第漆頁 徳川慶喜………日本人同士で争うぐらいなら

降伏者徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
生没年天保八(1837)年九月二九日〜大正二(1913)年一一月二二日
降伏した戦争戊辰戦争
降伏した相手朝廷
降伏条件江戸城開城、水戸への謹慎
降伏後謹慎後、罪を許されて叙爵
前半生 天保八(1837)年九月二九日、水戸徳川家・第九代藩主・徳川斉昭を父に、その正室で有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の娘・吉子を母に、七男に生まれた。幼名は七郎麿(しちろうまろ) 。

 七男故に家督継承は望めず、良き養子の口が得られれば、と考えた斉昭は彼に英才教育を施し、七歳の折より水戸の藩校・講道館に登館し、優れた師が宛がわれ、七郎麿は、文武両道(学問、砲術、弓術、剣術、水泳、馬術を叩き込まれた
 その甲斐あって七郎麿は文武に優れた少年に育ち、第一二代将軍徳川家慶から御三卿の一つである一橋家の相続を請われた(七郎麿の母と家慶の正室は実の姉妹で、家慶にとって七郎麿は実の甥という縁もあった)。

 弘化四(1847)年九月一日、七郎麿は弱冠一一歳で元服し、それに際して家慶の偏諱を受けて「」の字を賜り、一橋慶喜となるとともに、従三位左近衛権中将兼刑部卿に叙任された。
  その六年後の嘉永六(1853)年に黒船来航を受けて世の中は、幕政は大きく混迷する中、同年六月二二日に家慶が病没し、息子である家定が一三代将軍となったが、生来病弱な彼に対して周囲は難局を乗り切る力以前に、子作りを初めとした幕府を存続させる能力も期待せず、即座に将軍継嗣問題が持ち上がり、幕府内は二人の候補者を巡って対立した。

 早い話慶喜と、紀伊慶福が推された。
 紀伊慶福は紀州藩第一三代藩主にして、一一代将軍家斉の孫でもあった。第九代家重以来、征夷大将軍は紀州出身だった八代吉宗の子孫で、その古巣である紀伊徳川家から慶福を迎えんとした者達は「南紀派」(主に尾張家・紀伊家・田安家)と呼ばれた。
 それに対し、先代家慶の覚えも目出度く、家慶・家定の古巣である一橋家の英明の当主・一橋慶喜を迎えんとする者達(主に一橋家・水戸家)は「一橋派」と呼ばれた。

 この暗闘に際し、実父・斉昭の根回しで老中阿部正弘や島津家の支持も取りつけた慶喜だったが、家定生母・本寿院等が慶喜を嫌い抜き、阿部正弘が早世した後、南紀派の井伊直弼が大老に就任したことから直弼の手によって慶福が家定後継者に決定した。
 それを待っていたかのように家定は直後に三五歳で没し、同年一〇月一日、徳川慶福改め徳川家茂が第一四代征夷大将軍・内大臣・右近衛大将・源氏長者に就任した。

 家茂を擁し、大老として辣腕を振るった直弼は、勅許を得ないまま、米国総領事ハリスとの間に日米修好通商条約を締結。この強権発動を怒った斉昭は、慶喜・越前福井藩主・松平慶永(春嶽)等とともに不時登城を行って井伊を詰問せんとしたが、却って直弼のために登城停止・隠居謹慎を命じられた(安政の大獄)。
 だが、これに怒った水戸藩脱藩の浪士達が二年後の万延元(1860)年三月三日に登城中の直弼を襲撃・暗殺し(桜田門外の変)、同年九月に慶喜の隠居謹慎が解かれた。

 更に二年後の文久二(1862)年に軍勢を率いて上洛した薩摩藩主の父・島津久光が孝明天皇に掛け合い、二六歳の慶喜を、若干一七歳である将軍家茂の将軍後見職に、松平春嶽を大老にせよとの勅命を引き出し、勅使・大原重徳が護衛の薩摩軍とともに江戸へ入り、談判後に幕臣も慶喜を徳川家茂の後見職に、松平春嶽を政事総裁職に就任させることに合意した。

 慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革で松平容保の京都守護職就任、参勤交代制の緩和、軍制改革等を推進。 翌文久三(1863)年の家茂の先触れとして上洛して、初めて天皇(孝明天皇)に拝謁した。
 このとき、強硬な攘夷論者であった孝明天皇にその断行を迫られ、勅命を受けて江戸に戻るが、実際には攘夷行動を取らず、生麦事件長州征伐、家茂と和宮(孝明天皇妹)の婚姻による公武合体問題の対応に尽力した。
 だが、攘夷問題を巡って自分を立ててくれた島津久光と慶喜は対立。京都にて朝廷から禁裏御守衛総督に任ぜられ、松平容保らとともに尊皇攘夷派の浪士や過激派の公家の取締りを行った。
 元治(1864)元年に禁門の変(蛤御門の変)で京都の軍事的奪回を図り、慶喜は幕府軍を指揮して長州勢力を駆逐した(後に長州は朝敵とされ、これが第一次長州征伐へ繋がった)。
 その際に慶喜は長く違勅状態だった日米修好通商条約などの条約の勅許に奔走し、条件付で勅許を得たことで公武双方の顔を立てる等、慶喜は軍事に、政治に、外交に、内政に八面六臂の活躍を展開した。

 だが、長州藩は慶應二(1866)年六月に坂本竜馬を仲立ちで密かに薩摩藩と薩長同盟を締結。それに力を得た長州藩に対する第二次長州征伐に幕府軍は敗れ、その最中に将軍家茂が大坂城で薨去(同年七月二〇日)し、慶喜も休戦の勅命を引き出さざるを得なかった。

 慶喜は勝海舟を厳島へ派して幕長休戦協定が結ぶと家茂の死から一ヶ月後の八月二〇日に徳川宗家を相続し、一二月五日に正二位権大納言兼右近衛大将に叙任されると同日、征夷大将軍宣下となり、第一五代征夷大将軍に就任した。時に徳川慶喜三〇歳。

 将軍となった慶喜は積極的に欧米の近代的文化の摂取に努め、フランス公使・ロッシュの助言を得て、フランス式の軍制改革を行い、欧米留学も奨励し、実弟・徳川昭武を留学・万博出席させた。
 一方で条約勅許問題の紛糾により政局の中心を京都に移さざるを得ず、慶喜は文久三(1863)年の入京以来、天狗党追討出陣と数度の大坂下向以外は京都に常在し、将軍在職中に江戸に帰ることはなかった。
 だが、そこまでして朝廷との関係良化に務めた慶喜だったが、孝明天皇が急死したことで運命は急転直下した。
 過激な攘夷論者で、ヒステリックな面が目立つ孝明天皇だったが、それでも幕府に対してはかなり好意的な人物で、過激な発言も幕府を頼ればこそで、公武合体にも協力的だった。そんな孝明天皇の急死により、岩倉具視を筆頭とする倒幕派の急速な台頭が招かれた。

 慶喜は薩長が武力倒幕路線に突き進む中、外交を初めとする諸問題からも政局混乱・社会激動は押さえ難く、外交方針が朝廷と幕府とで食違いを見せること等が問題視され、強力な国家を創る為、政権が一元化されなければならないと認識されるようになった。
 既に幕府に反対勢力を駆逐して実権を回復する力がなく、朝廷を中心とした新政権を樹立することで大名の合議制によって国政を運営に賭けた慶喜は政権を返上し、その後の大名の合議制による政権体制の中で自らが指導力を発揮することに期待を繋がんとした。

 慶応三(1867)年一〇月一四日、土佐藩士後藤象二郎の要請を受けた前土佐藩主・山内容堂の説得を受けて徳川慶喜は京都二条城において統治権を朝廷へ返還する旨の上奏文を提出した(大政奉還)。
 翌一五日朝廷慶喜に参内を命じ、小御所において大政奉還勅許の御沙汰書を渡した。ここに源頼朝以来七〇〇年に及んだ武家政権はその終焉を告げた。

 幕府・征夷大将軍位・武家政権と云った犠牲の大きい、全面降伏に等しい断腸の決断だったが、これにより倒幕勢力や、日本植民地化を進める欧米列強には有効な肩透かしとなった。
 実際、慶喜が上表書を提出したその日、薩長両藩は倒幕の密勅を受けていたが、大政奉還によって(一先ずは)武力討伐の意義をなくした。
 屈辱的だったとは思うが、薩摩守は大政奉還を、要らざる内乱を最小限に食い止めた、優れて高度な政治的判断であったと同時に、徳川慶喜の大英断と見ている。

