第捌頁 鳥羽・伏見の戦い………時代を決定付けた敵前逃亡

戦名鳥羽・伏見の戦い
合戦日時慶応四(1868)年一月三日〜一月六日
敗者徳川慶喜
大敗度★★★★★★★☆☆☆
その後への影響★★★★★★★☆☆☆
損失その後旧幕府軍壊乱、戊辰戦争泥沼化
戦経過 事の始まりは大政奉還だった。慶応三(1867)年一〇月一四日、徳川幕府第一五代征夷大将軍徳川慶喜は幕府に一任されていた政権を朝廷に返上した。これは武力でもって幕府を潰そうとする反幕派の公家や薩長をメインとした有力大名の先手を打ったものでもあった。
 実際、岩倉具視は、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之等と連署で、討幕及び会津・桑名両藩討伐を命ずる討幕の密勅を前日の一三日に薩摩藩へ、一四日には長州藩にも下していたが、大政奉還は受理され、同月二一日には『討幕実行延期の沙汰書』が薩長両藩に下され、討幕の密勅は効力を失った。

 だが、このままでは七〇〇年の長きに渡って政権から遠ざかっていた朝廷を、徳川慶喜を初めとする旧幕閣が補佐する形で力を温存することになり(実際、慶喜はそれを狙っていた)、それを歓迎しない公家や薩長はあくまで幕府を潰すことを考え続けた。
 武力討幕の大義名分は延期されたので、薩摩藩の西郷隆盛は、勤王派浪士を使い江戸市中を放火・乱暴狼藉を働かせ、旧幕府を挑発した(←おひ、やり方が汚いぞ)。これにより旧幕府側から戦端を開かるのが狙いである。

 浪士による乱暴狼藉は目に余り、一〇月から一二月にかけて激化の一途を辿った。そして一二月九日、明治天皇は王政復古の大号令を下し、慶喜の将軍職辞職と幕府・摂政・関白の廃止が勅令さた。
 慶喜の処遇を巡っては決して新政府も一枚岩ではなかった。多くの公家は二六〇年もの長きに渡って政治を担い、泰平の世を守ってきた徳川家の功績を買って新政府に迎え入れようとしていたが、岩倉達は徳川の力を削ぐべく苛斂誅求を求めた。
 既に政権を返上し、将軍の地位も廃された慶喜に対し、内大臣辞職・石高返上という、その地位・収入源を完膚なきまでに叩き潰さんとした(辞官納地)。

慶喜本人は挑発に乗るような馬鹿ではなかったが、ここまでされては配下の収まりがつかなかった。徳川親藩・幕閣が激しく反発し、抗争に発展すれば岩倉達が最も希望する武力による倒幕に向かわしめられる訳だが、それを察知していた慶喜は周囲を鎮撫し、朝廷に対して恭順の意を示し続け、暴走しかねない幕府軍・桑名藩・会津藩の兵を連れて一二月一三日に二条城から大坂城に退いた。

 福井藩主・松平春嶽はこの慶喜の行動を指して、彼の恭順振りを朝廷に訴えたが、「幕府を潰す!」の結論ありきで凝り固まっていた者達が矛を収める筈がなく、幕府・桑名藩・会津藩の関係者の中には恭順の意を示しているのに苛斂誅求を課し続ける新政府への反発を抑え切れぬ者も少なくなかった。
 一二月二三日、大坂城に引き籠った慶喜に対し、薩摩藩の大久保利通は「謀反を企んでいる。」と決め付け、春嶽は余りの無茶振りが却って事態の鎮静化を妨げているとして慶喜への苛斂誅求を緩和するよう訴え、岩倉もこれに同意した。
 しかし岩倉以上に頑迷化して、何としても戦端を開きたい薩摩藩は江戸の藩士達に放火事件まで起こさせ(←やはりやり方が汚い……)、二八日にこの報が大坂城へもたらされると、幕府軍では朝廷はともかく、薩摩だけは討たずにおれない空気に包まれた。

 勿論慶喜はこの激昂を必死になって抑えんとしたが、幕軍の怒りは頂点に達していた。折しも慶喜には上洛しての釈明が命じられており、慶喜は軽装・少人数での上洛を考えていたが、慶喜謀殺を恐れる幕府軍はこれに従わず、慶喜もあくまで薩摩を対象にこれを討つことを認めざるを得ず、年が明けた慶応四(1868)年元旦、一万五〇〇〇の兵を先発として上洛させた。

 慶喜は大坂城に籠ったまま軍中になかったが、大軍を率いての上洛を岩倉・薩長は「示威行為」と見做し、鳥羽街道から伏見へ進軍する旧幕府軍を迎え討たんとした。
 一月三日、大目付滝川具挙(たきがわともたか・旗本)とこれを警護する京都見廻組を先頭に、幕府陸軍歩兵第一連隊、歩兵第五連隊、伝習第一大隊、砲六門、桑名兵四個中隊、砲六門の旧幕府軍が淀を発って鳥羽街道を北上した。
 同時に鳥羽街道方面の指揮官であった竹中重固(たけなかしげかた・同じく旗本)は伏見にいた。
 同日午前、街道を封鎖するために南下する薩摩軍の斥候と京都見廻組の先発隊が上鳥羽村において接触。見廻組は慶喜の先触れであるとして通行の許可を求めたが薩摩軍斥候はそれを認めず、可否を京都に問い合わせるためそれまで控えるようにと回答した。
 見廻組は一旦控えるということで、小枝橋を渡って鴨川左岸へ引き返した。これに対して薩摩軍は追尾して前進し、鴨川を越え、左岸に軍を展開した。

