第伍頁 崇徳天皇………退位強要連発の果てに
退位者
名前 崇徳天皇(すとくてんのう) 生没年 元永二(1119)年五月二八日〜長寛二(1164)年八月二六日 在位 保安四(1123)年一月二八日〜永治元(1142)年一二月七日 退位させられた理由 鳥羽法皇に嫌われて 退位させた者 鳥羽法皇 退位後の地位 上皇 無念度 一〇
略歴 伝七五代天皇。元永二(1119)年五月二八日に鳥羽天皇を父に、藤原璋子を母に第一皇子に生まれた。諱は顕仁(あきひと)。
生後、一ヶ月の六月一九日に親王宣下を受けた。これ自体は珍しい話では無いが、保安四(1123)年一月二八日に皇太子となると即日、鳥羽天皇の譲位により五歳で即位した。
これは曽祖父である白河法皇の命令によるもので、このとき鳥羽天皇は二一歳だった。勿論鳥羽天皇本人の意志など無視である。
ここで少し話が顕仁本人から逸れるが、「院政」という物を見てみたい。
院政は天皇の位を退いた上皇がそのまま新帝を補佐する形で政治の実権を握り続けるものだが、これを最初に始めたのは伝第七二代天皇・白河天皇である。白河天皇は応徳三(1087)年に八歳の我が子・善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立てると即日譲位し、三四歳の若さで上皇となり、院政を開始した。
そして生来病弱だった堀河天皇が嘉承二(1107)年に二九歳の若さで崩御すると、その皇子(つまり孫)で、五歳の宗仁親王を即位させた。これが鳥羽天皇である。
薩摩守の個人的感傷になるが、白河上皇がようやくにして摂関家から取り戻した政治の実権を守る為に早々に退位して堀河天皇に譲位したり、幼少だったり、病弱だったりした堀河天皇・鳥羽天皇に代わって政治を執ったことは全くもって妥当だと思っている。
だが、大権を握り続け、皇位継承をも意のままにしてきたことで、いつしか白河上皇は思い上がったと思われる。病弱だった上に早世した堀河天皇が政権を握れなかったのは仕方ないにしても、まだ二一歳の鳥羽天皇を退位せしめたことには何の正統性も妥当性も見受けられない。正直、鳥羽天皇が自我を持ち、自分への抵抗勢力になる前に皇位から追放した様にしか見えないし、実際、鳥羽天皇はそう受け止めたことだろう。
そんな白河上皇の有名な言葉に、「ままならぬもの、鴨川の水、賽の目、山法師」というものがある。天災である鴨川の洪水、人間社会に半ば本能的に横行する賭博、神仏の権威をたてに武力をチラつかせてやりたい放題する僧兵は「治天の君」と云われた白河上皇ですらどうにもならなかったとして有名だが、逆を云えば、白河上皇はそれ以外の何事をも意のままに出来たと取れる(実際、僧兵も源義家や平正盛に昇殿をチラつかせて上手く取り締まっている)。
人間、すべての権力を掌握し、やりたい放題出来るとなると、何処かイカれて来るものらしい。そしてそれは性的な傾向に現れることが少なくない。白河上皇は嘉保三(1096)年に出家して法皇となったときに一時は堀河天皇の一部親政を許容する姿勢も見せたが、それも一時で、しかも出家の身でありながら様々な女性に手を付けまくった。
平清盛が白河法皇の御落胤であるとの伝説は有名だが、白河法皇は鳥羽天皇の中宮・待賢門院(藤原璋子)にも手を付け、結果、生まれた顕仁は実は鳥羽天皇の子ではなく、白河法皇の子ではないかと人口に膾炙した。
つまりは孫嫁に手を出して孕ませた訳で、これはかなり眉を顰めたくなる話である。さすがに真相を知る術は無いが、少なくとも鳥羽天皇は顕仁を実子と見ていなかった様で、顕仁のことを陰で「あの叔父子。」と呼んでいたと云われている。「祖父の子」だから、「叔父」という訳である。
鳥羽天皇は待賢門院その人は深く愛していたので、出自に疑念残る顕仁を実子として育てたが、明らかに可愛がってはいなかった。そしてその疑念が崇徳天皇のみならず、多くの皇族に悲劇を、何より武士が台頭する世へと繋がり、その過程で多くの血と涙が流れることとなった。
退位への道 大治四(1129)年七月七日、堀河・鳥羽・崇徳の三代に渡って院政を執ってきた曽祖父・白河法皇が亡くなり、父・鳥羽上皇が院政を開始した。実権を握った鳥羽上皇は辣腕を振るい出した訳だが、まず行われたのは露骨な報復人事だった。
鳥羽上皇は白河法皇の勅勘を受けて宇治に蟄居していた前関白・藤原忠実を二年後の天承元(1131)年に呼び戻し、その娘の泰子を入内させ、上皇の妃としては異例の皇后とした。同時に白河法皇の側近であった藤原長実・家保兄弟等を排除して院の要職を自己の側近で固めた。
