第捌頁 榎本武揚………見果てぬ北方の夢

降伏者榎本武揚(えのもとたけあき)
生没年天保七(1836)年八月二五日〜明治四一(1908)年一〇月二六日
降伏した戦争箱館戦争
降伏した相手明治新政府
降伏条件蝦夷共和国廃止
降伏後服役後、政界復帰
前半生 天保七(1836)年八月二五日に、幕府西丸御徒目付・榎本武規(箱田良助)の次男として江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)に生まれた。

 父の武規は伊能忠敬の弟子だった人物で、武揚はその縁もあって嘉永四(1851)年に昌平坂学問所に入学し、黒船来航の嘉永六(1853)年までそこで学んだ。
 安政元(1854)年、箱館奉行の堀利煕の従者として蝦夷地箱館に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行。この時から北海道に浅からぬ縁を持つ人物となった。

 翌安政二(1855)年、昌平坂学問所に再入学後、長崎海軍伝習所の聴講生となった後、安政四(1857)年に第二期生として入学したと云うから、時代的には次代幕政の外交を担うホープとして最先端の学びを得ていたと云える。
 翌安政五(1858)年同所を修了し、江戸の築地軍艦操練所教授となった。

 文久元(1861)年一一月、幕府はアメリカに蒸気軍艦三隻を発注し、榎本他六名をアメリカへ留学させんとした。しかし、当時アメリカは南北戦争の真っ只中にあったため、留学要請は断られ、翌文久二(1862)年三月にオランダに蒸気軍艦(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった。
 同年六月一八日、留学生一行は咸臨丸で品川を発し、長崎に到着後、オランダ船にてバタビア、セントヘレナ島をへて翌文久三(1863)年四月一八日、オランダに到着。同国にて船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学んだ。その間、プロイセン、オーストリア、デンマークフランス、イギリス等を訪問し、様々な技術を学んだ。
 特にフランスでは同国が幕府に軍艦購入を持ち掛けたこともあり、フランス海軍と交渉したりもした。

 慶応二(1866)年七月一七日に開陽丸が竣工。同年一〇月二五日、榎本達留学生一行は開陽丸にてオランダを発ち、リオデジャネイロ、アンボイナを経由して、慶応(1867)三年三月二六日に横浜港に到着し、帰国を果たした。
 同年五月一〇日に幕府に召し出され、開陽丸乗組頭取(艦長)を初め、幕府海軍職に任ぜられ、和泉守を名乗るようになった。

 同年末、榎本は幕府艦隊を率いて大坂湾へ移動し、京都での軍議にも参加した。
 既に幕府は末期で、薩摩・長州は幕府への露骨な敵意をむき出しにしており、榎本は翌慶応四(1868)年)一月二日、四日と、大坂湾にて薩摩藩の軍艦に攻撃し、これに勝利した。
 この攻撃に薩摩藩は抗議してきたが、それに対し榎本は、薩摩藩邸焼き討ち以来、「薩摩藩とは戦争状態にあり港湾封鎖は問題ない。」と主張。
 直後の鳥羽・伏見の戦いにおいての旧幕府軍敗北を受けて、榎本は軍艦奉行・矢田堀景蔵ともに幕府陸軍と連絡を取った後、一月七日に大坂城へ入城し、新政府軍に抗戦せんとした。
 しかし徳川慶喜は既に前日の夜に大坂城を脱出しており、七日朝、榎本を捨て置いて榎本が指揮していた開陽丸にて江戸へ引き揚げていた。

 大坂城に取り残された榎本は城内の銃器や刀剣、一八万両の金子を順動丸と翔鶴丸に積み、自身は新撰組や旧幕府軍の負傷兵らとともに富士山丸に乗り、一二日に大阪湾を出発、一五日、江戸に到着した。
 一月二三日、榎本は海軍副総裁に任ぜられ、徹底抗戦を主張したが、慶喜に戦意は無く、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従い、榎本派が旧幕府艦隊を支配した。

 そんな恭順の意を示す慶喜に対し、明治新政府は完全屈服を目指して江戸に進軍してきた。幕府側では勝海舟を西郷隆盛と面談させて旧幕府軍の降伏、江戸城無血開城を成立させた。
 しかし、新政府軍は江戸開城に伴う降伏条件の一つとして、旧幕府艦隊の引渡を要求していたが、榎本はこれを拒否し、悪天候を口実に艦隊八隻で品川沖から安房館山に脱走した。
 一時は勝海舟の説得により品川沖へ戻り、四隻(富士山丸・朝陽丸・翔鶴丸・観光丸)を新政府軍に引渡したが、開陽等の主力艦の温存に成功した。榎本は尚も抗戦する腹で、勝に艦隊の箱館行きを相談したが反対される。

