第拾頁 『関ヶ原の戦い』其の壱と小早川秀秋………優柔不断ゆえの罪悪感?

裏切り発生事件関ヶ原の戦い
裏切った場所美濃国関ヶ原
裏切り年月日慶長五(1600)年九月一五日
裏切り者指名小早川秀秋(天正一〇(1582)年〜慶長七(1602)年一〇月一八日)
裏切り対象石田三成を初めとする西軍
裏切り要因立身出世狙い・一斉射撃による威嚇
悪質度
因果応報汚名に苦しんだ果ての夭折と後世の(根も葉もないものも含む)悪評
裏切り者略歴 武田家滅亡や本能寺の変で天下が急転直下した天正一〇(1582)年、木下家定を父に、杉原家次の娘を母に五男として近江長浜に生まれた。幼名は辰之助

 父家定は羽柴秀吉の正室・お禰の兄で、辰之助は天正一三(1585)年に四歳で義理の叔父である羽柴秀吉の養子になり、幼少よりお禰に育てられ、元服して木下秀俊、次いでに羽柴秀俊と名乗った(小早川秀秋は改名が多く、最後の名前も秀詮だが、例によって面倒くさいので秀秋」と通して表記)。

 世にその名が出たのは天正一六(1588)年四月、僅か七歳の時で、秀吉が後陽成天皇の聚楽第行幸に際して、諸大名に関白として後陽成天皇と自分への忠誠を誓わせ、この誓紙を秀吉の代理として受け取った。
 同時に内大臣・織田信雄以下六大名が連署した起請文の宛所が「金吾殿」(←秀秋の官名。金吾は中納言の唐名)とされた。

 天正一七(1589)年に八歳で丹波亀山城一〇万石を与えられ、三年後の文禄元(1592)年には一一歳で従三位・権中納言兼左衛門督に叙任し、「丹波中納言」と呼ばれたのだから、日本史上でもトップクラスの親の七光り出世街道(笑)を歩んでおり、諸大名もこの時点で関白を継いでいた豊臣秀次に次いで豊臣家の継承権保持する者と見られていた。
 だが、文禄二(1593)年、秀吉に実子・拾い(秀頼)が生まれたことで秀秋・秀次を初め秀吉の養子達の運命は急変した。

 秀吉はそれまで可愛がっていた養子達を拾いへの対抗馬と見做し出した。とはいえ、それまで可愛がっていた者を憎み出した訳でもなく、他家に養子に出したり、実家に戻したりしたのが主だった。
 そんな中、秀秋は当時実子の無かった毛利輝元を懐柔する為にその養子にすることが画策された。だが他家に養子を送り込んで則る策を得意とした毛利家中(笑)は即座に秀吉の意図を見抜いた。
 輝元の叔父である小早川隆景は弟・穂井田元清の子である毛利秀元を、毛利家の後継ぎとして秀吉に紹介した上で、秀秋を小早川家の養子に貰い受けたいと申し出て認められ、文禄三(1594)年、正式に養子縁組が成立し、小早川秀秋が誕生した(厳密にはこの時点では小早川秀俊)。

 謂わば、小早川家は毛利家の身代わりになったようなものだったが、隆景自身はこの養子縁組を機に小早川家の家格・待遇を急上昇させ、自らは中納言、五大老の一員となった。

 翌文禄四(1595)年養父・隆景の隠居に伴い、秀秋は一四歳にしてその所領三〇万七〇〇〇石を相続して筑前名島城の国主となった。そして慶長二(1597)年六月に隆景が没し、秀秋は名実ともに小早川家当主になると同年二月に秀吉が開戦していた慶長の役への従軍を命じられ、朝鮮半島へ渡海した(ちなみに秀秋に改名したのは朝鮮在陣中の事)。

 この時、秀秋は名目上の総大将とされたが、勿論一六歳の秀秋が真の意味で総指揮を執る筈なかった。だが、秀秋自身には奮戦して元養父に認められたい意図があったのか、自ら抜刀して戦うこともあった(主任務は釜山浦在番・城普請)。

 だがこの時の蛮勇的な戦い振りが「総大将にあるまじき振る舞い」とされ、慶長三(1598)年一月二九日に帰国し、秀吉に謁見した際に越前北ノ庄一五万石への転封(減封)命令を下された。
 実際に朝鮮出兵時の現地における秀秋の行動は不詳なのだが、この大減封により、秀秋は多くの家臣を解雇せざるをえず、それに際して長く付家老として秀秋を補佐してきた山口宗永も秀秋の元を離れ、隆景以来の旧小早川家家臣であった高尾又兵衛や神保源右衛門らも代官として派遣されてきた石田三成の家臣として吸収された。

