第伍頁 島津義久………抗戦と降伏の硬軟両面

降伏者島津義久(しまづよしひさ)
生没年天文二(1533)年二月九日〜慶長一六(1611)年一月二一日
降伏した戦争九州征伐
降伏した相手豊臣秀吉
降伏条件関白及び惣武事例への恭順誓約
降伏後本領安堵
参考:島津氏家系図
前半生 天文二(1533)年二月九日、島津家第一五代当主・島津貴久を父に、貴久の継室・雪窓夫人(入来院重聡の娘)を母に、嫡男として薩摩・伊作城に生まれた。幼名・虎寿丸(とらじゅまる)。

 長じて元服に際し、彼の成長を最も期待していた祖父・島津忠良と同じ忠良を諱とし、島津又三郎忠良(しまづまたさぶろうただよし)と名乗ったが後に室町幕府第一三代将軍・足利義輝からの「」の字を受け、義辰(よしたつ)、最後に義久と改名した(例によって本頁では「義久」で通して表記します)。

 天文二三(1554)年に一二歳で岩剣城攻めにて初陣を飾り、永禄九(1566)年に二四歳で父・貴久から家督を譲られて島津家第一六代当主となった。
 四年後の元亀元(1570)年に東郷氏・入来院氏を降伏させて島津氏の念願だった薩摩統一を果たした。

 薩摩に続く義久の狙いは大隅で、次弟の義弘に日向の伊東義祐と対峙させ、自らは同時並行で大隅を攻め、天正二(1574)年に肝付氏・伊地知氏を帰順させて大隅統一も果たした。
 二年後の天正四(1576)年には伊東方の支城の城主達を次々と降伏せしめ、国主・伊東義祐は豊後の大友宗麟を頼って亡命し、義久は四四歳で薩摩・大隅・日向の三州統一を果たした

 日向を奪ったことで義久は大友氏と対立することになり、天正六(1578)年一〇月、大友宗麟が大軍を率いて日向に侵攻してきた。翌月に義久は二万余の軍勢を率いて佐渡原に出陣し、大友軍に奇襲をかけ、高城川を挟んだ根城坂(大友軍の対岸)に駒を勧めた。
 大軍でも団結力を欠く大友勢の無秩序な攻めに対して義久は伏兵を用いた戦法で寡兵でありながら大友勢を各個撃破して壊滅させた。

 だが、この頃になると戦線とその背景は九州内に留まらなかった。
 天正八(1580)年(1580年)、大友氏を毛利攻めに利用したいと考える織田信長が、公家の近衛前久を仲介役に島津と大友の和睦仲介を申し出て来た。最終的に義久はこれを受諾したが、二年後に本能寺の変が勃発し、信長との絡みはここで立ち消えとなった。

 その後も天正九(1581)年に肥後・球磨の相良氏を降し、翌天正一〇(1582)年には肥前の龍造寺隆信を迎え撃ち、天正一二(1584)年の沖田畷の戦いにて湿地帯を利用した戦法で龍造寺隆信をも討ち取り、程なく龍造寺氏をも屈服せしめた。
 翌年には肥後を完全に平定し、義弘に同地の支配を命じたが、この大躍進が大友宗麟をして豊臣秀吉の介入を呼ばしめることとなった。



戦端 天正一二(1584)年、中央では豊臣秀吉が関白に就任した。
 本能寺の変後、織田信長の遺児や重臣達と巧みに手を組んだり、争って滅ぼしたりすることで信長が築いた地盤を引き継いだ秀吉は畿内・東海・中国・四国・北陸・中部にその覇を轟かせており、同年に島津義久惣無事令)。

惣無事令自体は全国の大名に対して私闘を禁じるもので、その命令するところは穏健なものだった。ただ、同時にそれは関白である豊臣秀吉への服従を暗に命じるものであり、九州での戦乱に明け暮れ、長年の労苦と夥しい犠牲の果てに薩摩・大隅・日向・肥後を得て来た島津家には受け入れ難いものだった。
 秀吉の命令にどう対処するか島津家中にて大いに論議されたが、義久はこれを黙殺。筑前の攻略を命じ、天正一四(1586)年七月、義久は八代の本陣にて筑前攻めの指揮を取った。
 それまでの戦乱で支配下に置いた諸大名にも参陣・従軍させ、筑前・筑後を高橋紹運の岩屋城、立花宗茂の立花城、高橋統増の宝満山城が残るのみにまで追い詰めた。だが立花宗茂は頑強に抵抗。島津勢は多大な犠牲を出した。