 勿論、慶喜の腹に一物が無かった訳ではない。
 朝廷は七〇〇年近くも政治から遠ざかっており、慶喜朝廷に俄かに行政(それも難局だらけ)を担えるとは見ておらず、徳川を盟主とした新しい政府組織を模索していたと云われている(実際大政奉還直後もイギリス公使パークスは交易に関して慶喜を頼り、フランス公使のロッシュに至っては幕府延命の援助まで申し出ていた)。



戦端  徳川慶喜朝廷と戦う気は、はっきり云ってなかった。何せ黒船来航とそれに続く欧米列強との諸条約締結に始まる外交はその後も幕府・朝廷の難題であり続けた。それゆえ、慶喜は日本人同士で争っている場合ではないと判断し、討幕派の先手を打って大政奉還し、敵の大義名分を失わせた。 
 しかし、革命の性とでも云おうか、責任者の血を見ずには治まらない歴史のセオリーなのか、武力討伐路線を望む薩摩の大久保利通・西郷隆盛や野望多き公家の妖怪・岩倉具視等の画策で、一二月九日に王政復古を宣言した朝廷は、翌年四月一一日慶喜に辞官納地が命た。

 つまりはそれまで征夷大将軍としての(一応は)官職に基づいて支配していた土地も建物もすべて差し出せ、との命令で、既に降伏した者に対して慈悲も正論もない追い討ちで、岩倉並びに薩長の執念はえげつないほどだった。
 さすがにかかる要求を受けては幕臣にも諸大名にも納得しない者は多く、抗命抗戦を主張する者も多かったが、慶喜は争いを避けて二条城から大坂城へ退去した。

 だが、それでも幕府を武力で壊滅させようと云う動きは止まらなかった

 薩摩・長州両藩はあくまで武力で慶喜及び徳川幕府を倒さんとし、明治元(1868)年に薩摩による江戸での市内工作や慶喜への仕打ちに怒る会津藩、桑名藩が兵を用いて京都の軍事的封鎖したことから衝突が起こった(鳥羽・伏見の戦い)。
 薩摩による余りに露骨な挑発にさすがに慶喜も「討薩の表」を作り、「君側の奸を除く」と称して、軍を京に進めたが、薩長軍に「錦の御旗」が与えられ、大義名文を失うに及んで諸大名の離反が相次ぎ、慶喜もこれ以上の抵抗は無益、と考えた。
 そして松平容保・松平定敬(桑名藩主)、老中・板倉勝静等と幕府軍艦・開陽丸で大坂を脱出し、江戸城へ入ったのだった。

 降伏した筈の慶喜への追討令まで下る理不尽さに、幕閣では小栗上野介忠順(ただのぶ)等が徹底抗戦も主張した。正直、小栗達の主張は全くの正論である。
 武力抵抗を為さず、事前に恭順の意を示して二六〇年間も担ってきた政権を返上すると云う全面降伏を示したのに、「討伐する!」と息巻き続けているのである。
 どうあっても命を奪いに来ると云うのなら、勝敗度外視で一人でも多くの敵兵を地獄への道連れにせんと考えたとしても全くおかしくない話である。
 だが、それでも慶喜は徹底抗戦を善しとしなかった。



降伏 恐らく、徳川慶喜大政奉還したにもかかわらず、武力で攻めると云う薩長や岩倉具視を初めとする公家の非を鳴らし、幕府に恭順していた各藩と一致団結して全戦闘能力を持って徹底抗戦していれば、慶喜及び幕府は関東に一大勢力を存続せしめられたのではないかと思われる。
 だが、慶喜はそうしなかった。彼が真に警戒したのは薩長でも朝廷でもなく、内戦状態に陥った日本に協力すると見せ掛けて日本国内に利権を築かんとする欧米列強だった。
 文明・軍制・産業技術において欧米の後塵を拝している状態の日本を、植民地化の危機を脱出せしめ、不平等条約を解消し、一日も早い富国強兵・殖産興業を成す為にも日本人同士が争っている場合じゃなかったのである

