第肆頁 三方ヶ原の戦い………屈辱と学び

戦名三方ヶ原の戦い
合戦日時元亀三(1572)年一二月二二日
敗者徳川家康
大敗度大敗度 ★★★★★★★★★☆
その後への影響★★★★★★★★☆☆
損失約二〇〇〇名討死。諸将にも戦死者多し。
戦経過 例えかじった程度でも戦国時代の歴史を知る者なら、「徳川家康が大敗した戦いは?」と問われれば、誰もが「三方ヶ原の戦い!」と答えられるのではないだろうか?逆を云えば、この戦い以外に家康が大敗・惨敗を喫した戦いを思い浮かばない人の方が大半だろう。
 それほど、徳川家康の人生における歴史的な大敗で、この戦いに大勝した武田信玄の名は名将としてさらに高まったと云っても過言ではあるまい。

 永禄三(1560)年の桶狭間の戦いにて「東海道一の弓取り」と云われた今川義元がまさかの討ち死にを遂げ、東海・中部・関東の勢力図は大きな影響を受けた。
 今川・北条・武田の三氏で締結されていた甲相駿三国同盟は瓦解し、武田信玄は駿河に侵攻。加えて三河を統一した徳川家康も遠江に侵攻し、挟撃された今川氏真は北条を頼って駿河を捨てた。

 だが今川攻めに際して、「駿河は武田、遠江は徳川が領有」との密約を結んでいた両者が対立するのは時間問題で、元亀二(1571)年に室町幕府第一五代征夷大将軍足利義昭は全国の大名に織田信長討伐の御内書を送付し、信玄はこれに応じて上洛の兵を挙げた。
 信玄は同年に相模にて北条氏康が亡くなったことを受けて北条氏との同盟を復活させていた。これによって後顧の憂いが亡くなった信玄は翌元亀三(1572)年一〇月三日に甲斐を発ち、西上を開始した。

 信玄は武田軍を三手に分け、遠江・三河への同時侵攻を開始した。
 一隊は山県昌景・秋山虎繁に信濃諏訪から東三河に進ませ、自らは二万二〇〇〇の兵を本隊として率い、青崩峠から遠江に侵攻し、途中、犬居城で馬場信春隊五〇〇〇人を別働隊として西の只来城に向かわせて、南進して二俣城へ向かった。

 二万七〇〇〇の甲州勢は支城を平均三日で陥落させる猛進撃を敢行。一方の徳川勢は三河・遠江の兵力を最大動員しても一万五〇〇○程が限界だった。
 勿論東三河に侵攻する山形勢にも備えなければいけないから、遠江防衛に動員出来るのは八〇〇〇人程で、後に信長の援軍三〇〇〇を加えても一万一〇〇〇が限界だった。

 西上開始一〇日後の一〇月一三日、只来城が馬場勢に落とされ、二俣城が包囲された。
 二俣城は家康の居城・浜松城と掛川城・高天神城を結ぶ要衝で、これを捨て置けない家康は翌一四日、威力偵察に出たが、一言坂で武田勢と遭遇し敗走した。
 結局籠城戦の果てに一二月一九日に二俣城は城兵の助命を条件に開城・降伏した。

 当時日本一強いと云われた甲州勢の激しい侵攻に、さしもの家康も打って出ることは不利と考え、信長から援軍として送られてきた佐久間信盛もこれに同意していた。
 逆に信玄側では、何としても野戦に持ち込まんと画策していた。第弐頁でも述べたが、籠城する相手を攻めるには通常五倍の兵力を擁するとされている。まして浜松城は別名「石垣城」とも呼ばれる程守りの固い城と見られており、甲州勢二万七〇〇〇は大軍ではあるが、家康本隊が徹底抗戦するとなるとかなりの犠牲が強いられ、上洛まで充分な兵力を保てない可能性が高く、かと云って背後に家康勢を残して三河・尾張と進軍するのも考え物だった。

 ともあれ、一二月二二日に二俣城を出発した武田勢は遠州平野内を西進。この動きは浜松城からは眼前を素通りして三河に向かっているかのように映った。
 この行軍に家康は舐め切った態度に激怒したとも、武田軍を無傷で領内を素通りさせては信長に相すまぬと考えたとも云われているが、結果的に一部家臣の反対を押し切って、三方ヶ原から祝田(ほうだ)の坂を下る武田軍を背後から襲う策に転じた。

