第陸頁 人取橋の戦い………怨恨と奇跡

戦名人取橋の戦い
合戦日時天正一三(1585)年一一月一七日
敗者伊達政宗
大敗度大敗度 ★★★★★★☆☆☆☆
その後への影響★★★★★☆☆☆☆☆
損失鬼庭左月討死
戦経過 天正一三(1585)年一一月一七日に勃発した人取橋の戦いの契機は約一ヶ月前の同年一〇月八日伊達輝宗殺害にあった。
 輝宗の子・伊達政宗は伊達家を裏切って蘆名家に着いた小浜城主・大内定綱に手を焼いており、その定綱と姻戚関係にあった二本松領主・畠山義継も政宗から目の仇とされていた。
 義継は降伏したが、その条件は過酷極まるもので、義継の領主としての家格を完膚なきまでの潰すものだった。進退窮まった義継は既に隠居していた輝宗に苛斂誅求を緩和してくれるよう執り成しを依頼し、輝宗はそれに応じたが、あろうことか義継はその御礼言上に宮森城に参上した際に輝宗を拉致する暴挙に出た。
 勿論すぐに伊達勢がこれを救出戦として後を追い、諸説あるが、結果として阿武隈川にて義継主従と輝宗は共に命を落とした。

 騙し討ちに近い形で父を殺された政宗の怒りは凄まじく、政宗は既に討死した義継の目を繰り抜き、耳を削ぎ落してから晒し首にしたとも、義継の遺体を切り刻んでから藤蔓で繋ぎ合わせて磔にしたとも云われている。
 ただ、政宗の怒りは分からないでもないが、そもそも義継による暴挙の原因が余りにも政宗が彼を追い込み過ぎたことにあったことや、遺体にまで残酷且つ過剰な報復を加えたことから、周辺大名は義継の遺児・国王丸(当時一二歳)に同情し、伊達家に対して一斉に敵対してきたことで人取橋の戦いへと推移した。

 勿論恨み骨髄だったのは政宗も同様で、輝宗の初七日が明けるや一〇月一五日、岳父・田村清顕、相馬義胤等と共に(重臣達が止めるのにも耳を貸さず)二本松城に攻め寄せた。これに対し、二本松側では義継の後を継いだ国王丸に、叔父の新城直継(義継実弟)が補佐する形でこれに抵抗した。
 一一月二日には、常陸の佐竹義重・義宣父子、会津の蘆名亀王丸、岩城常隆、陸奥石川郡三芦城主・石川昭光、白河領主・小峰義親、そしてその養子・義広(後の蘆名義広)等の南奥の諸大名が二本松を救援せんとして集合し、同月一〇日に須賀川にまで迫った。

 この展開を受け、政宗に加勢していた相馬義胤が留守中の領土に対する不安から戦線を離脱し、政宗は二本松救援軍を迎撃すべく、自軍を二手に分け、片方に二本松城包囲を続けさせると、自らは七〇〇〇の兵を率いて本宮城に入った。
 そして、両軍は同月一七日に激突した。七〇〇〇の伊達勢に対する、佐竹勢を中心とする救援連合軍の総勢は三万だった…………。



大敗振り 実のところ、この人取橋の戦い伊達政宗の大敗戦としてカウントするには躊躇いがあった。と云うのも、戦場では伊達勢は四倍近い連合軍に善戦しており、戦そのものには敗れたものの、決戦直後に佐竹義重は国許の急変を受けて即時撤退しており、それによって政宗は再起を図ることが出来た。
 つまり後々まで響く致命的な痛手を被った訳でもなく、中には義重の急退陣を政宗の謀略と見る説まであり、それが事実なら長期的な目で見て、伊達勢は戦に勝利したと云えなくもない。
 だが、多くの兵を失い、貴重な人材を失う痛手もあったのは間違いなく、何より開戦前に四倍もの敵を集めることとなった不手際に注目して、「政宗の大敗」として本頁をカウントの一つに加えた。

 ともあれ戦況だが、本宮城を出て安達太良川南方の観音堂山に布陣していた政宗は、五百川南方の前田沢に布陣していた連合軍と阿武隈川の支流である瀬戸川に架かる人取橋付近で激突した。
 さすがに戦上手の政宗でも四倍以上の敵を前には苦戦を余儀なくされ。戦は終始数に勝る連合軍が優勢に進んだ。両軍とも相手を怨みに怨んでいたから激戦は壮絶を極め、やがて潰走した伊達勢を追って連合軍は伊達本陣に突入し、政宗自身も矢一本、銃弾五発をその身に受けた。
 敗色濃厚となった伊達勢は政宗を逃がすべく、老将・鬼庭左月斎と重臣片倉小十郎景綱が殿軍を務め、東方から伊達成実が挟撃する様に加勢したことで何とか政宗は本宮城に逃れることが出来た。
 しかし、その途中で政宗は疲労と戦傷のために気絶する有様で、殿軍を務めた左月も人取橋を越えて敵中に突入して討ち死にを遂げた。

 日没とともに戦闘は自然に終了。伊達勢が受けた具体的な損害は薩摩守の研究不足で不明だが、戦闘そのものに伊達勢が優勢に立ったり、連合軍に有効な打撃を与えたりした面は皆無だった。
 だが、その夜、佐竹の陣中で部将の・小野崎義昌(義重叔父)が陣中で家臣に刺殺される事件が発生し、追い打ちを掛ける様に佐竹領に北条氏政や江戸重通・里見義頼等が攻め寄せるとの報せが入り、佐竹勢は即座に撤退し、伊達勢は壊滅的な追い打ちを免れたのだった。



