第参頁 姉川の戦い………本当に大敗したのは誰だ?

戦名姉川の戦い
合戦日時元亀元(1570)年六月二八日
敗者織田信長、朝倉義景
大敗度大敗度 ★★★★★☆☆☆☆☆
その後への影響★★★★★☆☆☆☆☆
損失浅井・朝倉は約一一〇〇名が戦死
戦経過 美濃・尾張を統べる織田信長と、北近江の大名・浅井長政が戦い、前者に徳川家康が、後者には朝倉義景がそれぞれ長年の同盟者として加勢した。

 背景として、永禄一三(1570)年に信長長政の同盟が崩壊したことにあった。二年前の永禄一一(1568)年に足利義昭を奉じて上洛を果たした信長は義昭を室町幕府の第一五代征夷大将軍に就任させ、天下人への足掛かりをつかんでいた。
 上洛に際して信長は南近江を領する守護大名六角義賢を撃破しており、このときには北近江を領有していた長政も、信長の妹婿としての縁から加勢していた。
 だが、義昭を推戴した信長が天皇・将軍への奉仕を名分として畿内各国の諸大名・国衆らに軍勢の上洛参集を命じ、それを越前の朝倉義景が拒否したことから信長長政の同盟に翳りが生じた。

 少し話が逸れるが、織田氏・浅井氏・朝倉氏の三氏は何とも複雑な関係にあった。
 そもそも織田氏の本拠である尾張も、朝倉氏の本拠である越前も有力大名である斯波氏が守護を務めており、織田も浅倉もその家来筋だった。それを戦国の下克上で越前は朝倉が、尾張は織田が実効支配する様になった。つまり両氏はそもそもが同格で、ライバルでもあった。
 そして浅井氏と朝倉氏だが、両氏は長政の祖父・亮政以来の友好・同盟関係にあり、長政の父・久政はその縁からも信長を快く思っておらず、六角氏との近江をめぐる抗争から長政信長の同盟に同意したものの、心情的には明らかに親朝倉だった。

 最後に織田と浅井だが、これは信長長政から始まる縁である。美濃の斎藤龍興と事を構える為、周囲に敵を減らしたい信長は、徳川家康に次いで長政にも妹・お市を娶せて同盟を結んだ。信長には浅井を斎藤に加勢させないメリットがあり、長政には対六角戦線を優勢にできるメリットがあった。
 かかる複雑な背景が絡み合っていたが、長政とお市の夫婦仲は至って良好で、長政自身信長の実力を認め、彼との関係を重んじた。既に妻を迎えていた長政だったが、お市を正室とし、婚姻・同盟締結時には賢政 (かたまさ)と名乗っていたのを、信長の「」の字を貰って長政と改めた程だった。

 そんな背景を抱えた同盟関係にあって、信長長政の間には、「朝倉氏と事を構える際には、必ず長政に相談する。」という約定があった。だが、信長は上洛命令に従わない義景に怒り、元亀元(1570)年四月に越前へ兵を進めた。そしてこのとき長政に連絡がいくことは無かった。
 信長の越前攻めは快調で、金ヶ崎城も落城し、朝倉滅亡は時間の問題かと思われた。だが、ここで突如長政義景に加勢し、信長の背後を襲ったことで信長は一転窮地に陥り、世に「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる壮絶な退却戦を経て美濃に戻った(このとき決死の殿軍を務めたのが家康と木下藤吉郎(秀吉))。

余談 長政が土壇場で信長を裏切ったこの戦、信長は当初全く信じずに取り合わなかったほど長政を信じていたため、裏切りが事実と知った時は愕然とし、怒り心頭になったと云われている。
 長政信長を裏切った理由として、一般に「浅井氏と朝倉氏との累代の同盟関係を重視したもの」と云われているが、昨今この両氏の同盟は学界にて否定的に見られているらしい(薩摩守も菜根道場BBSでの指摘を受けて知りました(苦笑))。
 もしそうなら、「信長が先に約定を無視した」との見解は成立せず、それゆえ信長も自分を慕う様子を見せる長政が裏切ったことに怒り心頭になったすれば、無理もない話である。

 ただ、そうなると長政義景と運命を共にする程両者を結ぶ付けたものが何だったのか?何故に長政とお市は良好な夫婦関係が続けられたのか?
 歴史の謎が解き明かされるにはまだまだ時間が掛かりそうである。

 ともあれ、以上の経過を経て、織田信長浅井長政の同盟関係は完全に瓦解した。
 その後信長信長で立て直しを図り、長政長政義景と共に敵対していた六角義賢とも連携して信長に供えた。

 元亀元(1570)年六月二一日、虎御前山に軍勢(史料により一万から三万五〇〇〇と諸説紛々)を布陣した信長は小谷城城下町を焼き払い、三日後の六月二四日に小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣した。
 ここに家康が五〇〇〇の兵を率いて加勢・参陣した。