 家康の目論見通りに事が進めば、地の利を味方に、武田勢を高所から襲撃することになり、兵法で云うところの、「高きより低きを見るは勢い既に破竹」となり、数の差も埋められると考えられた。
 ただ、武田信玄ともあろうものがそんな必敗の地にみすみす身を置くものだろうか?と考える者は徳川家中にも少なくなかった。つまり、祝田の坂を下る行軍は家康を野戦に誘き出す為の罠と見るもので、実際にその通りだった。
 勿論家康もその危険を考えないではなかった。誘い出す様に不利な地を行く武田勢を罠に掛けたと察知して陣形を立て直す前に襲撃出来れば勝算ありと見た訳だが、勿論信玄はその目論見を読んでいた。

 家康が浜松城を出撃したとの報を受けた信玄は後備えの兵に上空に向かって鉄砲を撃たせ、得意の繋ぎ狼煙にて前陣に急ぎ祝田の坂を戻る様合図した。
 徳川勢襲来を知った武田勢は、徳川勢が祝田の坂に着くより早く坂を登り切り、魚鱗の陣を敷いて夕刻に到着した徳川勢を万全の備えと陣形で迎え撃った。
 目論見が外れ、眼前に広がる大軍を目にした家康は大いに狼狽えたが、今更退くに退けず、大軍を包むように鶴翼の陣を敷いて武田勢に対峙したが、横に大きく広がる鶴翼の陣は本来自軍よりも多い軍勢を迎え撃つには不利な陣形で、大勝か大負けしかない陣構えだった。

 かくして無謀を承知の上で家康信玄と初めて正面衝突した。軍兵の数・陣構え・地の利のいずれをみても、ここまでの展開を見れば徳川の敗北は万人の目にも明らかで、実際その通りになったのだった。



大敗振り 元亀三(1572)年一二月二二日夕刻、三方ヶ原の戦いの火蓋は切って落とされた。
 地の利を得ることに失敗した徳川勢は倍以上の軍勢を擁する武田勢相手に数からして不利な状況に立たされていた。
 上述した様に、徳川家康が敷いた鶴翼の陣も結果的に失敗だった。読んで字の如く鶴の翼の様に横に大きく広がった陣形は相手を包み込むもので、大軍が寡兵を逃さず殲滅するのに適しているが、寡兵なのは徳川勢の方だった。
 対する武田信玄が敷いた魚鱗の陣はこれまた読んで字の如く鱗が幾重にも重なる陣形は一隊が突破されてもすぐに次の一隊がほつれを補う様に雪崩れ込んでくる鉄壁の陣形だった。

 日没までの僅か二時間程の戦闘で徳川勢は総崩れとなり、武田勢が徳川勢を撃破する様は「短刀が薄絹を裂くが如し」と例えられたと云う。
 武田勢の死傷者二〇〇人に対し、徳川勢のそれは二〇〇〇人に達したと云う。約一〇倍の死傷者を出した訳だが、軍勢の割合で見れば武田勢の死傷率が一分に満たないのに対し、徳川勢のそれは一割五分で、単純計算で一五倍の死傷率で、大惨敗としか云い様が無かった。
 人材面でも、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱といった累代の家臣達が何人も討ち死にし、先の二俣城の戦いでの雪辱に挑んだ中根正照、青木貞治等が命を落とし、半ば自棄糞で敵軍に雪崩れ込まんとした家康を止め、その身代わりとなって留守居役の夏目吉信が部下共々玉砕した。
 織田勢でも援軍の将・平手汎秀(信長の師傅として有名な政秀の子)が討ち死にした。

 三方ヶ原の戦い家康の生涯にあって最低最悪とも云える大敗となり、余りの大敗に戦場にあったにもかかわらず家康はしばし呆然としたとも、斬り死覚悟で敵軍に躍り込まんとしたとも、側近くには大久保忠世一人しか残らない状態で浜松城に駆け込んだとも云われている。

 徳川家康の人生には三つの大きな危機があったと云われている。
 一つは本能寺の変直後に京都を押さえた明智勢や、落ち武者狩り土民達の手を逃れて岡崎へ遁走した、世に云う伊賀越えで、もう一つは大坂夏の陣における真田幸村(信繁)の猛攻を受けた時で、最後の(時系列的には最初の)一つがこの三方ヶ原の戦いだった。



敗戦から得たものと立て直し くどいが、三方ヶ原の戦い徳川家康の人生における最大級の大敗だった。
 だが、この戦いから二八年後に家康は天下分け目の戦い・関ヶ原の戦いを制して天下の大権を掌握し、その三年後に武士のボスである征夷大将軍に就任し、二六〇年の長きに渡って天下を治めた江戸幕府の始祖となった。

