第肆頁 『大寧寺の変』と陶隆房………計算通りの誅殺と計算外の犠牲

裏切り発生事件 大寧寺の変
裏切った場所 周防国
裏切り年月日 天文二〇(1551)年八月二日〜九月一日
裏切り者指名 陶隆房(大永元(1521)年〜天文二四(1555)年一〇月一日)
裏切り対象 大内義隆
裏切り要因 大内家立て直し
悪質度
因果応報 過去に可愛がった毛利家に討たれる
裏切者の略歴 一般に、陶晴賢として有名である。が、晴賢を名乗ったのは主君・大内義隆を弑逆した後の話で、「裏切り者」としては事件当時の「隆房」の名を重視し、拙房には珍しい傾向だが、時系列と名前を一致させたい。

 大永元(1521)年、周防山口の大大名・大内義興の重臣・陶興房を父に、右田弘詮の娘を母に次男に生まれた。幼名・次郎。陶氏は大内氏の遠縁で、重臣の家柄だった。その家柄と、美男だったことから義興嫡男・大内義隆の寵童として重用された。
 長じて、元服に際し、主君・義隆の一字を拝領して陶隆房と名乗った(陶氏の慣わしで、父・興房も先君・義興から一字を拝領していた)。

 天文八(1539)年、父・興房が病死し、家督を相続。翌天文九(1540)年、出雲の尼子晴久が親大内勢力である毛利元就の吉田郡山城を攻め、隆房は元就への援軍の総大将としての権限を義隆から与えられ、翌天文一〇(1541)年一月に尼子軍撃退に成功した(第一次吉田郡山城の戦い)。

 ここまでは義隆も覇気に溢れた、大国の支配者に相応しい主君だったのだが、天文一一(1542)年出雲遠征における月山富田城攻め(第一次月山富田城の戦い)に大敗後、義隆は軍事面に興味を示さなくなり文弱に耽り、文治派の相良武任(さがらたけとう)が重用されると武断派筆頭の隆房は家中での発言権を弱め、義隆とも不仲になっていった。

 天文一四(1545)年、隆房は武断派らしく実力行使で武任を強制的に隠居に追い込み、大内家の主導権を奪還したが、二年後の天文一七(1548)年に義隆は武任を評定衆として復帰させたため、武断派は再度文治派の反撃で大内家中枢から排除された。報復に天文一九(1550)年、隆房は内藤興盛等と手を組んで武任を暗殺しようとしたが失敗、義隆の詰問を受け、事実上、大内家での立場を失った。



裏切りとその背景 かくして大内家中における重鎮の座を追われた陶隆房だったが、文治派の追撃は執拗で、天文二〇(1551)年一月、相良武任は自らも隆房との対立した責任を義隆に追及されるのでは?と恐れ、隆房・内藤を讒言する書状を義隆に提出した。
 これにより武断派と文治派の互いに対する憎しみは頂点に達し、当の武任が身の危険を感じて周防から出奔する始末だった。

 かくして腹を決めた隆房は八月二八日に挙兵して山口を攻撃。九月一日に長門大寧寺にて主君・大内義隆を自害に追い込んだ。だが、文弱に耽った主君を当主の座から追い出し、新当主に擁立するつもりだった義隆の嫡男・義尊も殺害されてしまった(大寧寺の変)。
 徹底的にやらざるを得なくなった隆房は相良武任、杉興連、杉重矩も殺害。翌天文二一(1552)年大友宗麟の実弟で、義隆の甥でもあった大友晴英を大内家の新当主に迎えた(晴英生母は大内義興の娘)。
 晴英を君主として迎えるに辺り、これを正統なものと示す為、隆房は晴英の名を一字拝領し、陶晴賢と改名した(大内晴英自身は翌年に大内義長と改名)。



裏切りの報い だが、如何に陶隆房(陶晴賢)なりに大内家の為の想っての決起だったとはいえ、これが主君・大内義隆に対する反逆であることに云い訳の余地は無かった。
 強引且つ義隆に対して不忠な主君交代劇には反発する者も多く、大寧寺の変直後から晴賢は北九州での戦いに手を取られたが、東方でも石見の吉見正頼(正室が義隆姉)と安芸の毛利元就が反抗した。
 特に安芸における毛利家の台頭は著しく、これを抑える為に晴賢は弘治元(1555)年九月二一日に自ら三万の大軍を率いて、安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした。
 だがこの戦い、所謂、厳島の戦いにて晴賢は毛利軍の奇襲攻撃に敗れ、村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれた晴賢は逃走途中で自害した。陶晴賢享年三五歳。

 厳島の戦いが戦国史上屈指の奇襲戦にして、屈指の逆転劇に数えられているのも、この戦いが単純な力関係では毛利方に勝ち目のない戦いだったからに他なく、勝てる筈の戦に敗れたのも、晴賢義隆への謀反に対する因果応報と見られた。
 勢力の問題だけではなく、大内家武断派の筆頭に立ったように、隆房は父の興房に似て武勇に秀で、「西国無双の侍大将」と呼ばれた程の男だった。
 だが、一方で直情的な性格から独断専行が多く、冷酷な一面もあり、厚狭弾正という人物が無罪を訴えていたとき、笑みを浮かべながら火炙りにした。直後の合戦で晴賢は落馬したが、このとき晴賢の家臣は弾正の亡霊が晴賢を突き落とすのを目撃したと伝えられる。
 また、疑り深い一面があり、配下の江良房栄の才覚を恐れた毛利元就が、房栄が内通しているという噂を流すと晴賢は他の家臣が「元就の謀略だ」と言うのも聞かずに房栄を誅殺している。
 勇猛な一方で、必要とあれば冷酷過ぎる程に冷酷に振る舞った面が配下の忠誠を遠ざけた面は否めない。

 とはいえ、隆房に温情や情けが無かった訳では決してない。
 臣下の小者を思いやる逸話もあり、出雲遠征から敗走する際に自分の兵糧を護衛に与え、自らは干鰯を食べて飢えを凌いだという。
 毛利元就が尼子晴久の猛攻に遭った際、当時人質として大内家にいた元就嫡男の隆元が自害しようとしたことがあった。隆元は自分が自害すれば父は安心して尼子に降れると踏んだのだが、これを止めたのは隆房だった(両者の年が近いことと、毛利家から累代で嫡男を人質に差し出していた慣例から、二人はもともと仲も良かった)。
 隆房義隆の御前まで隆元を引き摺って行き、毛利の苦境・隆元の想いを訴えて義隆を説き伏せ、自ら毛利の援軍に行く許可を得た。厳島の戦いでは戦国の大大名にのし上がるか、引きずりおろすかの激戦を繰り広げた隆房と毛利家だったが、一面では隆房は間違いなく毛利家の恩人でもあった。

 厳島の戦いに際し、弘中隆包の「元就の狙いは大内軍を狭い厳島に誘き寄せて殲滅しようとするものだ。」という進言を入れずに出陣して大敗したことが、陶晴賢をして、彼を器量に乏しい大将と噂せしめてもいるが、いずれにしてもこの男、単純な能力や忠義や情では語れない男である。


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令和三(2021)年九月九日 最終更新