第漆頁 関ヶ原の戦い………必勝陣形は何故崩れた?

戦名関ヶ原の戦い
合戦日時慶長五(1600)年九月一五日
敗者宇喜多秀家、石田三成
大敗度大敗度 ★★★★★★★★★☆
その後への影響★★★★★★★★★☆
損失大減封五家、改易五三家
戦経過 日本史上、有名過ぎる戦いなので簡単にまとめたい、可能な限り(苦笑)。
 事の起こりは慶長三(1598)年八月一八日の豊臣秀吉薨去に端を発する豊臣家中の内部対立である。秀吉生前から豊臣家中には「武断派VS文治派」、「尾張派VS近江派」、「北政所派VS淀殿派」など種々の対立があった。
 細かい経緯は省くが、五奉行の一人・石田三成は豊臣秀頼の為には徳川家康を排除すべきと考えていた。そして慶長五(1600)年六月一五日、家康は領国会津に籠ったまま上洛命令に従わない上杉景勝に対して、「謀反の意あり。」として秀頼の命と軍資金を受けて諸大名の軍勢を率いて会津征伐に出発すると三成は行動を起こした。

 このとき三成は前田利家逝去後に発生した七将襲撃事件の責任を取らされる形で奉行職を解任され、領国の佐和山に隠居・謹慎していたが、家康出陣の方を受け、上杉景勝と共に家康を挟撃してこれを討たんと図った。
 相談を受けた親友の大谷吉継は人望・石高・能力のいずれをとっても三成に勝ち目はないとしてこれを止めたが、三成の決意は揺らがず、説得不可能と見た吉継は、せめて人望の無い三成が先頭に立つのではなく、家康と同じ五大老である毛利輝元・宇喜多秀家を大将に立てて西軍を編成するよう勧めた。

 親友の言に従って三成は輝元と秀家に話を持ち掛け、秀頼・淀殿から徳川家康を「君側の奸」としてこれを討つ命令を出させると大坂城下に住まう会津討伐従軍諸将の家族を人質に取った。
 だが、三成が立つのは家康の予測していたことで、ゆっくり進軍していた家康は下野小山で三成挙兵の報を受けるとその事実を従軍諸将に知らせ、妻子が気掛かり者は自由に軍を去って良い、と告げた。
もっとも、事前に黒田長政や福島正則等への充分な根回しは行われており、軍議の場で正則は「三成こそが秀頼公の威を借る君側の奸」として家康への合力を宣誓。すると普段から三成を憎み、家康による云い掛かりに等しい上杉討伐に気乗りしていなかった従軍諸将は次々に正則に追随し、家康への合力を約束した。

 この間、大坂方では毛利輝元を総大将として大坂城西の丸に構えさせ、宇喜多秀家を副将として家康重臣・鳥居元忠の籠る伏見城を落とし、美濃大垣城に籠った。これに対し、家康の命を受けた東軍先発隊は正則の居城である清州城に入り、やがて彼等が織田秀信(信長嫡孫)の籠る岐阜城を落とすと家康も江戸を発した。

 大垣城に籠る西軍に対して、自らが得意とする野戦に持ち込みたい家康は大垣城を素通りして大坂城に向かっているという噂を流し、これを聞きつけた西軍はこれを阻止せんとして大垣城から関ヶ原に出た。

 関ヶ原は桃配山に陣を張り、一路西に向かう東軍に対し、その前方の小関山に石田三成隊、その南に小西行長、島津義弘が陣を張り、その南側で東軍進軍の真正面となる場には宇喜多秀家が控えていた。
 更にその南には大谷吉継が陣を張っていたが、吉継は関ヶ原の南西に位置する松尾山に一万六〇〇〇の大軍を擁する小早川秀秋を警戒してその裏切りに備えて赤座直保・朽木元網・小川祐忠・脇坂安治隊を配置していた。

 そして桃配山南方の南宮山には吉川広家・毛利秀元・安国寺恵瓊・長宗我部盛親等が布陣し、東軍は完全包囲状態にあった。
 そんな布陣が展開された中、九月一五日早朝、松平忠吉(家康四男)・井伊直政が宇喜多隊に発砲したのが契機となって関ヶ原の戦いの火蓋は切って落とされた。

 石田隊には黒田長政・田中吉政・加藤嘉明隊が攻め掛かり、宇喜多隊には松平忠吉・井伊隊、そしてこれに遅れじと福島正則隊が猛攻を加えた。
 大谷吉継勢には藤堂高虎隊が攻め寄せ、東西両軍は正面から激突した。だが、積極的に戦っていたのは石田・宇喜多・大谷の三隊のみで、島津・小西は陣を守って動かず、松尾山・南宮山の西軍にも動きは見られなかった。