そして永治元(1141)年一二月七日、鳥羽法皇は二三歳の崇徳天皇に譲位を迫り、弟でまだ三歳の躰仁親王(第九皇子)が即位した(近衛天皇)。つまり、こいつも祖父・白河法皇同様、僧籍の身で子供を作っていた訳だ(苦笑)。勿論鳥羽法皇の院政はその後も続いた。
弟が天皇となったことで、崇徳上皇が将来院政を行うことは不可能となったが、近衛天皇は生まれつき病弱で、嗣子なきまま崩御すれば崇徳上皇の子である重仁親王に皇位が回ってくることに崇徳上皇は望みを繋いだ。
実際、鳥羽法皇は重仁親王を、寵愛する后にして近衛天皇の生母である美福門院の養子に迎えており、近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には、重仁親王への皇位継承は充分あり得た。
退位後 果せるかな、崇徳天皇が退位して崇徳上皇となった一四年後、の久寿二(1155)年七月二三日、近衛天皇は一七歳で崩御した。予定通り重仁親王が即位すれば、鳥羽法皇の崩御後に崇徳上皇が院政を執れる可能性が現実味を帯びた。
しかし、即位したのは鳥羽法皇の第四皇子で、崇徳上皇の同母弟でもあった雅仁親王だった。即位して後白河天皇となったこの弟は、後の世に生まれた我々はかなりの辣腕家となったことを知っているが、この時点では全くのダークホースだった。
とうのも、このとき二九歳だった後白河天皇は芸能好きの遊び人と見られ、皇位継承候補とは全く目されていなかった(実際、彼より遥かに若い異母弟・近衛天皇が先に即位した)。ただ、後白河天皇の皇子である守仁親王(後の二条天皇)が美福門院の養子に迎えられており、守仁が即位するまでの中継ぎという形で、雅仁親王は立太子を経ずして即位することになった。
これは崇徳上皇にとって全くもって寝耳に水だった。重仁が即位出来なかっただけでも耐え難かったのに、後白河天皇の即位と共に皇太子は守仁親王に決定し、崇徳上皇は我が子が天皇となる可能性も、自身が院政を執る望みも完全に打ち砕かれたのである。
崇徳上皇が自分自身のみならず、我が子すら冷遇する父・鳥羽法皇を深く恨んだのは云うまでもない。ただ、その後も鳥羽法皇が長生きして後白河天皇及びその血筋への皇位継承ががっちり固められていれば或いは崇徳上皇も諦めがついたかも知れなかった。しかし、歴史の皮肉と云おうか、後白河天皇即位から一年も経たない保元元(1156)年七月二日に鳥羽法皇が崩御したことで歴史は大きく動き、崇徳上皇の運命は更なる暗転を余儀なくされた。
鳥羽法皇臨終の直前に崇徳上皇は見舞いに訪れたが、法皇は側近に自身の遺体を崇徳上皇に見せないよう命じていたというから、鳥羽法皇の崇徳上皇嫌いは尋常じゃなかった。ために対面することも叶わず、崇徳上皇は憤慨して引き返す有様だった。
それだけでも酷い仕打ちとしか云い様がなかったが、どうも鳥羽法皇・後白河天皇サイドには崇徳上皇に怨まれるだけのことをしているという自覚が有った様で、崩御の三日後、崇徳上皇と左大臣藤原頼長が軍を起こして国家転覆を図っているとの噂が流れ、鳥羽法皇初七日に当る七月八日に、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の綸旨が諸国に下さた。
これを見ても、後白河天皇に兄から報復されかねないとの自覚はあったのだろう。まあ、鳥羽法皇・後白河天皇共に崇徳上皇に対する罪悪感があったとは到底思えんが。
ともあれ、かかる仕打ちに我慢ならず、翌九日夜中、崇徳上皇は少数の側近とともに隠居所を脱出して、同月一〇日、藤原頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳院の側近である藤原教長や平家弘・源為義(義家孫、頼朝・義経祖父)・平忠正(忠盛弟・清盛叔父)等の武士が集結した。
崇徳上皇は亡き平忠盛が重仁親王の後見だったことから、忠盛の子の清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、叶わず、清盛は逆に後白河天皇方についた。
天皇方には他に藤原忠通、源義朝等が集い、一一日未明、白河北殿への夜襲が行われたことで上皇側は大敗した(保元の乱)。
白川北殿を逃れた崇徳上皇は一三日に剃髪して降伏の意を示して仁和寺に出頭した。同寺には同母弟の覚性法親王(つまり後白河天皇にとっても同母兄)がいて、崇徳上皇は彼に取り成しを依頼した。しかし覚性は申し出を断り、二三日に崇徳上皇は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐へ流された。
天皇方による上皇方への処罰は苛斂誅求を極め、薬子の変以来三〇〇年死刑が為されなかったのが、源為義・平忠正に斬首の極刑が下された。それも義朝に為義を、清盛に忠正を斬らせるという残酷なものだった。
命を取られなかったとはいえ、崇徳上皇の流刑も恵美押勝の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、実に四〇〇年振りの出来事だった。
同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。その後、二度と京の地を踏むことはなく、八年後の長寛二(1164) 八月二六日に崩御した。崇徳上皇、宝算四六歳。
『保元物語』によると、崇徳上皇は讃岐での軟禁生活にあって仏教に深く傾倒して、極楽往生を願って五部大乗経の写本作りに専念し、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めて欲しいと朝廷に差し出した。
しかし、後白河天皇は「呪詛が込められているのではないか?」と疑って受け取りを拒否し、写本を崇徳上皇の元へ送り返してきた。この仕打ちに激しく憤った崇徳上皇は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と、皇室が他の氏族に取って代わられることを本当に呪詛して血で書き込んだ。
その後、崇徳上皇は爪や髪を切らずに伸ばし続け、崩御した時の姿は夜叉の様だったと云われている。
他方、『今鏡』によると流刑者としての寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。どちらが正しいかは何とも云えないが、後年崇徳上皇は日本三大怨霊の一人として長く大いに恐れられたのは事実である(後の二人は菅原道真と平将門)。
崇徳上皇の崩御に際して後白河上皇はその死を無視し、現地の国司による葬礼が行われただけで、朝廷としては何も行わなかった。だが、安元二(1176)年には建春門院・高松院・六条院・九条院等、後白河天皇や藤原忠通に近い人々が相次いで死去し、翌安元三(1177)年に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こりると貴族達は崇徳上皇の怨霊を意識し出し、そんな様子を日記にも書き残した。
寿永三(1184)年に藤原教長が崇徳上皇と藤原頼長の怨霊を神霊として祀るべきと主張し、後白河法皇は怨霊鎮魂の為に保元の宣命を破却し、同年八月三日にそれまで「讃岐院」としていた院号を「崇徳院」と改め、頼長には正一位太政大臣を追贈した。日本一の大天狗も怨霊には敵わなかったらしい。
その後、崇徳上皇は四国全体の守り神であるという伝説も語られ、鎌倉時代に承久の乱で土佐に流された土御門上皇(後白河法皇の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰める為に琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束したと云われている(実際にその後土御門上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いた)。
室町時代には幕府管領・細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと云われている。
更に時代は下り、慶応四(1868)年八月一八日、明治天皇は自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて飛鳥井家の邸宅の地に白峯神宮を創建した。霊体とはいえ、実に七一二年振りに崇徳上皇は帰京を果たした。 近くは崇徳天皇八百年祭に当たる昭和三九(1964)年、昭和天皇は香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせた。
古今東西、若くして望まぬ退位を余儀なくされた天皇は決して少なくなく、失脚後に呪詛を残し、それが怨霊信仰社会において大いに畏れられた例も枚挙に暇がない。しかしそのいずれもが崇徳上皇が囲った不遇とそれに対する憤りには及ばないとして日本史に深く刻まれている。
偏に、崇徳上皇自身が残した呪詛の念も半端なかったが、第三者的にも酷過ぎる仕打ちが為されたことが明白だった所以と云えよう。
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令和六(2024)年一〇月九日 最終更新