幕臣と見ていた義昭との関係が決裂した。義昭は養女を筒井順慶に嫁がせて自派に引き込もうとしたたため、久秀信長・義昭に対する反旗を鮮明にした。
 しかし戦いと和睦を繰り返した諸勢力を味方につけることに久秀は失敗し、朝倉・本願寺・武田信玄などと共に反信長包囲網の一角には加わったことで元亀四(1573)年二月に打倒信長の兵を挙げた義昭と、義継と共に正式に和睦した。



降伏 足利義昭との和睦により、織田信長と対峙した松永久秀だったが、反信長包囲網は和睦から僅か二ヶ月後の元亀四(1573)年四月に武田信玄が病死したことで崩壊し出した。同年七月に義昭はあっさり信長に降伏し、一一月には三好義継も若江城にて織田方の武将・佐久間信盛に攻められて敗死した。
 織田勢は久秀の政治的要衝であった多聞山城に久秀を包囲し、一二月末、久秀多聞山城の開城を条件に信長に降伏した。



その後 山岡荘八原作、横山光輝作画の『織田信長』にて松永久秀は、織田信長に降伏した折に、自分は有能である故に人を見る目のある者なら自分を殺しはしないと嘯き、「弱きを裏切るは些かも悪と思いませぬ。」と云い切ってもいた。
 正直、眼前でここまではっきり云われれば、絶対にそいつを信用出来なくなると思われる台詞だが、これは後世の久秀の悪しきイメージを反映させたものだろう。正直、久秀の人間性の是非はともかく、彼が有能で交渉・折衝に長け、方便としてブラフ(はったり)を利かせた大口を叩くことは充分あり得ても、「貴方が弱くなったら裏切ります。」的な台詞を何の考えもなく云って信用を喪失させる馬鹿とは決して思えない。
 信長は徳川家康に久秀を紹介した時に、「将軍弑逆、主家族滅、大仏焼亡という人には出来ない大悪行を三つもやってのけた大悪人」として紹介したエピソードは有名だが、信長も実力主義者・合理主義者として久秀の能力を重んじていたのは間違いないので、ここまで露骨なことを云ったとは思えない。

 三大悪行にしても、三好家中の内紛を拡大した咎はあるにせよ、三好家自体が御世辞にも一族団結していたとは云い難く、少なくとも長慶には間違いなく忠実であったと思われる。
 将軍弑逆にしても、久秀自身は関与しておらず、責められるとすれば嫡男・久通が加担したことへの監督不行き届き程度だろう。
 ただ、様々な謀略を駆使し、和睦した相手ともすぐに断交して戦った経歴的に「全幅の信頼」を置くには無理のある人物で、足利義昭の挙兵に呼応した久秀信長が開城程度で許したのは、かなり大甘な処置に映る。恐らく信長とは何処か似た者同士で、信長にして見れば「使える内は使う。こちらが弱みを見せぬ限りは大丈夫。」と云う心持ちだったと思われる。

 だが、久秀は再度信長に反旗を翻した。
 降伏後、さすがに大和国主としての地位は奪われ、佐久間信盛の与力に配され、石山本願寺攻めにも従軍していた。そしてその頃、京都を追放された足利義昭は備後鞆にて毛利輝元の庇護下にて各地の大名に信長追討の御内書を送り続けていた。
 勿論御内書は久秀にも届けられ、天正五(1577)年、久秀は従軍していた本願寺攻めから離脱して信貴山城に立て籠もって反信長の兵を挙げた。

 当時の軍規に照らし合わせれば勝手な戦線離脱だけでも処刑物なのに、一度降伏を許されたにもかかわらず、二度目の反旗を翻されたのだから、これはどんな極刑に遭っても文句を云えない行為だった(まあ、口があれば文句を言うこと自体は可能だが(苦笑)、それに相手が聞く耳を持たなくなっていても無理はないと云う話である)。
 だが、信長はそれでもすぐには責めず、松井友閑を信貴山城に派遣して久秀に謀反の理由を問い質さんとした。松井と久秀はともに茶人として名高く、交流もあり、その伝で説得しようとしたと思われるが、久秀は松井と会おうともしなかった。

 事ここに至っては信長久秀を討伐しない訳にはいかず、嫡男・信忠を総大将に一〇万の兵を派し、信貴山城を包囲させた。そして佐久間信盛に名茶器・古天明平蜘蛛を差し出すことを条件とした降伏勧告を行わせた。
 しかし、これまでありとあらゆる手を尽くして延命に務めて来た久秀だったが、勧告を拒否し、一〇月一〇日に平蜘蛛を叩き壊すと天守に火を放って自害した。松永久秀享年六八歳。

 生前、久秀は食事・房事共に様々に留意して健康に気遣っていた。彼は鈴虫を大切に飼い、結果、鈴虫が三年生きたことを指して、「虫でさえ飼い方次第でここまで生きる。人間なら尚更だ。」として養生に務めていたと云う逸話がある。
 実際、激しく戦った相手とも必要とあらば躊躇うことなく和睦し、降伏もした。そんな久秀が茶器一つで助命される条件を蹴って死を選んだのは不可解且つ興味深い。

 (無理やりではあるが)普通に考えるなら、「茶人としての譲れない一線」が平蜘蛛だったということだろうか?
 松永久秀を通説で語られた来た極悪人として鵜呑みにするのは考え物だが、軍人・政治家・築城家・文化人として卓越した器量を持つ一方で、(久秀だけではないが)節操のせの字もない和睦・紛争を繰り返してきたことを様々に見て、何とも掴み所のない人物である。

 ただ、彼の命日が一〇月一〇日で、これは彼が畿内の紛争で東大寺の大仏を焼いたのと同日で、これを指して世の人々は「仏罰」とした。また年貢を納められない者に蓑踊り(←受刑者に蓑を着せ、それに火を放って悶死する様を「踊り」に例えた残酷刑。島原の乱の遠因となった酷刑として有名)を課していた久秀が横死したことを受けた領民達は大切な農具を売ってまで作った金で酒を買って祝杯を挙げたとされているから、(相手にもよるが)嫌われ振り、恨まれ振りは半端なかったことだろう。
 結局二度の裏切りで、己だけの問題なら何を重んじて生きようが死のうが自由だが、二人の息子も共に自害に追いやられ、織田家に人質として預けられていた孫も六条河原で斬られ、多くの家臣が共に炎に巻かれたことを想えば、やはり薩摩守は松永久秀と云う人物に対して悪しきイメージは拭えない。


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令和四(2022)年七月一五日 最終更新