第伍頁 長篠の戦い………新兵器と結束問題

戦名長篠の戦い
合戦日時天正三(1575)年五月二一日
敗者武田勝頼
大敗度大敗度 ★★★★★★★★★☆
その後への影響★★★★★★★★☆☆
損失武田勢戦死者約一万。馬場信春、山県昌景、真田信綱、真田昌輝、原昌胤、土屋昌次等討死。山家三方衆完全離反
戦経過 長篠の戦いに関しては、参戦諸将を過去作、それも拙サイト立ち上げから程ない時期にアップした『長篠の勇者達』で一つの作品として取り上げている。
 過去作は拙房の基本方針に則り、「人」に注目している。長篠の戦いに活躍した両軍諸将を一人一人採り上げ、戦場での働きやその後を解説しているので、本作では戦そのものに注目したい。

 前頁で採り上げた三方ヶ原の戦い直後に武田信玄が病状を悪化させて病死したことで徳川家康が御家滅亡の危機を脱し、臨終に際して信玄が武田勝頼や重臣達に自分の死を三年間秘める様に遺言したのは有名である。
 だが、一人の人間の死を隠し通すのは難しく、程なく信玄の死は周囲の知るところとなった。その一方で勝頼の置かれた立場から武田家はその後の方針を巡って一枚岩となり得ず、それ以上に信濃・上野・駿河・遠江・三河の国人衆は武田に随身し続けるべきか否かで迷いに迷った。
 身も蓋もない云い方をすると最終的にほぼすべての国人衆が離反したことで武田家は滅亡した訳だが、信玄逝去発覚から程なくして奥三河は山家三方衆の一人・奥平貞昌が離反したことで長篠の戦いに繋がった。

 徳川家康が松平竹千代だった頃、松平家は今川義元と織田信秀の二大勢力に挟まれ、その生き残りに四苦八苦していたのは有名で、家康と名乗りを改めた頃にようやく三河を統一した訳だが、そんな松平氏以上に勢力が小さく、生き残りに四苦八苦する国人領主は星の数程いた。
 そんな国人の一人、奥平貞昌は意を決して武田から離れ、徳川に付いた訳だが、元々徳川を裏切って武田に着いた経緯があったので、奥平家はもう二度と、否、三度と離反出来ない立場にあった。
 当然、貞昌の離反に武田勝頼は怒り心頭となり、三河への玄関口となる長篠城は何としても落とさなければならない要地で、家康にとっても何としても守り抜かなければならない要地だった。

 天正三(1575)年四月、勝頼は甲府を発ち、五月に一万五〇〇〇の兵で長篠城を包囲した。五〇〇の兵しか持たない貞昌は当然家康に援軍を求めた。すぐにでも援軍に駆け付けたい家康だったが、前頁でも触れた様に三方ヶ原の戦いでの大敗以来、家康は心底武田軍を恐れており、独力で武田軍と当たることを極力避けていた。それゆえ、家康は武田軍が侵攻する度に織田信長に援軍を求めたが、各地に敵を抱える信長もまた余裕がなく、必勝を期せない内は援軍を出し渋っていた。
 この長篠の戦いの少し前に、家康は遠江の要衝・高天神城を勝頼に攻められ、信長に援兵を求めるも、信長が出し渋ったことで、同城を失ったことがあった。だが、高天神城に続いて長篠城を失えば家康にとって遠江と三河双方の咽喉元に匕首を突き付けられるに等しく、信長にとってもここで家康を助けなければ家康信長を見限ることも考えられた。

 前置きが長くなったが、長篠の戦いは背景的にも双方にとってそれほど重要な戦いだった。そして必勝を期すゆえに信長家康もなかなか長篠に迎えなかった。必勝を期す為に信長が頼りとしたのは、武田勢を上回る大軍勢を擁することと、鉄砲の大量動員だった。
 俗に「三〇〇〇丁の鉄砲隊」を云われているのが、昨今では「そこまでの数ではなかった。」と囁かれている。それでも各研究者によって差異はあるものの、一〇〇〇丁以上投入されたのは間違いなく、これは当時としてはかなりの数だった。