 五月二四日、徳川宗家の駿河・遠江七〇万石への減封が決定すると榎本は移封完了を見届けるとしつつも、配下の軍艦で、遊撃隊や請西藩主・林忠崇に協力して館山藩の陣屋を砲撃した上、小田原方面へ向かう彼等を館山から真鶴へ輸送したほか、輪王寺宮や脱走兵を東北地方へ運ぶなど旧幕府側勢力を支援した。
 七月には奥羽越列藩同盟の密使と会い、脱走を準備。八月一五日に徳川家達(慶喜養子で、第一六代宗家当主)が駿府に移り移封が完了すると榎本は一九日、抗戦派の旧幕臣と共に開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の八艦からなる旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、奥羽越列藩同盟の支援に向かった。
 江戸脱出は、勝海舟には慎むべき軽挙妄動とされていたが、榎本は檄文と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を勝海舟に託し、箱館に向かった。

 檄文は王政復古を善しとしながら、それに伴う明治新政府の旧幕府に「朝敵」の汚名を着せる等の仕打ちに対する怒りと抵抗を示し、旧幕臣達に共に立ち上がることを呼び掛ける内容だった。
 だが、その旅立ちは初っ端から多事多難であった。房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、咸臨丸・美賀保丸の二隻を失った。八月下旬頃から順次、寒風沢島に到着、九月二日に榎本は仙台城で伊達慶邦に謁見し、その後の仙台藩の軍議に参加したが、この時点で奥羽越列藩同盟は崩壊しており、九月一二日には仙台藩も降伏を決定した。
 土方歳三と共には登城して翻意させようとしたが、藩の決定は覆らず、榎本は幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、鳳凰丸を艦隊に加え、桑名藩主・松平定敬、大鳥圭介、土方歳三らと旧幕臣の伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊など、合わせて約三〇〇〇名を収容し、一〇月九日に石巻へ移動した(このとき、新政府軍・平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出した)。
 一〇月一二日、石巻を発つと気仙沼、宮古を経て蝦夷地へ向かった。



戦端 蝦夷地に着いた旧幕府軍は、一〇月二〇日に箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木に上陸。二手に分かれて箱館へ進撃、各地で新政府軍を撃破し、同月二六日に五稜郭を占領し、榎本武揚は一一月一日に五稜郭に入城した。
 その後、榎本は状況把握と自国民保護の為に軍艦を箱館に派遣していたイギリスとフランスの艦長および在箱館領事と会談。イギリス公使パークスとフランス公使ウートレーからは、旧幕府軍を交戦団体として認めず、日本の内戦に対する不干渉を要請し、「厳正中立を遵守する、旧幕府軍については英仏国民の生命・財産・貿易保護のためにのみ限定して『事実上の政権』として承認する」という、内容の覚書を得て、榎本は事実上の政権として認められたと喧伝した(パークスは後にこのことを否認したのだが)。

 だが、上手くばかりはいかなかった。
 榎本一二月一日に明治新政府宛の嘆願書を英仏の艦長に託したが、一四日、明治新政府はこれを拒絶。これを受けて翌一五日、榎本は蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙により総裁となった。
 だが三日後の同月一八日、局外中立を宣言していたアメリカが明治新政府支持を表明。幕府が買い付けた装甲艦・甲鉄(戊辰戦争の勃発に伴い引渡未了だった)も新政府に引き渡された。
榎本はこの状況を打破すべく、翌明治二(1869)年三月二五日早朝、宮古湾に停泊中の甲鉄を奇襲し、奪取する作戦を実行したが失敗した。



降伏 そして四月九日、新政府軍は遂に蝦夷地上陸。旧幕府軍は五月初めには箱館周辺に追い詰められた。
 五月八日早朝、榎本武揚は自ら全軍を率いて大川(現・七飯町)の新政府軍本陣を攻撃するが撃退され、 新政府軍は同月一一日に総攻撃を掛け、箱館市街を制圧した。
 直後、新政府軍は箱館病院長・高松凌雲の仲介で五稜郭の旧幕府軍に降伏勧告の使者を送ったが、一四日、榎本等はこれを拒否する回答状を送った。
 だが、榎本自身、勝算が無きに等しいことを自覚していたようで、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた『海律全書』が戦火で失われるのを避けるため、降伏拒否の回答状と一緒に同書を新政府軍海軍参謀に贈っていた。これに対して新政府軍は海軍参謀名で感謝の意といずれ翻訳して世に出すという内容の書状と酒肴を返送した。

 翌日の一五日、弁天台場が降伏。翌々日の一六日に千代ヶ岱陣屋が陥落するとその夜、榎本は責任を取り自刃しようとしたが、近習の大塚霍之丞に制止された。
 結局一七日、榎本等旧幕府軍幹部は亀田八幡宮近くの民家で黒田清隆等と会見し、降伏約定を取り決め、一八日朝、亀田の屯所に出頭・降伏した。