 慶喜は小栗上野介を初めとする徹底抗戦派を宥め、朝廷への恭順を表明して明治元(1868)年二月に幕臣・勝海舟に収拾を一任して上野寛永寺の大慈院において謹慎した。
 四月、新政府軍の西郷隆盛と勝との会談で江戸城の無血開城・徳川宗家存続が決定し、慶喜の処遇は水戸謹慎となり、かつて自分自身も学んだ水戸藩校・弘道館において引き続き謹慎を行った。
 七月に水戸から駿府へ移ったが、翌明治二(1869)年に戊辰戦争が終結すると、同年九月に慶喜の謹慎が解除された。時に徳川慶喜三三歳。



その後 事の是非はどうあれ、明治新政府徳川慶喜の降伏を受け入れ、謹慎・恭順を示す慶喜をそれ以上攻めないことに同意した。旧幕府勢力の中には東北・蝦夷地に渡って新政府のやり方に非を鳴らし、抵抗の道を選んだ者もいた(詳細は次頁参照)が、それも明治二(1869)年に終結した。

 これら徳川幕府終焉に向かう一連の歴史的な流れにおいて、とかく戦う事を選ばなかった慶喜の決断は長く「敵前逃亡」・「臆病者」の非難・嘲笑を生みもしたが、「韓信の股潜り」並に屈辱に耐えた慶喜の勇気は、要らざる内乱が避け、欧米列強からの干渉を受けずに済ませたとの評価の声も遥か以前から理解する人は理解していた。

 もし慶喜が徳川幕府最高権力者の地位とプライドに固執し、既得権益を手放そうとせずに徹底抗戦を選んでいれば、公武の争いはかなりの確率で欧米列強の干渉を生んだであろうことは想像に難くない。
 前述のフランス公使ロッシュの武力援助の申し出も、下手に応じると日本の一部をフランスに割譲する事にもなりかねない危険性が充分にあった。
 実際、フランスは戊辰戦争後にも五稜郭に共和国を建国せんとした榎本武揚にも援助の交渉を行い、仏軍を日本に介入させようとしていた。
 世界史を紐解けば、個人の権力を守ろうとして内憂の排除に外国の軍隊を頼ったが為に「ひさしを貸して母屋をとられる」の例え通りになりかけた例が腐るほどある。
 屈辱に耐え、抵抗を選ばなかった徳川慶喜の英断に多くの日本人が救われた事は紛れも無い事実で、幕臣でありながら江戸城明け渡しに応じた勝海舟にしても西郷との交渉が決裂した場合に、江戸を焼き払う焦土戦術や、軍艦による英国亡命と云った手段を用いてでも慶喜の首を新政府軍に渡すまいとして会談に臨んでいた。

 ともあれ、戊辰戦争が終結するとその年の内に慶喜の謹慎は解かれた。既に前年に、勅諚に従って徳川宗家当主の座を田安亀之助(徳川家達)に譲っていた慶喜は政治に関わらず家族と趣味に生きる日々を歩み出した。
 朝廷からは明治五(1872)年に従四位、同一三(1880)年に正二位、同二一(1888)年に従一位、と官位を上げ続けられたが、慶喜は政治に関与しなかった。
 家族(正室・側室合わせて四人の妻妾、一〇男一一女)との時間を、多趣味(狩猟・謡曲・囲碁・写真撮影・釣り・自転車・油絵・打毬・鶴の飼育・刺繍・能楽・馬術・弓術・手裏剣術・歴史学・グルメ等)に生きた。

 最終的に、明治三一(1898)年に皇居に参内して明治天皇に拝謁し、四年後に公爵となった。
 慶喜自身、そこに取り立てての価値を感じていた訳でもなかったが、内政・外交・憲法制定など日本国内が落ち着くに及んで、かつての慶喜の恭順が正当に評価され出し、明治政府も華族勢力の懐柔の為にも慶喜優遇に務めた。

 そして明治四一(1908)年四月三〇日には大政奉還の功に対して勲一等旭日大綬章が授与され、当時の英断が名実供に正式に評価された

 その五年後の大正二年(1913)一一月二二日に逝去した。徳川慶喜享年七七歳(徳川将軍一五人の中で最も長生きした)。


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令和四(2022)年九月一五日 最終更新