 だが、必勝を期すには懸念事項はまだ多かった。
 季節と地形である。
 先ず前者だが、長篠の戦いが行われたのは旧暦の五月二一日で、これは梅雨の真っ只中だった。当時の鉄砲は火縄銃で、雨の中では全く役に立たなかった(例え小雨程度でも火縄は湿り気程度で無効化した)。
 また、長篠城は天険の要塞に在り、それが武田勢の包囲を困難にし、奥平勢は三〇倍もの武田勢から援軍到来まで持ち堪えることを可能にしていたが、援軍の織田・徳川勢にとっても、城を攻める武田勢が長篠城周囲の天険を利用すれば鉄砲隊による一斉奏者も絶大な効果を上げることは難しかった。
 最終的に織田・徳川勢は四〇〇〇〇(正確な数は諸説あり)の兵を集めたが、そうなると如何に日本一強いと云われた甲州勢でも一万六〇〇〇で背後に奥平勢を抱えては正面切って戦うのを避けるであろうことは想像に難くなかった。
 かといって、手を拱いて長篠城が落とされるのを傍観している訳にもいかなかった。

 信長家康は鉄砲隊と大軍の優位を生かす為に何としても長篠城の裾野である設楽原に勝頼を誘き出す必要があった。その為には勝頼に鉄砲と大軍に対する警戒心を解き、「攻め込めば絶対に勝てる!」と思わせる必要があった。そこで信長は軍議の場で三方ヶ原の戦いで援軍として駆け付けながらろくに戦わず敗走した佐久間信盛を罵倒し、佐久間が信長を裏切り、武田に内通しているという猿芝居で勝頼を設楽原に誘き出さんとした。

 勿論、武田側でも踊・徳川両軍の軍勢・大量の鉄砲を脅威だった。かといってすぐに長篠城を落とせるようなら誰も苦労しない。佐久間の内応も信用出来るか否か微妙だった。
 結局、以下の諸条件があれば最強騎馬軍団の力で織田・徳川軍を馬蹄に掛けられると考えた武田勢は意を決し、設楽原に進軍した。

 武田勢が頼りとした勝利条件
・梅雨の季節で、実際軍議中にも豪雨が降り注いでいた。
・決戦中に佐久間信盛が織田勢に襲い掛かる手筈になっていた。
・数は少なくても、平野での正面切っての戦いで武田騎馬軍団が負けたことが無かった。


大敗振り かくして長篠の戦いの火蓋は切って落とされた。
 過去作でも触れた何度か触れたが、薩摩守は御家滅亡時や、致命的な大敗に関して、丸で天がその対象者を滅ぼそうとしているかのように悪条件が重なりまくっているような感覚に囚われる(逆を云えば、そうでもなければ御家も国家も簡単には滅亡しないとも)。
 薩摩守のフィーリングはともかく、この長篠の戦いでも可哀想になるぐらい武田勝頼と武田勢に悪因悪果が重なりまくったのは否めない。

 まず、五月二一日早朝、武田勢が設楽原に展開する織田・徳川勢への攻撃を開始する直前にそれまでの豪雨が嘘の様に止んだ。これにより、織田・徳川勢は鉄砲隊の威力を遺憾なく発揮し、少なくとも一〇〇〇丁を超える鉄砲が武田勢目掛けて火を噴いた。

 昨今では、通説だった「三〇〇〇丁の鉄砲隊による三段攻撃での釣瓶撃ち」は否定的に見られている。だがだからと云って鉄砲隊が織田・徳川軍に大勝をもたらしたのは間違いなかった。
 長篠の戦い及び織田の三段鉄砲については様々な書籍や歴史番組で検証・開設されまくっているので上げだせばキリがないので、簡単に二つだけ例を挙げる。
 一つはNHKの歴史番組『歴史探偵』での検証で、この番組では当時発射後の弾込めに時間のかかる火縄銃では一斉射撃の連射が難しいことを理由に三段鉄砲が否定されがちなことに注目していた。確かに火縄銃は個々人の技量で弾込めに大きな差が出る為、三交代での一斉射撃は不可能と云えた。しかし同番組では地元の研究者達の協力を得て、一斉でなくても、発射後の兵が後ろに下がったところで次に控える兵が抜けた箇所に逐次立ち入って次の射撃を行う形で次々と穴埋め投入を行えば、間断なく銃を発射し続けることは可能としていた。
 もう一つは『逆説の日本史』の作者として有名な井沢元彦氏の検証で、井沢氏は「三〇〇〇丁の鉄砲隊」は誇張としながらも、一〇〇〇丁はあったと見ており、それだけの鉄砲が轟音を立てれば、本来臆病な生き物である騎馬が冷静さを保てず、武田勢がその精強さを発揮出来なかったと見ている(実際、元寇でも元軍が放った火器・てつはうは、それ自体の殺傷力は大したものでは無く、鎌倉武士の乗っていた牙を混乱させた効果が大きかったと見られている)。

