第陸頁 後深草天皇………両統迭立の始まり
退位者
名前 後深草天皇(ごふかくさてんのう) 生没年 寛元元(1243)年六月一〇日〜嘉元二(1304)年七月一六日 在位 寛元(1246)四年一月二九日〜正元元(1260)年一一月二六日 退位させられた理由 病気療養(表向き。実際は後嵯峨天皇の権力強化) 退位させた者 後嵯峨上皇 退位後の地位 上皇 無念度 七
略歴 伝第八九代天皇。寛元元(1243)年六月一〇日に御嵯峨天皇を父に、その中宮・西園寺姞子を母に第一皇子として生まれた。諱は久仁(ひさひと)。外祖父・西園寺実氏は太政大臣にして朝廷の実力者で、久仁は西園寺邸に育ち、生後二ヶ月で立太子された。
寛元四(1246)年一月二九日、四歳で父・後嵯峨天皇より譲位されて即位。当然このような幼帝に政治を執れる訳なく(まあ、それ以前に政治の実権は鎌倉幕府に握られていた訳だが)、このときまだ二七歳の御嵯峨上皇が院政を行う事となった。
退位への道 正元元(1260)年一一月二六日、後深草天皇は病を得たことで御嵯峨上皇より退位を命じられた。このとき後深草天皇は一七歳だった。後継者となったのは同母弟の恒仁親王(亀山天皇)だった。
後深草天皇の、四歳で即位して一七歳で退位を余儀なくされるという経緯には二つの要因があった。一つは皇位継承路線の脆弱さと、後深草天皇自身の健康問題にあった。
まず前者だが、当時天下の政権は鎌倉幕府、正確にはその最高権力者である将軍家の執事に過ぎない北条得宗家に握られていた。事の始まりは御嵯峨上皇の生まれる一年前に遡る。
早い話、承久の変が起こり、曽祖父・後鳥羽上皇が幕府方に完敗したことで朝廷は完全に世俗の権利を失った。後鳥羽・順徳・土御門の三上皇が流刑となった。このとき、後鳥羽上皇の子で、後深草天皇の祖父でもあった土御門上皇は父の倒幕計画に反対で、幕府も土御門上皇を罰する意思は無かったのだが、土御門上皇自身が自身を無関係とすることを潔しとせず、流刑を申し出、これに服した。
生まれたばかりだった御嵯峨天皇は母の実家で育ったが、朝廷は完全に幕府の顔色を窺わざるを得ず、御嵯峨天皇は二十歳を過ぎても元服さえ出来なかった。皇位は後鳥羽上皇の甥である御堀河天皇の系統に移され、後堀河崩御後は四条天皇が継いだが、四条天皇は幼くして崩御したことで皇統が途絶えた。
幕府は承久の変時に倒幕に積極的では無かった土御門上皇の系統を重んじたため、後嵯峨天皇がようやく即位出来た。それゆえ後嵯峨天皇は自身の立場を固める為に幕府との関係を重視し、庶長子の宗尊親王(後深草天皇にとって異母兄)を鎌倉幕府の第六代将軍に差し出し、一方で自身の皇統及び皇位継承権を固める為に若くして幼い後深草天皇に譲位し、後深草に対しては同母弟への皇位継承を強要した。
もう一つの要因である健康問題だが、この問題で後深草天皇は両親から愛されなかった(正確には弟の方が溺愛された)。どうも後嵯峨天皇は偏愛傾向があった様で、庶長子の宗尊親王はかなり溺愛していた。ただ、宗尊親王生母の身分が低かったため、中宮である西園寺姞子が皇子を産むと、皇位継承は不可能となり、征夷大将軍への道が与えられた。
そしてその姞子だが、夫である後嵯峨上皇共々、病弱な嫡男である後深草天皇よりも、身体頑健で闊達な同母弟である恒仁の方を愛したと云われている。
前頁の崇徳天皇では無いが、それでも後深草上皇にしてみれば、皇子である煕仁親王に皇位が受け継がれるならまだ希望はあった。だが譲位の八年後である文永五(1268)年、後嵯峨上皇は煕仁よりも年少である亀山天皇の皇子・世仁親王を立太子した。
後深草天皇は二五歳にして自身が治天の君になる可能性も、自身の皇統が受け継がれる可能性も叩き潰されたことになった。その無念は崇徳上皇のそれに匹敵したと云えるだろう。
退位後 かくして治天の君への道を閉ざされ、持明院に隠居し続けていた後深草上皇だったが、すべてを諦めた訳では無く、虎視眈々と御嵯峨上皇死後を睨んでいた。
その後嵯峨法皇は、世仁親王立太子の四年後である文永九(1272)年に治天と皇位の決定権についてすべてを鎌倉幕府に委ねる形で崩御した。恐らく、亀山天皇の皇統を守る為に幕府の力を味方につけんとしての策謀だったのだろう。
これに対して鎌倉幕府は後深草上皇・亀山天皇の母・姞子に後嵯峨法皇の遺志を諮問し、結果、亀山天皇による親政が遺志とされた。そして皇統を固めるかのように二年後の文永一一(1274)年一月、亀山天皇は世仁親王に譲位し(後宇多天皇)、院政を開始した。
