第参頁 『嘉吉の変』と赤松満祐………深読み?勇み足?の先手必勝

裏切り発生事件嘉吉の変
裏切った場所京都
裏切り年月日嘉吉元(1441)年六月二四日
裏切り者指名赤松満祐(弘和元(1381)年〜嘉吉元(1441)年九月一〇日)
裏切り対象足利義教
裏切り要因猜疑心からの先手必勝の念
悪質度
因果応報守護大名から孤立し、討たれる
裏切り者の略歴 弘和元(1381)年、播磨・備前・摂津・美作の守護を兼任する赤松義則の子として生まれ、元服時に室町幕府三代将軍・足利義満より偏諱を受けて満祐と名乗った。
 父の代理として早くから政治に参与し、四代将軍・足利義持の代になると、応永二一(1414)年には父に次いで左京大夫に叙任され、守護職を代行した。

 応永三四(1427)年、父・義則が亡くなり、家督を継承。しかし前将軍・義持(将軍には五代目義量が就任していた)が満祐の所領である播磨を没収して寵愛する側近の赤松持貞(満祐の又従兄弟)に与えようとしたので、満祐は京都の自邸を焼き払って領国の播磨へ下り、一族を集めて合戦の準備を始めた。
 激怒した義持は備前・美作も没収して満祐を追討せんとしたが、有力守護の一色義貫等がこれに従わず、混乱が続く中、持貞が義持側室と密通したとの告発が為され、持貞が切腹に処され、諸大名の取り成しもあって満祐は赦免された。

 応永三五(1428)年一月、義持が死去。義量は既に三年前に夭折しており、将軍位は空位だったため、出家していた義持の弟四人の中からくじ引きで選ばれた結果、足利義教が第六代将軍に就任した。
 やがて北畠満雅が反乱を起こすと満祐はその討伐軍に加わり、満雅の子・教具と幕府を和睦させて北畠家への取次を務めた。
 その後も侍所頭人に再任され、播磨の国一揆鎮圧を担い、大和永享の乱でも弟・義雅にこれを鎮圧させるなど、幕府の軍事に活躍し、新将軍義教との関係も当初は良好だった。

 だが、出家の身から還俗して将軍となっていた義教は、有力守護大名達に「還俗将軍」として甘く見られてはならないとの思いが強く、鎌倉公方の反乱に対しても、諸大名の反抗に対しても、敵と見做したものは誰であろうと誅殺に乗り出した。
 永享一〇(1438)年三月、満祐の家臣三人が義教によって殺害され、永享一二(1440)年には弟・義雅の領土が没収されて一部が遠縁の赤松貞村(持貞の甥)に与えられた。
 赤松家以外に有力守護大名家の内紛に対しても義教は介入を強め、斯波氏、畠山氏、京極氏、土岐氏、一色氏等も介入を受けた。
 特に土岐・一色両家に対しては当主が暗殺されるほどで、満祐は「次は自分に違いない……。」との不安を強め、永享一二(1440)年九月二二日に侍所別当の職を罷免させられると幕府に出仕しなくなり、やがてこれが嘉吉の乱へと繋がった(詳細後述)。



裏切りとその背景 嘉吉の乱は日本史上非常に有名な事件である。早い話、赤松満祐が時の将軍足利義教を自邸に招いて暗殺したものである。
 その動機を端的に云い表すと、「いずれ殺られるぐらいなら、その前に殺っちまえ。」と云う考えである。まあ、「疑心暗鬼を生ず」を地で行ったものであった。

 将軍暗殺を決意した満祐は、嘉吉元(1441)年六月二四日、結城合戦の祝勝会を催させて欲しい、として義教を自邸に招いた。
 過去作で触れたことがあるが、義教を招いた文面には、「我が家の庭の池を泳ぐカルガモの親子が可愛らしいので見に来ませんか?」的な物だった。
 この書状にのこのこと赤松邸に出向いたのだから、何とも鬼将軍には似合わない話である(苦笑)。

 勿論、足利義教は時の最高権力者で、丸腰、無護衛で赤松邸にやってきた訳ではない。宴には公家で義教の義兄・正親町三条実雅、管領細川持之、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熙貴、細川持春、赤松貞村でと云ったそうそうたる面子が同行していた。
 随行した有力大名の多くは貞村同様、義教に贔屓にされ、彼の介入によって家督を相続した者達でもあった。

 暗殺は宴もたけなわな頃合いに騒乱を起こして、どさくさを突いたものだった。
 招待客一同が猿楽を観賞していたとき、俄かに馬が放たれ、奥の方から鈍く轟く音が聞こえた。義教は「何事ぞ」と呟き、傍らの正親町三条実雅は雷鳴と思い込んでいたが、直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者数十人が宴の座敷に乱入し、義教満祐配下の安積行秀に首を打たれた。

 宴席が血の海と化す中、守護大名・近習達の多くは即座に退出した(苦笑)。
 踏み止まって抵抗した者達の内、山名熙貴と京極高数は乱中で斬られて落命。大内持世が重傷を負い、それが元で約一ヶ月後に死去した。
 細川持春は片腕を斬り落とされ、正親町三条実雅は、公家の身ながら太刀を執って抵抗したが、数ヶ所を斬られて卒倒した(奇跡的に一命は取り留めた。皮肉にもこの時抵抗するのに用いられた太刀は赤松家からの献上品だった)。
 その他の列席者は辛くも虎口を脱し、混乱収束後に赤松討伐に従軍した者も少なくなかった。