 当然、勝者が綴る歴史のお約束で、家康の偉業は大きく伝えられ、過失や恥は時に矮小化され、時に隠蔽された。だが、世の中には隠し様の無い過失や恥もある。少年期の家康が惨めな人質生活を送ったことは隠しようが無かったし、三方ヶ原の戦いという武田信玄に大敗した事実も残った。
 ただ、そこはそこ、最終的に天下を取った訳だから、人質生活も、三方ヶ原の戦いにおける大敗も、豊臣秀吉に膝を屈したことも、家康が乗り越えた苦難・人生の肥やしとして喧伝された。

 誤解無いように云っておきたいが、家康がこの大敗に学んだのは事実である。三方ヶ原の戦い以後、家康はこの戦の様に血気に逸ることは無かったし、武田勢の真に恐れるべきを正しく恐れ、独力で武田勢と当たることを極力避けた。
 二年後の長篠の戦いに至るまで、奥三河の小豪族・山家三方衆(奥平氏・長篠菅沼氏・田峰菅沼氏)を懐柔し、織田信長・北条氏政との連携に努めたところにも家康の対武田戦備に努めていたところが見られる。
 また武田家滅亡後、信長が武田軍残党に苛斂誅求を課したのに対し、家康は彼等を極力自軍に組み込んだ。三方ヶ原の戦いに惨敗した家康信玄を恐れると同時に尊敬し、軍略の師と仰いだのは有名な話だが、そんな信玄が練った軍略と信玄が育てた人材を重宝し、獲得に努めたのはその証左と云えよう。

 そんな徳川家康の人生に大きな影響を与えた三方ヶ原の戦いだけにエピソードには事欠かない。
 主だったものを箇条書きにすると、

・余りの大敗と、執拗な武田軍追撃に恐怖した家康が馬上で脱糞した。
・総崩れとなった徳川軍の戦死者が誰一人背中を見せず討死していたことに信玄が感心した。
・浜松城に逃げ帰った家康はすべての城門を開いて篝火を焚き、湯漬けを五杯食べてそのままいびきを掻いて眠り込み、敵味方に豪胆さを見せつけた。
・敗北の屈辱を忘れない為に絵師を呼び、悔しがる自分の姿を絵に描かせ、後々の戒めとした。
・鉄砲隊を率いた酒井忠次が勝ち誇る武田勢に夜襲を掛け、大敗の留飲を僅かながらに下げた。

 これだけエピソードが多いと正直、すべてを史実とは受け入れ難い。
 少しだけ言及すると、「馬上での脱糞」という家康の大恥となる話の出所が大久保彦左衛門の『三河物語』であることを思えば史実だろうし、絵師に屈辱の姿を描かせた、所謂、「しかみ像」は現物が残っていることから史実と思われるが、三方ヶ原の戦いとタイムラグはあるかも知れない。
 一方で、信玄が戦死者に感心したエピソードは武田家が滅亡し、証言したと思われる当事者が徳川家に仕えたことを考えると、信玄家康を褒めていたことにしてもおかしくはない。
 また、「空城の計」は、『三国志演義』街亭の戦いで敗れた直後の諸葛孔明が司馬仲達に施したそれに酷似し過ぎて、「如何にも」と云いたくなる。もっとも、明代に成立した『三国志演義』が戦国時代の日本に伝わっていたとは考え難いので、完全否定するのは逡巡するところである。

 ともあれ、数々のエピソードの真偽は別にしても、三方ヶ原の戦い徳川家康の人生における大きな出来事であったことと、彼のその後の人生に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。
 「if」を持ち出せばキリがないが、この戦における展開次第では家康が討ち死にしていた可能性は充分にあり、戦の直後に信玄が病死したことで滅亡の憂き目を免れたとはいえ、後を継いだ武田勝頼は戦闘だけに関して云えば信玄以上に勇猛で、次頁における長篠の戦いに大勝するまで家康は武田家に対して優位には立てなかった。
 そしてこの戦いで多くの武田名将を討ち取り、地の利を占めながら、武田家を滅ぼすのにその後八年の歳月を要した。チョットしたボタンの掛け違いで歴史は大きく変わっていたことを思えば、まずは三方ヶ原の戦い家康が戦死せず、名将・武田信玄に学んだことの大きさは多くの史実であれ、史実を元にした伝承・フィクションであれ、万人の認識として共通していることだろう。


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令和五(2023)年一〇月一九日 最終更新