第肆頁 三条天皇………文字通り、同病相憐れむ?

退位者
名前三条天皇(さんじょうてんのう)
生没年天延四(976)年一月三日〜寛仁(1017)元年五月九日
在位寛弘八(1011)年六月一三日〜長和五(1016)年一月二九日
退位させられた理由(表向き)眼病の為
退位させた者藤原道長
退位後の地位上皇
無念度


略歴 伝第六七代天皇。天延四(976)年一月三日に冷泉天皇の第二皇子として生まれた。母は藤原超子(藤原兼家の娘)。諱は居貞(おきさだ)。居貞が生まれたとき、既に父・冷泉天皇は皇位を弟の円融天皇に譲っており、その皇太子には異母兄の師貞親王(花山天皇)が定まっていた。
 父が既に退位し、母の超子は居貞が七歳のときに亡くなり、居貞には強力な後ろ盾がいないかと思われたが、外祖父の兼家に似ていたことで兼家には可愛がられ、藤原氏の血を継ぐ者として、それなりに重視された存在だった(もっとも、この時代藤原氏と丸で無縁な皇族を探す方が大変だったが)。

 永観二(984)年八月二七日に花山天皇が即位すると、その皇太子には従弟である懐仁親王が据えられた。懐仁親王は居貞より四歳年下で、普通に考えるなら懐仁親王の次は花山天皇の皇子に皇位が回るのが順当だった。
 しかし寛和二(986)年六月二三日、花山天皇は在位三年にも満たず出家・退位し、まだ七歳の一条天皇が即位した。居貞にとって、一条天皇は父方で見ても、母方で見ても従弟に当ったが、同年七月一六日、両者にとっての外祖父である兼家の肝煎りで居貞が一条天皇の皇太子となった。時に居貞一一歳。
 当時、皇統は冷泉系と円融系の両統迭立状態にあり、兼家にしてみればどちらに皇統が転んでも自分が外祖父として摂関の地位を締められると踏んでの物であるのは云う迄もない。

 一条天皇の即位により、兼家一族は我が世の春を謳歌し、兼家・道隆・道兼・道長と摂関の地位が受け継がれる中、居貞の後宮にも藤原綏子(兼家の娘で、居貞にとって叔母)、藤原娍子(兼家の従兄弟・藤原済時の娘)、藤原原子(道隆の娘で、居貞にとっては従姉妹)、藤原妍子(道長の娘で、居貞にとっては従姉妹)が次々に入内した………というか押し付けられた。綏子と原子は早世し、娍子のみとなった状態で寛弘七(1010)年に妍子が入内した訳だが、妍子は娍子との間に生まれた敦明親王と同い歳だった。
 まあ、血の近い身内での婚姻や親子ほど年齢の違う婚姻も珍しい時代では無かったが、後世道長の三女・威子が甥で九歳年下の後一条天皇との婚姻を相当恥ずかしがったと云うから、妍子入内にはかなりのごり押しがあったと見るべきだろう。

 寛弘八(1011)年六月一三日、病により危篤状態にあった一条天皇は居貞に譲位し、即位した居貞改め三条天皇、時に三六歳。一条上皇はその六日後に出家し、更に三日後に宝算三二歳で崩御。亡くなる間際の譲位なので生涯帝位にあったに等しく、三条天皇の即位は当時としてはかなり遅咲きだった。
 いずれにせよ、藤原家からのごり押しは続き、三条天皇の皇太子には一条天皇の皇子・敦成親王(後の後一条天皇)が立てられ、即位の翌年には妍子が中宮とされた。


退位への道 かくして即位した三条天皇だったが、結論から云えば皇位は僅か六年で退位を余儀なくされた。
 その要因となったのは、従兄にして岳父でもある藤原道長との不和だった。

 道長の娘である妍子が中宮に立てられた際、三条天皇は長年の妻である娍子を皇后とした。これにより二后並立状態となったが、道長はこれが面白くなかった。妍子がいながら娍子を立后したのが不満だったが、間の悪いことに三条天皇と妍子の間には内親王が一人生まれただけで、道長にしてみれば長女・彰子が産んだ孫・敦成親王を一日も早く即位させたかった。

 結局、長和三(1014)年に三条天皇は眼病を患い、重要書類を読めなくなったことを理由に道長はしきりに退位を迫った。まだ退位したくない三条天皇は道長を関白に任命して味方に即けんとしたが、娘婿よりも外孫に期待する道長はこれを固辞して受けなかった。

 そしてこの年と翌年に内裏が相次いで焼失するという事件まで起き、世情の不安と病状の悪化もあって、遂に長和五(1016)年一月二九日三条天皇は娍子との間に生まれた子・敦明親王を皇太子とすることを条件に敦成親王に譲位し、上皇となった。

 余談になるが、退位の直接要因とされた三条天皇の眼病は天皇自身、かなり深刻に受け止めていたようで、長和二(1012)年に藤原隆家(道長長兄・道隆の次男)が眼病を患った際には大いに同情した。  隆家は大宰府に眼の治療を行う唐人の名医がいることを理由に療養を兼ねた大宰権帥への任官を望んだ。これに対して道長は隆家が亡兄・道隆の声望を元に九州在地勢力との結び付くのを懸念して反対したが、三条天皇が強く勧めたことで時間はかかったものの、長和三(1014)年一一月に隆家は大宰権帥となった。道長に丸で逆らえなかった三条天皇がその反対を押し切れたのだから、三条天皇の眼病は道長が折れる程深刻且つ同情に値するものだったのかも知れない。
 尚、この任官を受けて大宰府に赴任した隆家は、在任中に九州にて善政を敷き、刀伊の入寇(女真族と見られる異民族の襲撃)撃退に活躍した。人生何が幸いするか分からないものである。


退位後 後一条天皇が即位し、藤原道長がその摂政となったことは小学校・中学校の歴史年表にも記載される程、道長の天下を盤石にした重大事だった。
 二年後には後一条天皇の中宮に三女・威子が立てられ、その祝宴の席で有名な「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも 無しと思えば」という有名な和歌が詠まれたが、そのとき三条上皇はこの世にいなかった。
 退位から一年三ヶ月後に三条上皇は出家し、それから一ヶ月も経ない寛仁(1017)元年五月九日に崩御した。三条法皇宝算四二歳。
 そして三ヶ月後の八月九日、三条法皇が退位の条件として皇太子に立てられていた皇子・敦明親王が自ら皇太子廃位を申し出た。道長の力が絶対となっていた世にあって、後一条天皇よりも一四歳年上の皇太子である敦明親王に期待する者は皆無に近く、東宮関係の官位につくことを多くの者が辞退する有様で、敦明親王自身、皇太子の証である壺切の御剣を授与されないなどの嫌がらせを受けていた。

 かかる仕打ちに諦観したものか、敦明親王は自ら皇太子位を辞退することで、その後准太上天皇(上皇に准ずる)待遇を得た。それでなくても道長の血を引かない上、粗暴な振る舞いも多かったとされる敦明親王が即位出来る可能性は低く、ここに冷泉系と円融系による両統迭立状態は幕を閉じた。
 三条天皇崩御後の話とはいえ、臣下である道長によってここまで冷遇された天皇も珍しく、さすがに同情を禁じ得ない次第である。




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令和六(2024)年一〇月三日 最終更新