 一触即発の睨み合いが続く内に、午後五時頃に業を煮やした滝川は「強行入京する」との最後通告を行ない、これに対して薩摩側の椎原小弥太は「朝命を奉じ、この地を守る者ゆえ臨機の応対を仕る」と答え、両者の交渉を決裂し、遂に両軍は衝突した。
 そして同様のことは伏見にても起きていた。



大敗振り 幕府軍の強引な前進に対して薩摩藩は大砲・銃で一斉に攻撃を開始した。そして伏見にて同様の諍いを展開していた薩摩藩・長州藩兵も鳥羽方面からの銃声を聞き付けて二か所同時の開戦となった。
 鳥羽ではいきなりの砲撃・銃撃を受けて幕府軍は緒戦から苦戦。伏見でも本陣としていた伏見奉行所に砲弾が撃ち込まれ、これによって弾薬庫に引火したことで奉行所が炎上、これによって幕府軍は撤退に追いやられた。

 幕府側の目的が強行突入だったのに対し、端から戦端を開きたがっていた薩摩藩側が逸早い強襲に出たことで緒戦に敗れた幕府軍だったが、薩長連合軍五〇〇〇に対し、幕府軍は三倍の一万五〇〇〇を擁していたので、体制が建て直せれば充分に勝機はあった。
 だが、翌四日に決定打となるものが戦場に持ち込まれた。

 官軍の印、錦の御旗である。

 謂わば、薩摩藩軍は「官軍」認定を受け、幕府軍は「賊軍」認定を受けたに等しく、幕府軍の戦意が急低下したのは勿論、幕府軍の味方をしていた各藩も「朝廷と戦う」ということに消極的となり、旧幕府軍は窮地に立たされ、残る道は大坂城に籠っての徹底抗戦だけだった。
 だが大坂城にて戦いの成り行きを見守っていた総大将・徳川慶喜は、元々戦うことに消極的だった上に、錦の御旗が登場したことで一気に戦意喪失。六日の夜、僅かな家臣を引き連れて船で江戸へ逃げ帰った。
 慶喜の大義観がどうあれ、現場の兵にしてみれば、まだ戦が終わっていないのに総大将が部下を見捨てて敵前逃亡したのである。加えて薩摩藩をメインとした新政府軍には各藩からの加勢にも加わり、鳥羽・伏見の戦いは、幕府軍の大敗で終わった。
 新政府軍が五〇〇〇命中一一〇名の戦死者を出したのに対し、一万五〇〇〇を擁した幕府軍の戦死者は二八〇名。つまり新政府軍は約四五人に一人の犠牲者を出したのに対し、幕府軍は約五三人に一人の戦死者を出した訳で、戦死率だけを見れば幕府軍の方がやや戦死率が低かったのだが、三倍の兵を擁しながら丸で良い所がなく、総大将が殆んど戦わずして逃げたことで「旧幕府はもう駄目だ……。」との印象を世間に広く深く喧伝する大敗となった。



敗戦から得たものと立て直し 冷たい云い方をすれば、立て直しは丸で為されなかった。
 これを皮切りに戊辰戦争が勃発し、各地で新政府軍と、旧幕府を支持する藩兵力が局地戦を展開したが、概ね新政府軍の連戦連勝に終始し、五稜郭の戦いにおける榎本武揚の降伏をもって戊辰戦争は完全に終結し、その頃には徳川慶喜は謹慎生活に入っていた。
 各地で旧領主として君臨していた大名達も明治二(1869)年の版籍奉還に応じて一時は知藩事の地位を残されるも、二年後の明治四(1871)年の廃藩置県で華族としての身分を与えられて東京に住まい、武士の世は完全に終結した。

 もしこの鳥羽・伏見の戦いの始まりから戊辰戦争終結に至るまでの流れを、旧武士層による権力の座を握り続ける為の戦いだったと見るなら、慶喜を初めとする武士たちの完膚なきまでの敗北である。
 だが、日本史の対局で見るなら、薩摩守は、慶喜は間違ったことをしていないし、真に日本の為に始祖家康並みの忍従に耐えたと見ている。
 そもそも慶喜が征夷大将軍に就任した段階で徳川幕府は末期症状を呈していた。嘉永六(1853)年の黒船来航以前から、迫りくる西洋列強の脅威や開国要求に幕府と云うより、日本全体が旧態然とした立ち居振る舞いが許されなくなっていた。
 加えて、有事に当たる責任者である筈の征夷大将軍はペリー帰国直後に一二代家慶が、列強との修好通商条約締結が余儀なくされ、攘夷派と開国派が激しく対立する最中に第一三代家慶が、いよいよ雄藩が幕府を見限り、それを押さえなくてはいけない第二次長州征伐の最中に一四代家茂が、次々とこの世を去った。しかも家定の享年は三五歳で、家茂のそれは二〇歳という若さで、武士の多くが幕府の行く末に不安を感じずにはいられなかったことだろう。