 これに対して浅井・朝倉連合軍では、朝倉景健(義景の分家筋に当たる家臣)率いる八〇〇〇の援軍が到着し、小谷城の東にある大依山に布陣し、これに長政も五〇〇〇の兵を出し、連合軍は一三〇〇〇となった。

 六月二七日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引いたが、翌二八日未明に姉川を前にして、軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した(それゆえ、この姉川の戦いを、浅井家では「野村合戦」、朝倉家では「三田村合戦」と呼んでいた)。
この動きを受けて徳川勢は西の三田村に布陣した朝倉勢へと向かい、東の野村に布陣した浅井勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が向かった。

 そして午前六時頃、姉川の戦いの火蓋は切って落とされた。
 詳細「大敗」の功に譲るが、両軍の激突はかなりの激戦(合戦場付近に「血原」や「血川」といった地名が残った程である)で、織田勢が押しまくられる中、優勢に乗じた浅井・朝倉勢の陣形が伸び切っているのを見た家康が榊原康政に側面攻撃を掛けさせたところ、これが功を奏し、朝倉勢が、次いで浅井勢が敗走し、戦は織田・徳川両軍の勝利に終わった。

 信長は敗走する浅井・朝倉勢を小谷城から五〇町(約五km)の至近距離まで追撃したが、さすがに小谷城を落とすのは難しいと見て、付近に放火して横山城下に後退。まもなく横山城は降伏し、城番として秀吉が入城し、後々の浅井攻略における前衛基地となった。



大敗振り さて、本作を冒頭から第弐頁迄読まれた閲覧者の方々は、人物の色分けに違和感を抱かれているのではないだろうか?
 お気付きとは思うが、本作では大敗した者を赤文字で表記し、それに対して勝利した側を青文字で表記している。となると、この姉川の戦い織田信長徳川家康の連合軍が浅井長政朝倉義景軍を撃破したのだから、信長家康を青文字で、長政義景赤文字で表記するところを、勝者である信長赤文字で、敗者である長政青文字で表記しているのである。
 そもそも、共に戦いながら方や勝者で、方や敗者に色分けされているのを怪訝に思われいる方も多いと思われる。

 確かに「姉川の戦い」と呼ばれた戦そのものを見れば、織田・徳川軍の勝利で、信長は勝者、長政は敗者に(文字通り)色分けされる。だが、薩摩守はこの姉川の戦いにおける戦経過を重視し、過程内容として信長を大敗した者とし、長政を勝者として過言ではないほど健闘したと捉えている。
 そもそも、薩摩守が姉川の戦いに注目したのは、小学生の頃、ポプラ社の伝記で『織田信長』を読み、その後数々の史書を見て、最初の記憶に「変だぞ?」と疑問を抱いたからだった。
 同書では、「信長家康と共に姉川で浅井・朝倉連合軍と戦った時には酷い負け方をし」とあり、てっきり当時信長姉川の戦いに敗れたものと思っていたのに、その後どの書物を見ても、「信長家康姉川の戦いに勝利」と書かれており、分量の差から、長年ポプラ社の同書が誤って表記したと思っていた。

 謎が解けたのは、その後約一〇年以上を経て、漫画『徳川家康』 (原作・山岡荘八、漫画・横山光輝)を見た時だった。

 要するに、戦端が開かれた後、浅井勢と激突した織田勢はけちょんけちょんに押しまくられ、十三段構えの陣は次々に突破され、一番隊を率いていた坂井政尚の子・尚恒が討ち死にし、二番隊の池田信輝勢も突破され、その後に控えていた木下藤吉郎勢も、柴田勝家勢も浅井勢の突進を止められず、織田勢は五〇〇〇の浅井勢に押しまくられた。
 上述した様にこの戦に参戦した織田勢の数は諸説紛々なのだが、最も少ないとされるものでも八〇〇〇、最大では浅井勢の七倍の三万五〇〇〇(!)とするものもあり、地の利があったにせよ、自軍より少ない浅井勢に押しまくられたことに変わりはなかった。
 結局織田勢が攻勢に転じたのは、徳川勢が朝倉勢を切り崩し、織田勢に加勢した後のことで、徳川勢の奮戦が無ければそのまま負け戦になっていた可能性は濃厚だった。思うに、ポプラ社の伝記がこの姉川の戦いにおける織田勢を、「ひどい負け方をした」としていたのは、徳川勢が加勢するまで、浅井勢に対して為す術なく押しまくられたことを指していたのではないかと思われる。

 一方、徳川勢VS朝倉勢に目を転じると、朝倉勢の大敗は酷い体たらくだった。
 結局、姉川の戦いに浅井・朝倉両軍が敗れたのも、朝倉軍が自軍より少ない徳川勢に敗れ、織田勢への加勢を許したことに端を発している。「織田勢VS浅井勢」とは裏腹に、「徳川勢VS朝倉勢」では朝倉勢の方が軍勢は多く、八〇〇〇の兵で五〇〇〇の徳川勢に敗れた訳だが、ポプラ社の伝記『徳川家康』に至っては、朝倉勢は一万五〇〇〇という、徳川勢の三倍の軍勢を率いていながら徳川勢に惨敗し、戦局までひっくり返されたとされていた。

