第陸頁 北条氏直………実父と岳父の狭間で

降伏者北条氏直(ほうじょううじなお)
生没年永禄五(1562)年〜天正一九(1591)年一一月四日
降伏した戦争小田原合戦
降伏した相手豊臣秀吉
降伏条件小田原城明け渡しとタカ派責任者の切腹
降伏後高野山への追放。後に小大名に復帰
前半生 相模を中心に関東に覇を唱える北条氏の三代目・北条氏康の代に、その世子・北条氏政を父に、武田信玄の長女・黄梅院を母に永禄五(1562)年に次男として小田原城で生まれた。幼名・国王丸。兄の新九郎(←初代早雲以来の家督継承者の通称である)が早世していたため、事実上の嫡男として育てられた。

 永禄一一(1568)年末、外祖父武田信玄が駿河に侵攻し、相甲駿三国同盟が瓦解。祖父・氏康は同盟を破った信玄の非を鳴らして今川に味方し、夫婦仲が至って良かったにもかかわらず両親は離縁させられ、母・黄梅院は実家の武田家に戻された(翌年黄梅院は早世し、国王丸達は二度と母と会えなかった)。
 元亀二(1571)年、氏康が死去し、父・氏政が名実ともに当主となると武田との相甲同盟が回復した。

 天正五(1577)年一一月に上総に初陣。これ以前に既に元服していたと見られ、亡き兄の通称を受け継ぎ、新九郎氏直と号していた。
 初陣は優勢に戦いを進めることが出来、安房の里見義弘と和睦し、氏政の娘が里見義頼に嫁ぐことで北条氏と里見氏は年来の敵対関係から同盟関係に入った。
 三年後の天正八(1580)年八月一九日、父の隠居により家督を継いで北条家の第五代当主となった。尚、家中の実権は………………以下、略(笑)。
 ちなみにこの氏政隠居は出陣中に行ったという異例のもので、これは氏直と織田信長の娘の婚姻を為し、強固な同盟を結ぶことで、対武田、対上杉戦を有利にするため、氏直の名を当主として高める目的があったから、と見られている。
 と云うのも、北条家は氏康の代から武田・上杉とは同盟と離反を繰り返し、ただでさえ、難しい外交を強いられていた。そこへさして越後では上杉謙信の養子同士での家督争い、御館の乱が勃発し、北条家は氏直の叔父である上杉景虎(北条氏秀)を押していたが、武田勝頼が上杉景勝を押して、景虎が滅ぼされたため、北条家は武田家と絶縁し、同時に新生上杉家とも敵対関係にあった。

 謂わば、戦国の二大勢力を同時に敵に回した状態で、氏直も天正九(1581)年に駿河三島で叔父・武田勝頼と戦いもした。
 結局、北条家は武田・上杉と対抗する為、織田・徳川と手を結び、翌天正一〇(1582)年三月一一日に武田家は滅亡。その遺領を巡って北条家は信長家臣・河尻秀隆、滝川一益等と対峙したが、ろくに話し合う間もなく六月二日に信長が本能寺の変で横死した。
 河尻秀隆は甲斐に対する圧政を恨んだ土豪一揆に殺害され、甲斐が無主となると、氏直は叔父の北条氏邦等と共に四万三〇〇〇の大軍をもって上野侵攻を開始し、同月一八日には金窪城で北条軍と滝川軍は激突した。
 初戦は氏邦が率いる先鋒隊が敗退したが、翌一九日の神流川の戦いでは氏直本軍が一益軍に勝利。敗走する一益を追って上野から信濃に侵攻し、佐久郡・小県郡を支配下におさめ、諏訪へ進軍し諏訪頼忠を味方に付けた。更に木曾義昌(叔母・真竜院の夫)とも連絡を取り、中信地方を制した(この大敗で一益は織田家中における発言力を大いに低下させた)。

 八月に氏直は若神子城(現・山梨県北杜市須玉町若神子)に本陣を置き、新府城に本陣を置いた徳川家康軍と対陣した。
 北条家は、氏直が武田信玄の外孫であることを理由に、「甲斐は祖父の旧領国」として、その領有権を訴え、徳川軍との対陣は八〇日間に及んだ(天正壬午の乱)。
 しかし、その間に北条に帰参していた真田昌幸や木曾義昌が離反し、家康方の依田信蕃が遊撃戦で北条軍の補給路を脅かし、別働隊の北条氏忠・北条氏勝が甲斐八代郡黒駒(現・山梨県笛吹市御坂町)において徳川方の鳥居元忠等に敗退したため戦線は膠着した(黒駒合戦)。

 結局一〇月二七日に、織田信雄・信孝兄弟の調停を受けて、上野は氏直、甲斐・信濃は家康が領有し、家康の娘・督姫が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立した。
 これにより西方の憂いを断てた氏直は下野・常陸方面に侵攻して勢力を拡大し、佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝、太田資正らを圧迫した。
 しかしその間中央では信長の遺領と権威を上手く引き継いだ豊臣秀吉が関白にまで登り詰め、関東惣無事令を発令して、関八州の諸大名に対して私戦を禁止してきた。