この文永一一年は、元が九州に攻め寄せて来た、所謂、元寇・文永の役が起きた年である。鎌倉幕府の執権は八代目の北条時宗だったが、彼の父である五代目北条時頼の代以来、宮騒動・宝治合戦・二月騒動と北条一族の内紛が絶えず、一方で元からも服属要求(と云うと語弊があるが)に等しい通商要求が為されていて、幕府は内憂外患状態だった。
そこに加えて皇位継承問題まで一任されたのだから堪ったものでは無かったと思われるが、後深草上皇は世仁親王の立太子に強烈な不満を抱き、翌建治元(1275)年に当てつけの様に太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、時の関東申次・西園寺実兼(母方の従兄弟)に北条時宗と折衝させ、後深草上皇の皇子・熈仁親王を立太子させることに成功した。
弘安の役の前年である弘安三(1280)年頃から後深草上皇は後宇多天皇の退位を促す運動を行い、七年後の弘安一〇(1287)年一〇月に鎌倉幕府内管領・平頼綱を味方につけて後宇多天皇を退位させ、煕仁を伏見天皇として即位させることで念願の院政を開始した。
文章だけではややこしくなるので、まずは下の系統図を参照頂きたい。
少年とも云える年齢で父帝から退位を強要され、一時期とは云え自分の血筋が皇統から外されたことが相当後深草上皇のトラウマとなったものか、彼は二年後の正応二(1289)年四月に伏見天皇の皇子で、まだ二歳だった孫・胤仁親王(後伏見天皇)を立太子させ、半年後に第六皇子・久明親王を鎌倉将軍として下向させる等して、自らの血統による皇位独占を盤石化せんとした。
だが、この方法は皮肉にも父がかつて自らの権威を高めんとして幕府を味方につけたのと全く同じものだった。ただ、幕府側はあくまで中立を保ち、後深草上皇・亀山上皇双方の顔を立てて、後深草上皇の血統(持明院統)と亀山上皇の血統(大覚寺統)とで交互に皇位を継承し合う様に提案していた。
翌正応三(1290)年に後深草上皇は出家したことで院政を停止したが、その後も伏見天皇の諮問を受ける等して政治への関与が続いた。
だが、話はこれで収まらなかった。両親の寵愛を受けて皇位を継承し、自分の皇子への継承路線を固めたのに幕府の横槍で兄とその一族に総てを奪い返された亀山上皇は、我が子・後宇多天皇が伏見天皇に譲位させられ、あまつさえその皇太子に胤仁親王が据えられたことに強烈な不満を抱き、自分の血筋への皇統奪還を図った。
結局、亀山上皇も幕府に働きかけ、永仁六(1298)年に、孫で後宇多天皇の第一皇子である邦治親王を後伏見天皇の皇太子とすることに成功し、正安三(1301)年に後伏見天皇から譲位されて後二条天皇となった。
結果、その後も持明院統と大覚寺統とで醜い対立及び皇位継承暗闘が繰り広げられた訳だが、この辺りの詳細は過去作『鎌倉私設軍事裁判』を御参照願いたい。
所謂、両統迭立が始まり、二つの皇統が併存したことで後々周囲からも利用され、室町時代初期に南北朝の動乱へと繋がったのは周知の通りである。最終的には足利義満の力で北朝と呼ばれた持明院統、つまりは後深草上皇の家系に皇統は戻り、現在に至っているが、後世、南朝を正統とする者も少なくなく、学説や世情によって鎌倉末期から室町初期にかけての様々な人物が時に忠臣にされ、時に朝廷に弓引く逆臣とされた。
偏に、後深草上皇に対する皇位及び皇位継承系統剥奪が理不尽過ぎ、その正統を巡って誰も決定的な断を下せなかった故で、皇統を奪われた後深草上皇も、譲られた亀山上皇も双方が自らを正統として頑迷に譲らなかった所以である。
そんな最中、自らの執着が後世に深く影響することを知る由もなく、嘉元二(1304)年七月一六日、後深草法皇は宝算六二歳で崩御。同母弟にして最大のライバルでもあった亀山法皇もまた翌年に崩御した。時の天皇は後二条天皇で、院政を担っていたのは後宇多上皇で、皇太子には後深草上皇の孫・富仁親王(花園天皇)が立てられており、鎌倉幕府滅亡は約三〇年後に迫っていた。
余談だが、歴代天皇に「深草天皇」は存在しない。第五四代仁明天皇の別称が「深草帝」だったことで、これに因んで「後深草院」と追号されたことで後世「後深草天皇」と呼ばれている。
次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る
令和六(2024)年一〇月一五日 最終更新