 そうこうする内に、一二月になって、ついに大友勢に秀吉の援軍が加わった。
 仙石秀久を軍監として長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保等六〇〇〇の先発隊が九州に上陸してきた。
 緒戦の戸次川の戦いでは、末弟・家久が「釣り野伏せ戦法」でもって長宗我部信親・十河存保を討ってこれに大勝。その後も鶴賀城、鏡城、小岳城、府内城と次々に落とし、宗麟の守る臼杵城を包囲したが、この大勝が却って圧倒的勢力の豊臣勢襲来を本格化させることになってしまった。

 天正一五(1587)年、豊臣秀長が毛利・小早川・宇喜多軍等の総勢一〇万を率いて豊前に着陣し、日向方面から進軍して来た。続いて豊臣秀吉率いる一〇万も小倉に上陸。こちらは肥後経由で薩摩を目指して進軍して来た。



降伏二〇万と云う、戦国時代の戦としては空前絶後とも云える大軍勢の襲来を受けて、島津義弘・家久等は豊後を退き、大友勢はこれを追撃に掛かった。のみならず、豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名・国人衆もその多くが圧倒的大勢力の豊臣方に寝返った。
 秀長軍は高城を囲み、高城川を隔てた根白坂に陣を構えて島津本軍に備えた。島津勢は義弘・家久等が二万を率いて根白坂に一斉に攻め寄せたが、大敗して本国に退いた(根白坂の戦い)。

 遂に豊臣軍は島津の本領に至り、出水城主・島津忠辰はさして抗戦せずに降伏。伊集院忠棟(秀吉との交渉に当たっていた)も自らの身柄を預けて秀長に降伏、家久も開城した。
 義久本人も鹿児島に戻り、剃髪。名をと改めた後、伊集院忠棟とともに川内の泰平寺で秀吉と会見し、正式に降伏した。
 義久降伏後、尚も義弘・三弟・歳久・新納忠元・北郷時久等が抗戦を続けていたが、義久は彼等に抗戦停止を命じた。



その後 戦闘的には為す術なく降伏に追いやられたように見える島津家だったが、全盛期の戦果・勢力こそ大きくそがれたものの、一大名家としては充分な力と領土を残すことが出来た。
 豊臣秀吉は降伏した島津家に対して、島津義久に薩摩一国を安堵し、義弘に大隅一国を、久保(義弘の子で、妻は義久の三女・亀寿)に日向国諸縣郡を、伊集院忠棟には肝付(大隅の一郡)が与えられた。

 謂わば島津家にとって、表向き元々の所領は安堵された形になった訳で、これには二つの要因が考えられる。
 一つは、完全壊滅に追いやるには島津家の力が大き過ぎた、ということだろう。薩摩・大隅・日向の三州を抑え、地理的にも背後に敵なく、畿内から遠距離にある島津家を完全に潰すとなると、やって不可能ではないだろうけれど多大な犠牲と戦費を要し、既に大きな犠牲を出していた毛利・長宗我部の離反を招きかねず、余力を失えばその後の北条征伐に支障をきたし、現状臣従している徳川家康や上杉景勝がどう出るか?という不安の種を落としたことだろう。

 もう一つは、勇猛な島津勢を手ごまとして保持したいとの気持ちもあったからと推測する。

 九州征伐に毛利・長宗我部氏を動員した様に、秀吉は臣従した諸勢力をその後の討伐戦に従軍させている。直後の小田原討伐でも徳川・上杉・前田・織田(信雄)を動員した。
 実際、朝鮮出兵には島津家も出兵を命じられたし、明・朝鮮以外にも琉球・呂宋(フィリピン)・天竺攻めも目論んでいた秀吉にしてみれば、琉球攻めには島津家を最大限利用したい腹積もりは充分にあったことだろう。
 かくして、島津家にとっては充分な勢力を保持し、秀吉にとっては後々の頼りになる戦力を味方につける形で、双方にとって講和に近い形で降伏は穏便に成立した。