 いずれにせよ、鉄砲は武田勢に大打撃を与え、土屋昌続、真田信綱・昌輝兄弟、山県昌景と云った武田勢に無くてはならない名将達が何人も銃撃で戦死した。

 ただ、武田勢も釣瓶撃ちにて間断なく鉄砲を放つ織田・徳川勢に何の勝算もなく無謀な突撃を繰り返したり、為す術なく打たれ続けたりしていた訳ではなかった。
 上述した様に途中で佐久間信盛が裏切って織田勢を混乱に陥れれば勝算は充分にあった。混戦に持ち込めば大軍は数の優位を活かせず、鉄砲隊も味方への誤射が懸念される状態では無力化する。それを信じて突進する甲州勢は織田・徳川軍が設けた三段の馬防柵の内二段までを引き倒す程の猛攻を加えた。
だが果せるかな佐久間の内応申し出は完全な虚偽だった
 まあ、戦における謀略なので「虚偽」とするのはチョット過言かも知れない。いずれにせよ武田勢にすれば、前約は完全に反故にされた。とっくに裏切りを敢行しなければならない局面にあっても佐久間勢は動かず、最前線でそれを視認した真田信綱は戦に勝目が無いことを悟り、勝頼に近侍する実弟・武藤昌幸(真田昌幸)の元に使者を送り、勝頼を守って撤退するよう伝えさせた。

 だが、そう聞いて真田兄弟を見殺しに出来る勝頼ではなかった。勝頼は戦局を挽回するべく左右に展開していた穴山梅雪(姉婿で、実の従兄)と、武田信豊(従弟)の両名に出撃を命じたが、身内ともいえるこの両名、出撃に応じなかったどころか途中で勝手に戦線離脱した(←はっきり云って切腹ものである)。

 これ程の悪要因が重なっては勝頼が如何に名将であったとしても勝ち目のあろう筈が無かった。勝頼は自ら加勢せんとしたが、諸将に止められ、涙呑んで撤退した。殿軍に残ったのは山県昌景と馬場信春だったが、織田信長は自軍に多大な犠牲を払ってでも武田勢に壊滅的な打撃を与えることを決し、前田利家勢に馬防柵を出ての出撃を命じ、それを良く防いだ昌景は十数発の弾丸を受けて戦死した。
 そして勝頼を守って奮戦した信春も、勝頼が寒狭川を超えて安全地帯にまで落ち延びたとすると力尽き、四十年以上の戦場働きで一度も掠り傷一つ追わなかった豪傑だったが、最後の戦いで負傷するや、自分に手傷を負わせた兵士に従容としてその首を差し出したのだった。

 かくして長篠の戦いは終結。
 織田・徳川勢は約六〇〇〇の兵を失い、二割弱の兵を失ったのは勝軍としてはかなりの痛手を被ったと云え、武田勢は決して為す術なく惨敗した訳ではなかった。
 とは云え、一万六〇〇〇の武田勢が失った兵数は約一万で、一般に軍隊というものは兵の五割を失えば組織的行動が不可能となり、「全滅」とされるので、六割以上の兵を失った武田勢は数的にも大惨敗で、更に山県・馬場・真田兄弟を初めとした有能な人材を数多く失ったことからも痛恨の極みと云える大敗北となった。



敗戦から得たものと立て直し 長篠の戦いから八年後の天正一〇(1582)年三月一一日、武田勝頼天目山の戦いに敗れ、武田家は滅亡した。この結果だけを見れば、長篠の戦いにおける大敗からの立て直しに勝頼は失敗したことになる。
 滅亡と云う結果をたてに勝頼を批判するのは簡単だが、薩摩守は勝頼が大敗に何も学ばなかったとは思わない。戦後、勝頼は武田軍再興を期して軍の編成、対北条・対上杉との同盟・連携、織田信長との和睦等に努め、一門・重臣・国人衆との結束強化にも努めた。

 確かに結果だけを見れば、勝頼の努力は無に帰した。北条氏政の妹を継室に迎え、勝頼・氏政・上杉景虎(北条氏秀)の三国同盟を構想するも、上杉謙信死後の二人の養子(景勝と景虎)による家督争い(御館の乱)を受けて勝頼は景勝と結び、同盟は瓦解した。
 家中の再編も宿老と側近の対立を沈められず、一門衆も国人衆もいざとなると勝頼を見捨てた。勝頼もただ生き残るだけなら信州上田に戻った真田昌幸や姉婿となっていた上杉景勝を頼る選択肢もあっただろう。
 別の見方をすれば、勝頼には大敗に学んだことが多数あったものの、勝頼個人の努力だけではどうにもならない面もあっただろう。だが、後世の歴史を見ることの出来る我々は結果だけを見て無責任に肯定否定するのではなく、数々の学びを得たいものである。


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令和五(2023)年一〇月二六日 最終更新