その後 榎本武揚等旧幕府軍幹部は、熊本藩兵の護衛の下、五月二一日に箱館を出発し、東京へ護送され、六月三〇日に兵部省軍務局糾問所の牢獄に収監された。
 政府内では榎本等の処置に関して対立があり、木戸孝允等長州閥は厳罰を求めたが、箱館にて榎本と相対していた黒田清隆が、後年犬猿の仲となった福沢諭吉が、助命を求めた。

 獄中では、洋書などの差し入れを受け読書に勤しみ、執筆や牢内の少年に漢学や洋学を教えたりして過ごしていた榎本は明治五(1872)年一月六日、特赦により出獄。親類宅で謹慎をへて、三月六日に放免となった。
 その二日後、黒田が次官を務めていた開拓使に四等出仕として任官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。
 以後、榎本は函館周辺を手始めに日高、十勝、釧路方面の資源調査、石狩炭田開発、農場経営、土地管理等の北海道開拓に尽力。
 南下政策を続けていたロシアとの関係がきな臭くなると、駐露特命全権公使に任命され、サンクトペテルブルクにて皇帝アレクサンドル2世に謁見し、明治八(1875)年五月七日、樺太・千島交換条約を締結した。この条約は樺太を丸々失う屈辱的なものとされたが、一方で榎本は日露間で起きた船舶事件の裁判にて日本側の勝訴を勝ち取ってもいた。
 それらの実績やその後のロシア見聞から黒田からはますます重用され、外交に、海軍軍事に、明治宮殿の建設に、八面六臂の活躍をし、内閣制度が成立すると第一次伊藤内閣の逓信大臣就任を皮切りに、続く黒田内閣では逓信大臣に留任するとともに、農商務大臣を一時兼任し、それ以後も文部大臣(第一次山縣内閣)、外務大臣も歴任した。
 殊に外務大臣は大津事件(来日中のロシア皇太子が警備の警察官に斬り付けられ、負傷した事件)で引責辞任した青木周蔵の後を受けたもので、それ以前の対露外交経験・手腕を買われたものだった。

 その後も農商務大臣(第二次伊藤内閣)を務め足尾銅山鉱毒事件やメキシコ移民政策にも関与。明治三三(1900)年、盟友にして恩人・黒田清隆が死去した際には葬儀委員長を務めた。
 明治三八(1905)年一〇月一九日、海軍中将を退役すると事実上の引退となり、明治四一(1908)年)一〇月二六日、腎臓病で死去した。榎本武揚享年七三歳。同月三〇日、海軍葬にて送られた。


 箱館戦争における敗北から降伏後の榎本武揚の人生はなかなか多様性に富んでいて一言では語り難い。
 幕臣時代から蝦夷地に関わり、海外事情に精通していたことが殖産興業や海軍軍事や外交の世界で求められたことが榎本の命を救ったのみならず、その後の政界での活躍をも生んだ訳だが、榎本的には複雑なものもあったことだろう。
 前頁でも触れたが、徳川慶喜が日本人同士で争っている場合ではないとして、逸早く朝廷に対して恭順の意を示していたにもかかわらず、明治新政府は徳川氏及び旧幕府の力を徹底的に殺ごうとしたため、榎本も一度は徹底抗戦の道を選び、慶喜と袂を分かち、箱館に退いてまで戦った。
 箱館戦争敗北に際しても、一度は自害も考えた。だが、彼は生きてかつて幕府を徹底的に潰そうとした明治新政府に仕えた。
 この選択に旧幕臣の中には榎本を白眼視する向きもあった。

 だが、最終的に榎本にとって大切だったのは日本の行く末だったのだろう。箱館戦争の最中にも敵である筈の明治新政府に蝦夷地の開拓とロシアへの備えを要請していたし、戦争で貴重な技術書が失われるのを恐れて新政府軍に贈呈までしているのである。
 その後の活躍が多過ぎるので、榎本は幕臣からすっかり明治新政府の高官に転身したと見られているし、実際その通りだとも思うが、彼の八面六臂の活躍の中には、戊辰戦争箱館戦争で命を落とした同志達への想いを抱えつつ、新生日本の為に旧敵とも協力をし続けたと薩摩守は見ている。

 逆を云えば、日本の未来に対する榎本武揚の指針が立場に関係なく、一貫してぶれていなかったから、戦闘相手であった黒田清隆や、論敵とも云えた福沢諭吉等が榎本の助命を請うたのだろう。

 榎本の義弟でもあった林董は、榎本の、一度相手を信用するととことん信じてしまう性格を評して、「友達としては最高だが、仕事仲間としては困る人だ。」と述べていた。
 過ぎたるは猶及ばざるが如しではあるが、榎本の真っ直ぐさは人として持っておきたい一点でもあると云えよう。


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令和四(2022)年九月一五日 最終更新