 だが、裏では悲劇が相次いだ。
 義久降伏後も、それを善しとせず反発を続ける島津家家臣が伊東祐親や高橋元種の領土から立ち退かなかったり、歳久が秀吉を襲撃して処刑されたり、家久が謎の急死を遂げたり、と裏面での悲劇が相次いだ。

 そんな悲劇を展開しつつ表向きは穏健そのもので、天正一六(1588)年、義弘が秀吉から羽柴の名字と豊臣の本姓が与えられ、天正一八(1590)年には義久にも羽柴の名字のみ与えられ、豊臣政権との折衝には義弘が主に当たることも決まり、ようやくにして南九州に平穏が訪れた。
 もっとも、これは秀吉義久を厚遇する一方で、彼と同等かそれ以上に義弘を厚遇することで、島津家に対立の種を植えたと見れなくもない。

 その後秀吉朝鮮出兵を強行。文禄二(1593)年、朝鮮で島津久保が病死し、義久は亀寿を久保の弟・忠恒に再嫁させて後継者とした。

 文禄三(1534)年、石田三成が義弘の領地を検地したことで島津氏の石高は倍増したが、これを機に豊臣政権は義久よりも義弘の方をあからさまに重んじる様になった。
 領地安堵の朱印状も義弘宛に出され、義久は事実上、当主の座を追われて大隅・富隈城に移ったが、家宝と領内での実権は保持し続けたため、義久と義弘の「両殿体制」となった。

 慶長三(1598)年八月に秀吉が没し、帰国した島津家は朝鮮での泗川の戦い等での軍功が評価され、五万石の加増を受けたが、家中の抗争が絶えず、義弘の子・忠恒が伊集院忠棟を斬殺するという事件が起きた。
 義久は事件を自分の知らなかったこと、と三成に告げ、家臣達には忠棟の子・伊集院忠真と連絡を取らないという起請文を出させた(庄内の乱)。

 やがて時代は関ヶ原の戦いを迎え、島津家は京都にいた義弘が西軍に加担した。義弘は再三国元に援軍を要請したが、義久も忠恒も応じなかった。

 周知の通り、関ヶ原の戦いは西軍の大敗に終わり、義弘は有名な的中突破を敢行し、僅かな友と共に薩摩に帰国。義久は島津家の生き残りを賭けた戦後処理に追われた。
 義久は、「西軍荷担は義弘が行ったもので、自分はあずかり知らぬこと。」として、講和交渉を開始。家康に謝罪するため上洛しようとした忠恒を止めた。
 しかし忠恒は義久や家臣の反対を振り切って上洛した。止む無くこれを追認した義久は「病のために上洛出来ず、代わりに忠恒が上洛する。」との書状を送った。
 一方で領内では徳川軍の襲来に備えて武備を磨き、対外的には頭を下げつつも徹底抗戦を辞さない姿勢を示す硬軟両面姿勢と、薩摩と中央の距離に助けられ、結果的に島津家は改易を免れただけでなく、西軍参加大名の中で唯一本領安堵を勝ち取った。

 慶長七(1602)年、家宝と家督を忠恒に譲り渡して正式に隠居したが、戦国のお約束で以後も幕府と書状をやりとりする等して死ぬまで家中に発言力を保持した。
 慶長九(1604)年、大隅・国分城に移り住んだが、その後娘・亀寿が家久(忠恒が改名)と不仲になったことから次第に家久との関係が悪化。娘夫婦に子が無かったことから外孫を後継者に据えようとしたりもした。また、義弘・家久父子が推進していた琉球出兵にも反対していて、慶長一五(1610)年頃には「龍伯様、惟新様(義弘)、中納言様(家久)」と云われた三殿体制も何かと不穏視されていた。

 慶長一六(1611)年一月二一日、国分城にて病死。島津義久享年七九歳。


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令和四(2022)年八月一七日 最終更新