敗戦から得たものと立て直し 人取橋の戦いにおける敗北から伊達政宗が学んだことは多い。細かく云えばキリがないが、敵味方問わず接するのに硬軟両面を取り混ぜることと、戦の緩急を弁える様になったことが大きい。

 実際、人取橋の戦いに敗れる前の政宗には血気と思い上がりが見え隠れしていた。合戦当時の政宗は弱冠一九歳で、一年前に父・輝宗から家督を譲られてはいたが、その輝宗はまだ四〇代の働き盛りだった。この早過ぎる隠居には優秀な政宗の求心力に掛けたものとするのを初め、諸説あるが、新進気鋭の政宗は当たるべからざる日の出の勢いがあり、過去作「戦国ジェノサイドと因果応報」でも採り上げたが、家督相続直後の小手森城攻めに際しては、降兵八〇〇名を撫で斬りにするという残虐行為もやらかしている。畠山義継に対する苛斂誅求やえげつない報復もこういった血気盛んさと無縁ではなかったことだろう。
 しかも、家督相続以前から政宗は負け知らずで、周囲の期待も大きかった。こうなるとどんな人間でもある程度思い上がってしまうのは無理ない話で、殊に向背定かならぬと見た相手(例:大河内定綱・畠山義継)には露骨に謀叛を疑う言葉を浴びせ、要らざる敵を作った側面もあった。

 だが、人取橋の戦いにおいて、南奥の諸大名が一斉に自分に敵対したことは政宗にとっても、大誤算で、驚愕の事態だったことだろう。
 少し話が逸れるが、政宗の晴宗は艶福家で、多くの子女を東北地方の諸大名に嫁がせ、養子入りさせた者も少なくなかった。それ故、諸大名の殆んどが何らかの形で縁戚関係にあり、遠近の差はあれど、血縁者も少なくなかった。
 こうなると身内といえども敵対することは時代的に珍しくなかった訳だが、身内故に手を組むことも多かった訳で、向背に油断ならないものはあっても、一斉敵対までは想定していなかったと思われる。

 実際、二本松救援に駆け付けた連合軍には政宗の身内が数多くいた。まずは下記の表を参照されたい。

 二本松救援連合軍諸将
名前領地・立場出自と伊達政宗との関係
佐竹義重常陸妻が伊達晴宗の娘。政宗にとっては義理の叔父
佐竹義宣義重嫡子母が伊達晴宗の娘。政宗とは従兄弟
岩城常隆陸奥岩城父が輝宗実弟で、政宗とは従兄弟
石川昭光陸奥石川郡輝宗実弟・政宗叔父にして義重娘婿
小峰義親白河母が伊達稙宗の娘。政宗にとっては義理の大叔父
小峰義広義親養子実父は佐竹義重で、母は伊達晴宗の娘。政宗とは従兄弟。後の蘆名義広

 まあ、この時代、伯父伯母(叔父叔母)・従兄弟と云っても一度も顔を合わさないケースだってあるだろうし、実家を裏切ったケースも珍しくないし、後々伊達家に帰参して政宗の家臣になった者もいる。
 政宗の実弟・竺丸も一時期蘆名家への養子入りの話が持ち上がったこともあった(血縁でいれば、竺丸と実際に佐竹家から蘆名家に養子に入った義広は全く同じ立場だった)。だから一人一人で見れば対立したり、干戈を交えたりすることもあるっちゃああるんだろうけれど、多くの身内に一斉に反旗を翻されるのはかなりヤバい立場だったと思われる

 ともあれ、人取橋の戦い直後、政宗は義継を追い詰め過ぎたことや、義継の遺体に酷い仕打ちをして無用の戦を起こしたとして、師傅である虎哉宗乙に厳しく叱責された。このことを激しく反省したことで政宗は、外交にも軍事にも慎重さと大胆さを上手く織り交ぜる様になった。
 直後は輝宗の菩提を弔うことと内政に力を入れつつ、援軍が引き上げた二本松に脅しをかけることで国王丸達は逃げ出し、あれほど苦戦した二本松城をあっさり手に入れた。
 そんな政宗の織り交ぜが顕著に現れたのが、天正一七(1589)年四月における蘆名義広との戦いだった。蘆名領内の安子島城と高玉城を攻めた政宗はすぐに降伏した安子島は許し、徹底抗戦した高玉は陥落後に城兵を撫で斬りにしたが、この両面姿勢は功を奏し、同年の内に蘆名氏を滅亡に追いやるのに成功した。

 その翌年、小田原に攻め寄せた豊臣秀吉には膝を屈さざるを得なかったが、それでも豊臣・徳川の天下を時に二人の天下人に危険視されながらも仙台六二万石を後世に残し得た結果は、若き日の血気一辺倒ではどこかで躓き、最上・佐竹・上杉・蒲生辺りに接収されたとしてもおかしくなかった。
 様々な側面があるので一つの事柄で決め付ける訳にはいかないが、政宗人取橋の戦い前後に学んだことはかなり大きいと云えるだろう。


次頁へ進む
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和五(2023)年一一月二日 最終更新