 幸いと云っては変だが、同年八月一八日に豊臣秀吉が薨去したことで五大老による合議にて徳川家康の計らいを受けて秀秋は旧領筑前名島三〇万七〇〇〇石への復帰が叶った。
 この一連の動きを受け、秀秋は減封が石田三成の讒言によるものではないか?と考え、家康に借りが出来たことになった。そしてそのことだけが原因ではないがこの因果は秀秋の人生及び日本史を大きく動かす遠因となった(と書いては云い過ぎか?(苦笑))



裏切りの背景 豊臣秀吉の薨去から二年、徳川家康を豊臣家への害になると見做した石田三成は家康追討の兵を挙げた。
 ただ、関ヶ原の戦いは「三成VS家康」という単純なものでは決してなかった。

 三成は早くから家康を危険視していたが、如何せん人望も家格も違い過ぎた。家康が五大老筆頭で、二五〇万石を有し、内大臣であるのに対して三成は五奉行の四位で、一九万石の中堅大名で、治部少輔に過ぎなかった。
 また人望面でも生真面目過ぎた三成は武断派から尋常じゃなく嫌われており、前年に前田利家が逝去した際には利家の遺体も冷え切らぬ内に武断派七将(加藤清正・福島正則・細川忠興・黒田長政・池田輝政・加藤嘉明・浅野幸長)から襲撃を受け、家康の仲介を受けて佐和山への隠居・謹慎を命じられる体たらくだった。

 それでも良くも悪くも信念の人である三成は何としても家康を倒さんと図り続け、親友で上杉景勝の重臣だった直江兼続と図り、家康を上杉討伐に向かわせると五大老の一人・毛利輝元を総大将に、同じく五大老の一人で秀頼義兄(秀吉養子)の宇喜多秀家を副将に徳川家康打倒の兵を挙げ、これが関ヶ原の戦いに繋がった。

 三成は一応の大義名分と軍勢を整えることには成功した。秀頼を蔑ろにする家康を討てとの命令を秀頼に出させ、毛利輝元が大坂城西ノ丸に入って淀殿と秀頼を擁し、大坂に住む上杉討伐に従軍した諸大名の妻子を人質にした戦略は決して間違ったものでは無かった。
 だが、この三成の動きが読めない家康ではなかった。家康は反三成派の急先鋒である福島正則・黒田長政を巧みに抱き込み、三成を「君側の奸」として討伐軍を団結させることに成功した。
 家康は江戸に戻ると次男・結城秀康を上杉への押さえに置き、福島正則等が岐阜城を取ると自らも江戸城を発った。

 一方三成は家康股肱の重臣・鳥居元忠が籠る伏見城を攻撃。寡兵でありながら徹底的に抵抗した元忠だったが、終に衆寡敵せず伏見城は落城し、元忠は切腹。そしてこの戦いには小早川秀秋も加わっていた。
 伏見城を落とした西軍は諸大名に檄を飛ばして家康を告発し、総大将の毛利輝元が大坂城に籠り、副将の宇喜多秀家率いる混成軍が迎撃の為に美濃に向かい、関ヶ原の戦いは開戦秒読み段階に入った。

 この間、三成も家康も諸大名を自勢力に取り組んだり、内通させたりするのに躍起になっていた。
 家康は毛利一族の一角・吉川広家と通じ、この広家が関ヶ原東南の南宮山を動かなかったために毛利秀元・長束正家・安国寺恵瓊は軍を動かせなかった。同時に黒田長政を通じて秀秋にも調略の手を延ばしていた。
 朝鮮出兵直後の減封撤回を巡る恩義を背景に、黒田長政は親戚である平岡頼勝(小早川家家老)を抱き込み、同じく家老である稲葉正成とも意を通じ、長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(お禰・高台院)様の為に動いている。」と書かれた連書状をもって、東軍への内応を促した。

一方で、元秀吉の養子で一万六〇〇〇の大軍を擁する秀秋が敵につくか味方につくかを三成も重視していたし、秀秋の動向に不安を感じてもいた。三成は書面で秀秋に対して豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、上方二ヶ国の加増を約束して秀秋を西軍に留めんとした(嘘と疑いたくなるほど破格な好餌だが、この書状は現存している)。