 正面における東西両軍の激突は一進一退か、やや西軍が押し気味だった。殊に島左近率いる石田軍先鋒隊の奮戦と宇喜多勢の精強さには黒田・加藤・福島・藤堂と云った歴戦の猛将達の力をもってしても容易には抜けなかった。
 正面と正面が拮抗している状況下に側面や背面から援軍が猛攻を加えれば勝負は一気に決する。実際、三成が東軍を包囲する様に敷いた布陣は完璧なものだった。割と有名な話だが、明治初期に日本に軍学を教えに来たドイツ人将校は関ヶ原の戦いの布陣を一目見るや、即座に「西軍の勝ち」と云った程だった。
 当初の目論見通りに南宮山の毛利勢や松尾山の小早川勢が東軍の側面を突けば西軍の大勝利間違いなしである。その展開を期した三成は再三再四、出撃を促す狼煙を両山に向けて上げたのだったが…………。



大敗振り 早い話、裏切りの連続が、石田三成が描いた必勝の布陣を瓦解させ、関ヶ原の戦いは西軍の大敗に終わったのだった。
 南宮山と松尾山に布陣する西軍には黒田長政を通じて徳川家康による調略の手が及んでいた。

 まず南宮山最前線に位置する吉川広家には、従兄で一族の総帥である毛利輝元にも内密に毛利家本領安堵を条件とした家康への合力が密約されており、広家は南宮山を動かなかった。
 最前線の広家が動かないから、その背後に布陣する安国寺恵瓊・毛利秀元・長宗我部盛親隊も動けず、安国寺の督戦に対して広家は「弁当を食ったら出る!」との偽りまでかまして結局最後まで動かなかった。
 そして松尾山の小早川秀秋にも上方に二ヶ国を与える条件で東軍への合力を密約されていた。小早川秀秋はかつて慶長の役に際して総大将として渡海・奮戦したが、自ら抜刀して雑兵を斬りまくった暴れ振りを「総大将にあるまじきふるまい。」としてかつて養父でもあった豊臣秀吉から激しく叱責され、減封となるところを家康に庇われたという借りがあった。
 だが、一方で三成からも養父秀吉への恩義からも、義弟でもある秀頼の為に合力すべしとの説得を受けており、西軍勝利の暁には秀頼が成人するまでの間関白にするという好餌まで提示されていて、大いに迷っていた。実際、秀秋は関ヶ原出陣以前に西軍方として伏見城攻めに加わり、家康股肱の重臣・鳥居元忠を自害に追いやっていた。

 ともあれ、南宮山と松尾山に展開する大軍が動かないことに徳川家康石田三成も苛立っていた。殊に小早川勢の去就は両軍にとって肝で、三成は動けば勝利間違いなしのキーを握る小早川が動かないことにやきもきし、家康も動かない小早川勢と、この状態がいつまでも続けば南宮山もどうなるか分からない苛立ちに爪を噛んでいた。
 結局、これまた有名な話だが、家康は松尾山に裏切りを促す一斉射撃を行わせ、これを受けて小早川秀秋は、敵は西軍・大谷吉継隊であることを下知し、松尾山を下った。ある程度このことを予測していた吉継は慌てず騒がず対処し、小早川勢を二度押し戻したが、やがて小早川勢に備えていた筈の脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保隊までもが小早川勢に加わり、大谷勢は壊乱。吉継は自害して果てた。

 こうなるともはや櫛の歯現象で、宇喜多勢も総崩れとなり、三成、小西行長、島津義弘も個々に戦線離脱した。

 かくして東西両軍合わせて二〇万近い軍勢がぶつかり合い、場合によっては何ヶ月も続くと見られていた関ヶ原の戦いは西軍の大敗で、僅か一日で終結したのだった。



敗戦から得たものと立て直し 戦後の論功行賞は時として戦争に勝つ以上に難しい。
 戦勝に貢献した者への報恩が不充分だとそれは新たな戦争への火種となりかねない。そこまでいかずとも、対象者の忠誠心は大きく薄れる。全く時代が異なるが、元寇の折に元の大軍を退けたものの、敵から奪った土地が一寸もないため、命懸けで戦った西国武士に恩賞を出すことが出来ず、北条得宗家による執権政治が大きく揺らいだのはその好例であろう。

 勝者となった徳川家康の頭を悩ましたのは、関ヶ原の戦いにおける勝利が、徳川家臣団よりも豊臣恩顧大名の尽力に依存した度合いの大きいものだったからである。
 有名な話だが、その理由は徳川秀忠軍の遅参によるものである。
小山評定で打倒石田三成を約束して大いに気勢を上げた東軍だったが、家康は福島正則・黒田長政・加藤嘉明といった豊臣恩顧の大名達を先発隊として東海道を進ませ、彼等が岐阜城を陥落させたのを受けて西軍に寝返る恐れなしとして江戸を発った。
 その際に家康は、自らは本多忠勝・井伊直政等といった猛将達ともに東海道を進み、三男秀忠には本多正信・榊原康政・大久保忠隣といった謀将達(と云い切るには語弊があるが)を補佐として中山道を進ませた。
 中山道を進む秀忠軍は三万八〇〇〇と云われ、無事家康本隊と合流していれば東軍は一二万もの大軍となり、数の上で西軍を圧倒出来ていた。だが、中山道を進む途中、信州上田城に籠る真田昌幸・信繁(幸村)父子に翻弄され、貴重な日数を浪費してしまい、戦場に到着したのは四日後のことだった。