戦端 惣無事令自体は私闘を禁じて、世を平安にするものだが、それに従うことは同時にそれを命じた関白である豊臣秀吉への臣従を意味するものでもあり、上杉景勝・佐竹義宜・大友宗麟の様に従う者もいれば、伊達政宗・島津義久の様に従わぬ者もあり、北条氏直は表立っては逆らわなかったが、天正一五(1587)年には秀吉との戦いを意識した軍備増強に務めていた。
 勿論無闇に戦おうとした訳ではなく、一方では天正一六(1588)年春には岳父・家康の仲介も受けて、八月に叔父・北条氏規(←今川家の人質だったことがあり、家康とも旧知だった)を上洛させて秀吉との交渉に臨んだ。

 一般に氏直と氏規が穏健派で、氏政、や叔父・氏照等が強硬派と見られているが、これには諸説ある。いずれにせよ北条は硬軟織り交ぜた善処に務めた。だが、北条家の完全屈服を望む秀吉は、天正一七(1589)年に秀吉の沼田裁定による沼田城受取後に、猪俣邦憲が真田昌幸の支城・名胡桃城を奪取する事件が起きると、これを「惣無事令違反である。」として小田原征伐に踏み切った。
 このことについて、氏直秀吉側近の津田盛月・富田一白、家康に対して釈明への執り成しを求めたが、家康は既に秀吉から小田原征伐に関する軍議に出席するよう求められて上洛した後だった。

 そして天正一八(1590)年、秀吉による小田原征伐が始まった。



降伏 豊臣秀吉の号令一下、小田原に押し寄せた軍勢は三〇万に及んだ。
 単純比較は早計だが、それでも桶狭間の戦いにおける今川義元軍四万が、「多過ぎる。二万五〇〇〇ほどだ。」と云われ、三方ヶ原の戦いにおける武田信玄軍二万七〇〇〇が「大軍」と云われ、足利義昭を奉じて上洛した際の織田信長軍が(質はともかく)六万人だったのに世の人々が度肝を抜かれた数感覚の時代、三〇万はとんでもない数で、さすがに北条家の誰もこれとまともに戦おうとは思わなかった。

 北条氏直も籠城第一とし、領国内に動員令をかけ、各城を修築して豊臣軍襲来に備えさせた。実際、難攻不落を誇った小田原城は上杉謙信・武田信玄という二大名将の侵攻をも防ぎ切った名城で、食料の備蓄も数年分は充分に確保していた。
 だが、さすがにこれまでとは勝手が違った。

 小田原城自体は北条家中が一致団結して粘りに粘れば数年持ち堪えることは可能だったと思われる。ただ、周辺の支城はそうはいかなかった。氏直も山中城落城後は小田原城に籠城したが、そもそも籠城戦が優位に展開すると見込まれるのは、味方に援軍が来るあてがあるか、敵方の団結に破綻要因があるか、が期待出来ればこそだった。
 実際、援軍は期待出来る状態ではなかった。奥羽の伊達政宗を初め、同盟者がいない訳ではなかったが、秀吉に抗し得るには明らかに力不足で、岳父である徳川家康が秀吉を裏切って味方してくれると期待するには根拠が無さ過ぎた。
 当然、北条家中でも徹底抗戦に期待を寄せる者と期待出来ないとする者とで籠城を続けるか否かを決める為の小田原評定は三ヶ月に渡って結論が出ず、本来なら優れた合議制であった小田原評定はその結末が悪かったために悪しき代名詞となってしまった。

 ともあれ、豊臣秀吉は結論の出ない北条家中の決断を何もせず待つ様な甘い相手ではなかった。三ヶ月が経過する中、小田原城は水陸から完全に包囲され、支城が次々に落とされ、重臣・松田憲秀の内通まで発覚した。
 事ここに至り、七月五日に秀吉方の武将・滝川雄利の陣所へ赴いて、氏直自身が切腹することにより将兵の助命を請い、秀吉に降伏した。

 将兵の為に死ぬ覚悟の氏直だったが、これに対して秀吉氏直の申出を神妙とし、家康の婿であったこともあって氏直を助命し、タカ派と見た氏政・氏照兄弟、重臣大道寺政繁・松田憲秀の切腹を命じた。
 同月一一日に北条氏政・北条氏照は切腹。翌一二日、氏直は高野山への配流が決まり、二一日に一族・近臣三〇余名を伴って小田原を出立し、八月一二日に高野山に到着し、謹慎生活を送った。



その後 降伏の翌年である天正一九(1591)年一月、北条氏直は徳川家康に赦免の口利きを依頼。翌二月には豊臣秀吉から家康に赦免が通知され、五月上旬には大坂で旧織田信雄邸を与えられた。
 降伏から一年となる八月一九日、氏直秀吉と対面し正式に赦免と河内及び関東において一万石を与えられ小大名として復活した。
 更に小田原に居住していた督姫も二七日に大坂に到着し、家臣への知行宛行、謹慎中の借財整理等と、大名職復帰に邁進していたが、その矢先の一一月四日に疱瘡(天然痘)のために大坂で病死した。北条氏直享年三〇歳。
 尚、氏直の遺領及び北条家の名跡は従弟・氏盛(氏規の子)が相続し、北条家は河内狭山藩主として幕末まで存続した。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和四(2022)年八月一七日 最終更新