 軍事政権でありながら、既に武力で雄藩を押さえることのままならない幕府の崩壊は時間の問題だったが、真に聡明なものはその先を見ていた。日本全体のことを考えれば、軍事・科学技術・国家運営のすべてにおいて西洋列強の後塵を拝している状況の打開が急務で、その為には日本人同士が争っている場合ではなかった。
 そのことを幕府のトップで、最も地位や権力に固執してもおかしくなかった慶喜が充分に承知していた。それゆえ慶喜は土佐藩主山内容堂の進言を容れて大政奉還に踏み切った。にも関わらず、新政府内に徳川の介在を断固として許さないとした薩長は幕府を徹底的に潰さんとして様々な挑発迄繰り返した。

 まずここまで見ただけでも薩摩の幕府で戦意に雲泥の差があった。身も蓋もない云い方をすれば、幕府側は総大将に戦意が無いのに、薩摩側は無理矢理戦を起こそうとして武装と戦意を充実させていたのである。
 武装だけを見ていても、フランス式の軍装を整えていた慶喜直属の陸軍こそ六〇〇〇丁の最新式銃器を保持していなかったが、薩摩側は最新式銃器が充実していた。
 また、幕府軍の上洛が「天皇陛下への釈明」に対して、薩摩側は最初から潰す気でいた。開戦も、幕府軍が「退かんかい!」と思っていたのに対し、薩摩軍は「殺れ!」だったのだから戦意に差が出て当たり前である。実際、薩摩軍が銃撃・砲撃を開始した時、幕府軍は弾込めすら終わっていなかった。

 そして地の利も薩摩軍に味方した。
 今日の町並みは細い路地が多く、幕府側は数の優位さを活かせなかった。そうなると武装と戦意に劣る幕府の劣勢は誰が指揮を執っても覆せなかったことだろう。
 加えて、「錦の御旗」の登場である。幕府が悪まで敵視していたのは不当な挑発を繰り返す薩摩藩で、朝廷に弓を引く気などこれっぽっちも無かった。しかもこの「錦の御旗」、何百年も使用されていなかったため、本物を見たことのある人間は存在せず岩倉具視が偽造した疑惑、すらあるものだった。

 まあ、明治天皇の事後承諾を得ることに成功したので、薩摩側にして見れば結果オーライなのだが、結局、「朝敵」となることは誰もが恐れた。時代劇で云えば「葵の印籠」を突き付けられたに等しい。
 ある意味、慶喜にはこうなる展開が見えていたから、戦うことに消極的だったと云えなくもない。まして、彼の実家である水戸徳川家には、始祖家康から、朝幕が敵対した時には尊皇する様に密命されていたとの説もある。そして母が皇族でもあった慶喜にとっては、「朝敵になるかも知れない。」という懸念だけで戦意喪失には充分で、大坂城から僅かな側近と供に逃げたのも、その後の大過を生まない為の、恥を忍んだ勇気ある撤退、と薩摩守は見ている。

 だが、薩摩側はそれでも慶喜を滅ぼさんとした。

 薩摩軍を率いる西郷隆盛はあくまで慶喜の首を取らんと江戸に兵を進め、江戸はあわや火の海にならんとした。だが慶喜は恭順の意を示し続け、勝海舟が様々な諸条件(慶喜のイギリス亡命、幕臣家族の千葉移住)、時には恫喝材料(江戸そのものを焼き払う)をもって西郷との直談判に及び、結局は慶喜の謹慎をもって江戸城無血開城が成立した。

 過去作にも書いたことがあるが、平成一〇(1998)年放映の大河ドラマ『徳川慶喜』の最終回にて、慶喜(本木雅弘)が幕府と云う先祖伝来の組織を守り切れなかったことを泣いて詫びていたのに対して、母である貞芳院(若尾文子)が日本の為に何一つ間違ったことをしてはいないとして慰めるシーンがあったが、薩摩守も同感だった。

 些か強引な視点になるが、慶喜の目的が、「日本国内のごたごたを一日も早く沈め、西洋列強に比肩する富国強兵体制を整える。」ということにあるなら、彼の行動は一貫しており、様々な恥と犠牲に慶喜が耐えてくれたおかげで日本は早期の明治維新・文明開化に成功したと云えよう。つまり慶喜は敗れて尚、自らの目的を遂げたのである。
 まあ、その過程で慶喜に尽くして犠牲になった人々に対しては同情して余りある………正直、幕末史を見る度、薩摩藩側の強引さに眉を顰めざるを得ず、薩摩三傑(西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀)が揃いも揃ってろくな死に方をしなかったのも、「むべなるかな。」と思ってしまうのである。


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令和五(2023)年一二月二五日 最終更新