 これが為に家康は自軍と豊臣恩顧の軍勢のみで戦わざるを得なかった。同時に初めから東軍として戦った者だけでなく、戦に前後して寝返った者もいて、彼等に対する論功行賞は難渋を極めた。
 結果、物凄く大雑把に云えば、事前に気脈を通じていた上に戦場で大いに活躍した豊臣恩顧の武将達を大幅に加増し、徳川の譜代大名や一族を小中大名格に取り立てた。その方法は巧妙で、大幅加増を受けた者達は石高だけを見れば文句のつけようのないものだったが、場所的には概ね中央から遠ざけられた。黒田長政・細川忠興・加藤清正は九州、小早川秀秋・池田輝政・福島正則は中国地方、加藤嘉明・山内一豊は四国地方で、関東近辺や東海道・畿内は一門や譜代で固められた。

 いずれにせよ、石高においては味方した東軍諸将は(寝返り状況では例外もいたが)大加増を受けた訳だが、当然その分の石高は西軍大名から没収されたものだった
 領主が打ち首・流刑・戦死した家は勿論、生き残ったものでも大小五〇以上の小中大名が改易となり、その没収された領地は加増を受けた東軍諸将に回された。地理的にも分かり易い例を挙げれば、戦前肥後の北半分を領有していた加藤清正は関ヶ原の戦い本戦には従軍していないが、九州地方で黒田如水等と共に西軍に付いた諸大名を牽制した手柄で小西行長が領有していた肥後の南半分を与えられ、肥後一国五〇万石の大大名となった(勿論小西家は改易である)。

 改易を免れた者でも、大減封を食らった者もいて、その削減分はやはり東軍諸将に与えられた。西軍総大将を務めた毛利輝元は安芸広島一二〇万石から長州萩二九万石に、戦の端緒となった上杉景勝は会津一二〇石から米沢三〇万石に、石田三成と親しかった佐竹義宜は常陸水戸五四万石から出羽久保田二〇万石に、そして輝元の減封に伴う形で輝元の養子・秀元も、毛利家の為に家康と通じていた従弟の吉川広家も減封となった(家康は当初毛利家を改易し、広家に三倍増の加増を授けるとしていた)。

 さて、本作では関ヶ原の戦いを、岐阜県南西部における戦いだけに限定して西軍大敗を検証している。それ故、西軍としては副将格の宇喜多秀家を「戦場における事実上の大将」、三成を「戦場における事実上の副将兼参謀」と見做し、小西・島津・大谷・長束・安国寺・長宗我部といった諸将は「従軍者」として、大敗の責任者と見ていない。
 その観点で行くと、秀家は戦後三年間逃亡した果てに出頭し、八丈島への流刑となり、三成は戦の半月後に斬首されたので、身も蓋もない云い方をすれば「大敗に学んだ。」が無かった。
 命を奪われた三成はともかく、秀家は身の処し方次第では大名復帰の可能性も僅かにあったが、結局それを拒んで八丈の土となったのだから、「学ばなかった。」としか云い様がない(←秀家の生き方を否定・非難しているのではありません)。

 ただ、三成一族の一部は上手く生き延びることを学んだと云えなくはない。
 関ヶ原の戦い直後、東軍は三成の居城・近江佐和山城を攻め、三成の父・正継と兄・正澄は自害して果てたが、三成の嫡男・重家は僧籍に入ることで、次男・重成は周囲の助けで陸奥津軽に逃げ、弘前藩重臣として血筋を残した。
 西軍に属したことで、主家の改易で禄を失った者の中には後に大坂の陣で豊臣方についた者も多かった(真田幸村・大谷大学・長宗我部盛親・増田盛次・明石全登等)が、周知の通り大坂の陣は豊臣家の滅亡に終わり、大坂方についた者は戦死するか、徹底した落ち武者狩りの果てに刑死した。
 そこを行くと、三成秀家の子孫達は自らの置かれた状況から下手に動かず、命脈を保ったと云えるのかもしれない。些か穿った物の見方だとは思うが。

 また、関ヶ原で戦ってはいないが、戦の責任者の一端とされ、大減封の痛手を被った毛利輝元や上杉景勝はその後家康に逆らうことなく、外様大名として幕府から白眼視されつつも、大きく減った石高に苦心しながらもその後の内政は概ね良好だったから、敗戦に学んだものは小さくなかったと見る次第である。


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令和五(2023)年一一月一四日 最終更新