 ともあれ、秀秋三成に同行せず、関ヶ原西南の松尾山に陣取った。
 一応は東軍包囲網の一角を担うもので、実際にその通りに動くなら西軍にとっては非常に頼もしく、東軍にとっては非常に脅威だった(明治時代に日本に軍学を教えに来たドイツ軍人は関ヶ原の戦いの布陣を見て即座に「西軍の勝ち」と云う程、包囲網事態は完璧なものだった。そう、包囲網自体は(苦笑))。
 それゆえ三成も家康も秀秋を頼りつつ、警戒した。家康は軍艦を小早川軍内に送り込み、三成は松尾山の麓に大谷吉継、赤座直保、小川祐忠、朽木元網、脇坂安治等を布陣させて秀秋の裏切りに備えた。


 そして慶長五(1600)年九月一五日朝、終に関ヶ原の戦いの火蓋は切って落とされた。
 東軍方の松平忠吉(家康四男)勢の宇喜多軍へ発砲したことで戦端は開かれた。だが、西軍の多くは積極的に戦わなかった。積極的に戦ったのは石田勢、宇喜多勢、大谷勢のみで、一方「三成憎し」の念が強い東軍は黒田・田中吉政勢が石田勢に、福島・松平・井伊直政勢が宇喜多勢に、藤堂高虎勢が大谷勢に積極果敢に攻めかかったが、そんな状況にもかかわらず西軍は優勢に戦った。

 だが、島津義弘も小西行長も督戦しても動かず、南宮山や松尾山に出撃合図の狼煙を上げても毛利軍も小早川軍も動かず三成は苛立った。
 一方、徳川家康も同様かそれ以上に苛立っていた。西軍は多くが積極的に戦わない状態にもかかわらず東軍の猛攻に一歩も退かず、徳川軍の主力を託した三男秀忠軍が戦場に着かず(到着は戦の四日後(苦笑))、戦況膠着状態が続けば南宮山や松尾山が西軍に味方しないとも限らなかった。
 それゆえ家康も度々使者を松尾山に送って督戦したにもかかわらず、小早川軍は動かなかった。

 ここからは有名な話だが、業を煮やした家康は松尾山に鉄砲を撃ち掛け、「早く裏切れ!」との催促を為し、これを受けて終に秀秋は動いた(この辺りの詳細と考察は後述)。
 小早川軍は麓の大谷吉継勢に攻めかかった。

 秀秋の裏切りをある程度予測していた吉継は寡兵ながらも平塚為広・戸田勝成とともによく戦って小早川勢を食い止め、一時は押し返したが、やがて共に小早川勢を防いでいた筈の脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保等が離反し、これを契機に西軍は総崩れとなり、三成、小西行長、秀家は逃亡し、吉継は自害、島津義弘は敵中突破と云う離れ業で戦場を離脱した。



裏切りの報い かくして小早川秀秋率いる小早川軍が大きな要因となって関ヶ原の戦いは東軍の大勝利となった。
 だが、秀秋にとって「家康に味方して勝ったから良し。」と云う単純な話ではなかった。発砲督促を受けてからやっと動いたことに家康が心証を悪くしている可能性が高いのは充分に考えられたし、関ヶ原の戦い前に秀秋は伏見城攻めに参戦して家康股肱の臣・鳥居元忠を死に追いやっていたという負い目があった。

 幸い、家康は伏見城攻めを不問とし、秀秋の合力に感謝し、その奮戦を労ったが、直後に行われた三成の居城・佐和山城攻略の攻め手を募られると積極的に加わらない訳にはいかなかった。


 だが、裏切りの報いに小早川秀秋が苦しむのはそこからが本番だった。
 伊吹山中で捕らえられた石田三成は大津城門前に縄目の姿を晒されたが、自らの信念に一点の曇りもない三成は堂々と東軍大名達の非を鳴らし、秀秋を初め多くの者は三成とまともに顔を合わせられなかった(黒田長政だけが武運に恵まれなかったことを慰めるように自分の陣羽織を羽織らせた)。

 そして戦後の論功行賞で秀秋は岡山藩主として宇喜多秀家の旧領を引き継ぎ、備前・美作・備中東半にまたがる五五万石への加増を受けた。
 謂わば、戦果としては申し分ない成功を収めた秀秋だったが、世間の評判は最悪だった。殊に豊臣家の直轄である大坂や、宇喜多家が代々治めて来た岡山は如何に権力者とはいえ徳川家に馴染んでおらず、秀吉の元養子でありながら同じく元養子だった宇喜多秀家を没落させた秀秋への風当たりは強かった。