 ただ、この姉川の戦いにおける両極端な戦経過には「歴史の結果」と、「徳川の天下」を見据える必要があると薩摩守は考えている。
 云うまでもなく、戦国時代の最後の勝者となったのは徳川氏である。そして徳川の天下が盤石となった時、征夷大将軍の地位にあったのは第二代将軍徳川秀忠だった。勿論、その時点から綴られる歴史は徳川家を善玉とし、美化する史観が展開される訳だが、秀忠の正室にして、第三代将軍家光の母・お江(崇源院)が浅井長政の三女であったことを見落としてはならないだろう。

 浅井三姉妹の末娘であるお江が生まれたその年に浅井家は信長によって滅亡に追いやられた。謂わば、お江にとって信長は実の叔父でありながら、「父の仇」である。もっとも、この時点で彼女は物心がついておらず、当然父の記憶は無い。後から知ったにせよ、実家滅亡後は信長の庇護を受けていたのだから何とも複雑だったことだろう。
 ともあれ、複雑なその後の人生を歩んだ浅井三姉妹は歴史の流れに翻弄されつつも、実家である浅井家の名誉を個々に重んじた。それゆえ、「名将である筈の浅井長政が滅亡の憂き目を見たのも、同盟相手である朝倉義景が不甲斐なさ過ぎたから。」との史観に影響したとの説がある。
 実際、徳川家光にとって長政は実の祖父である。

 一方、お江にとって織田家は母の実家である。同時に自分が嫁いだ徳川家の重要な同盟相手だったから、父・長政を死に追いやった信長への恨みはあるにせよ、余り悪し様に喧伝するのも考え物である。ただ、そこを「本来然程力の無かった織田家を徳川家が加担したことで天下取り目前まで来た。」と云うストーリーが成り立てば、信長にデカい面をさせず、織田家を貶さず、婚家である徳川家を立てることが出来る。

 まあ、ここまで考えるのは正直行き過ぎを感じないでもない(苦笑)。
 いくら二代将軍御台所・三代将軍実母であるお江への忖度が働いたにせよ、そこまで気遣われたとは思えないし、そもそも忖度が働いたかも不明である(もしそうなら、お江の実姉・淀殿が江戸時代にああも悪し様に云われたとは思えない)。
 お江は竹千代(家光)の乳母にお福(春日局)が選ばれた際に、お福が「伯父・信長を殺した明智光秀の重臣の娘」であることに憤慨し、後々までお福を良く思わなかったとされているが、その伯父・信長こそ、他ならぬ父・長政を殺した仇である。

 まあ、信長長政を滅ぼす急先鋒を務めた秀吉に、長政の長女・茶々(淀殿)が嫁いだ史実もあるから、現代の感覚では負い切れないところもあるとは思うが、個人的に姉川の戦いにおける織田・朝倉勢の負けっぷりに不自然なものを感じていることは述べておきたい次第である。



敗戦から得たものと立て直し まず朝倉義景に関していえば、姉川の戦いにおける大敗から何かを学んだという形跡は見当たらない。
 姉川の戦いに大敗したと云え、総大将である朝倉義景は参戦しておらず、浅井・朝倉両軍ともにその後四年に渡って信長包囲網の一角として比叡山延暦寺などと協力しつつ信長を苦しめ続けた。つまり戦いに敗れた後も両軍にはまだ余力があった。ただその後、義景浅井長政や延暦寺と提携して織田信長を苦しめるも、決定的な打撃を与えることなく、逆に降雪や連戦による疲労から信長包囲網の一角を担えなかったことを西上中の武田信玄からかなり詰られた書簡が残っている。
 逆の云い方をすれば、文化的な内政にはそこそこ優れていても、軍事に関して自ら動くと云うことを学ばなさ過ぎたと云えようか?まあ、結果を知る後世の無責任な論でしかないのだが。

 逆に浅井勢に押しまくられた信長徳川家康との連携の重要性及び、長政義景の連携を発つことの大切さを学び、比叡山攻めの重要性も痛感したと思われる。
 薩摩守は過去作において信長が長島一向一揆に開城を無視して行った殺戮に対して口を極めて罵っているが、宗教勢力と事を構えたこと自体は批判していない。当時の仏教勢力は数多くの僧兵を擁し、経済的にも大きな力を持ち、朝廷や諸大名に対しても御嘘を繰り返しては我意を通し、腐敗と堕落に塗れた者も少なくなかった。
 比叡山焼き討ちに際してその場にいた老若男女を区別なく殺戮したことへの行き過ぎは感じないでもないが、攻撃を受けたこと自体には比叡山側の自業自得もある程度はあり、畿内を抑える為にも比叡山を屈服させることは止むを得なかったと見るので、信長の対浅井・朝倉戦において多くを学んだのは間違いないと見ている。ただ、その内、姉川の戦いに学んだのがどの程度までかは判然としないのではあるが(苦笑)。


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令和五(2023)年一〇月一三日 最終更新