 満祐サイドでは、標的はあくまで義教の首一つで、いずれ我が身は滅ぼされると思い込んでいた満祐に自棄糞な話だが、義教を道連れにすることが肝要だった。
 当然、「将軍弑逆」と云う大罪を犯して生きていられるとは思っていなかったのだろう。満祐はすぐにでも幕府から大軍が追討にやってくると思っていたが、混迷する幕府サイドでは自棄糞的な満祐の反逆を「用意周到な計略に違いない。」と深読みして、逆に即座の行動に出られなかった。拍子抜けした満祐主従は京の屋敷を焼き、領地の播磨へ逃れた。
 一方、義教を失った幕府は混乱し、義教の息子達も幼い者ばかりだったため、「将軍暗殺の下手人」と云う天下の大罪人・赤松満祐を討伐するの一ヶ月以上も手が付けられなかったのだった。



裏切りの報い 報いはすぐにやって来た。
赤松満祐による将軍暗殺は云うまでもなく最高権力者への反逆である。例え足利義教を快く思っていなかった者であっても、幕府の有力守護大名なら立場上、主君である義教に刃を向けるのは幕政化における最大の禁忌を犯すことで、その禁忌を犯した者は必ず討伐しなければならない。

 飛躍した物の見方をすれば、満祐同様義教を恐れ、疎ましく思っていた者にすれば、その義教が自分の手を汚さず討たれた訳で、その死に対する嬉しさを隠しつつ大義に従って満祐を討てば、新政権からは先君の仇を討った大手柄者として遇されることとなる。
 一方で、義教の恐怖政治のおかげで守護になれた者も少なくなく、そんな連中にしてみれば恩人・義教の仇を討ち、義教が取った政治の流れを死守する必要があった。
 別の視点に立つと、将軍暗殺の場から逃げた者達にとっては、満祐の首を取ることで汚名を返上する必要にも迫られていた。後に室町幕府内で大きな勢力を持ち、応仁の乱に際して一方の雄となった山名持豊(山名宗全)にしてからも、この時事件の場から逃げ出しており、管領・細川持之を初め、少なからず世の嘲笑対象となっていた者も存在していた。
 結果、大義的にも、下心的にも、名誉問題的にも、赤松満祐は多くの者からその首を狙われた。ただ、強権を振るっていた義教の死による幕府の混迷は思いの外大きく、即座の行動には出られなかった。

 嘉吉の乱直後、管領・細川持之は即座に朝廷に事件を急報し、事件翌日に評定を開いた。
 評定の場で義教の嫡男・千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決し、混乱を収める為に義教が罰した者達の恩赦も決定した。
 かくしてようやく落ち着きを取り戻した幕府では、持之の指示で細川持常、山名持豊、赤松貞村等を初め、河野氏・吉川氏等を西国大名が動員され、ようやく義教の仇討ちが敢行された。

 この間、領国に退いた満祐は、足利義尊(初代尊氏の次男・直冬の孫。直冬は叔父・直義養子として実父とは対立していた)を新将軍に奉じて、これを大義名分として公然と幕府に反旗を翻した。勿論義尊は傀儡であった。
 ただ、一応の大義名分は立てたものの、滅亡までの流れを見る限り、どうも満祐は最後の最後まで生き残ったり、自分が天下を握ったり、といった壮大な計画を立てていたとは考え難い。
 前述した様に、強力な独裁者・足利義教を突如失った幕閣は、義教の遺児がいずれも幼少だったことから大混乱を来たし、当面の間、赤松討伐どころでは無くなった。
 となると、満祐は幕府からの討伐軍が派遣されるまで二ヶ月もの間、播磨を初めとする三ヶ国の領土を固めるなり、先手を打って上洛して幕府にとどめを刺すなどの時間的な余裕があったにもかかわらず、それらの行動を取ることも無かった。
 一応、足利義尊を奉じ、義教を恨む諸大名が味方に付くと踏んでいた節はあるが、それらの目算を固める工作を行った気配すらなく、書写山の東坂本にあった定願寺で日夜酒宴や猿楽芸能を尽くして遊び呆けていたと云う。
 思うに、赤松主従に遠大な計画は皆無で、義教暗殺時点では即座に討伐されることも覚悟していたが、予想に反して幕府から即座の報復も無かったため、一応は領国に退いて生き残りを図ったものの、どこかで大勢には抗し得ないと思って、残る時間を楽しむことを選んだのではあるまいか?

 万全な備えを為さなかったものの、満祐は教康・則繁等の善戦で一時は幕府軍を圧倒した。だが、赤松討伐には綸旨まで出され、満祐は朝敵とされた。
 これにより追い詰められた満祐は城山城(現・兵庫県たつの市)に籠もり、教康や則繁等を逃がすと、九月一〇日に一族六九名と自害して果てた。赤松満祐享年六一歳。その首は九月二一日に四条河原にて晒された。


 満祐は性格が傲岸不遜、横柄で気性が激しかったと伝わっている。
 好き嫌いが激しく、弟の中でも乱暴者で知られた則繁と馬が合ったのか、特に仲が良く、常に行動を共にしていた。
 則繁が細川邸で暴挙に及び将軍の義持から切腹命令が出た際もこれを庇い、そのことからも義持・義教の二代に渡って満祐は信頼されず、赤松家にあっても温和で有能な庶流家が厚遇された云うから、満祐義教を「殺られる前に殺れ」的に殺害したのも必然的な結果で、実際満祐義教を殺さなければ、いずれは義教によって殺されていたか、失脚させられていた可能性は充分あったと見える。

 一方で、義教暗殺の一週間後、幕府から遣わされた使僧が乱に際して持ち帰った義教の首返還を求めてきた際には、満祐は首級を丁重に返している。運命の変遷が激し過ぎるせいか、なかなか人物像の掴み難い人物である。


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令和三(2021)年七月一日 最終更新