 それでも岡山城に入った秀秋は家臣の知行割り当て、寺社寄進領の安堵といった施策を行うも、新たな側近と旧来の側近のそりが合わず、翌慶長六(1601)年には長年家老を勤めた重臣・稲葉正成(有名な春日局の夫)が小早川家を出奔した。
 そして翌慶長七(1602)年一〇月一八日、小早川秀秋は二一歳と云う若さで急死した。

 急死・夭折自体はいつの世にもあることで、それ自体は秀秋が不運だったとしか云い様が無いのだが、裏切りによって評判を落としていたことから秀秋の死因は「如何にも」な噂が人口に膾炙し、その多くがカッコ悪く、実しやかに囁かれ続け、現代に至っても半ば愚者のイメージが引き続けられていることが最大の報いかも知れない。

 結論から書けば、一〇代になるかならないかの頃から深酒傾向があった秀秋の病歴から内臓疾患が死因として最有力視されているが、世間は「疱瘡(天然痘)に罹患した。」、「宇喜多家浪人の報復に遭って殺された。」、「関ヶ原の戦いにおける裏切りを憤りつつ自害した大谷吉継の亡霊に祟られて発狂死した。」、「無礼討ちにしようとした農民の自棄糞急所蹴りを食らって即死した。」等と噂した。

 簡単にツッコミを入れると、疱瘡が死因なら秀秋の周囲に何百人単位の感染者がいた筈で公式記録に明記される筈である。
 また宇喜多家浪人の報復は有り得ない話ではないが、秀秋急死時点の秀家はまだ逃げ回っており、浪人達も秀秋に報復するより行方不明の主君を探す方が急務だったことだろう。
 また吉継亡霊説だが、裏切りの汚名に苦しみ、五五万石の大身としての責務がプレッシャーとなる日々に二〇歳前後の若者が精神を病んだ可能性は充分だが、裏切りと敗死が相次いだこの時代に秀秋だけが祟られるのもおかしな話である。
 最後の急所蹴りもそうだが、裏切り者として蔑む秀秋に「そんな目に遭って欲しい。」と云う悪意が溢れている(どの説もかなり惨めな死に様である)。世に多数存在する「裏切り者」が様々な報いを受けているのに比しても些か可哀想である。



余談 かつてこの戦国房を開設して間もない頃に、『菜根版名誉挽回してみませんか?』小早川秀秋を採り上げたことがあった。
 だが、他に採り上げた人物がそこそこ「名誉挽回」で来たのに比して、秀秋に関しては「大権力者と世評に翻弄されて精神的に追い詰められた若者に対する同情論」で終わってしまった(苦笑)。
 ほぼ時を同じくして、リンクさせて貰っている歴史チップスの管理人・桜田史弥さんも小早川秀秋を採り上げたがカッコよく綴れず、メール上で互いに苦笑したことがあった(※六年程前にPCが壊れ、それまでのメールが開けなくなり、メールが送れなくなりました。この頁を桜田様が見ていたらメールを頂ければありがたいです(笑))。

 ただ、時の流れは恐ろしいもので、この頁を制作する一週間前に地元本屋の伝記漫画コーナーで『小早川秀秋』を見つけて驚いた。正直、まさか秀秋を主役とした書籍が出ると思っていなかったので(苦笑)(ちなみに同時に『ジェンナー』の伝記漫画も見つけたが、新型コロナウィルス禍の世相を反映したと思われ、これはあっさり納得出来た)。
 同漫画では、松尾山に布陣した秀秋はどちらにも味方しない意志でいたのを、稲葉正成・平岡頼勝が独断で徳川に合力したことになっていた。
 確かに秀秋は酒と色に早熟で、叔母の高台院や親交が深かった公卿の近衛信尹も過度の飲酒を心配し、窘めていたことは知られているが、その一方で少年時代から蹴鞠や舞など芸の道に才を見せ、貧者に施しをするなど心優しい少年でもあったことはほとんど語られていない。

 肖像画からしてかなりカッコ悪く書かれ、歴史漫画でも右往左往してばかりにしか描かれていなかった小早川秀秋が長所も短所も正しくその実態に迫られるようになったのは良い傾向だと思われ、すべての人物が公平公正に実像が記録されて欲しいと改めて思う次第である。


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令和三(2021)年九月二八日 最終更新