第伍頁 『永禄の変』と三好義継………若き急造当主と内紛巻き添え

裏切り発生事件永禄の変
裏切った場所二条御所
裏切り年月日永禄八(1565)年
裏切り者氏名三好義継(天文一八(1549)年〜天正元(1573)年一一月一六日)
裏切り対象足利義輝
裏切り要因家中内紛
悪質度
因果応報天下の人々から唾棄された
裏切り者の略歴 天文一八(1549)年、室町幕府にて摂津守護・安房守護を兼任する有力守護大名・三好長慶の実弟・十河一存の子として生まれた。
 長じて十河重存(そごうしげまさ)と名乗ったが、永禄四(1561)年四月、一三歳の時に父が急死し、伯父・三好長慶が十河家老臣や乳母に養育を約束し、三好家に引き取られた。
 そして二年後の永禄六(1563)年八月に従兄で長慶の世子であった三好義興が夭折したため、長慶の養子となり、三好義存と名を改めた。(以後、改名を重ねるが面倒くさいので三好義継で通します)
 長慶の後継者候補には他にも次弟の安宅冬康を初め、近い血縁の者も多かったが、長慶は九条家との関係を重んじて、九条家の養女を母に持つ義継を後継者に押し上げたと考えられる。
 と云うのも、九条家は、足利義晴、義輝と二代に渡って室町幕府将軍の正室を出した近衛家と対立しており、三好家としても手を組んでおきたい有力公家だった。

 永禄七(1564)年、義継は、三好長逸や松永久通等四〇〇〇人を従えて上洛。更に大納言広橋国光、宮内卿清原枝賢、三位竹内季治等を加えて将軍足利義輝に謁見して家督相続の許しを得た。
 その後、長慶が重病のため直ちに京都を離れて河内飯盛山城に戻った後に世を去ると、後見役の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)の支持を受けて義継は正式に三好家の当主となった。

 かかる経過もあって、家督相続時、松永久秀や三好三人衆に一家の屋台骨を支えられていた義継の当主としての権力地盤は弱いものだった。
 永禄八(1565)年五月一日、将軍義輝から「」の字を賜って義重と改名、義輝の奏請により左京大夫に任官された。
 だが、その僅か一八日後の五月一九日、義継は突如二条御所を襲撃して義輝を殺害した………(永禄の変)。



裏切りの背景 従来、永禄の変は梟雄として有名な三好家家臣・松永久秀が主導したと見られ、彼の主な悪行の一つにカウントされていた。

 だが、実際に三好義継と共に二条御所襲撃に携わったのは、三好三人衆と松永久通(久秀の息子)で、このとき久秀に至っては阿波にいた。
 また、義継達は襲撃前日に上洛した訳だが、一万近くの手勢を引き連れていたにもかかわらず洛中に緊迫感はなく、義輝も全く三好軍を警戒していなかった。
 白昼堂々軍勢を率いてきた三好軍に対して全く警戒していなかったことから、義輝殺害事件は偶発的に起こったのではないかという見解もある。

 ちなみに暗殺事件の直後、義継は名前を義重から義継へと改めた。
 この改名は、「三好本家の当主が、武家の秩序体系において最高位に君臨する足利家の通字である『』の字を『』ぐ、と表明した」と見る歴史学者もいて、義継は足利将軍家を必要としない政治体制を目指した、つまりは室町幕府並びに足利家に完全に取って代わろうとしていたと推論されている。



裏切りの報い 上述した背景からも、実の所、「冤罪」とまでは云わないが、三好義継永禄の変の主犯とするには逡巡するものがある。
 事件当時の義継は弱冠一七歳。元服を終えた大人とは云え、現代社会でも二〇代前半が「尻の青い若僧」、「嘴の黄色いひよっこ」と揶揄されることは少なくないことを考えれば御世辞にも盤石とは云い難い三好家中を義継がまとめ切れず、暴走を許した結果、永禄の変の首謀者にされたのは少々可哀想でもある。
 「それが当主の座にある者の定め」と云われればそれまでかも知れないし、実際義継は義輝を弑逆しているから完全な同情は出来ないし、その後の向背定かならない動きは感心出来ないので本作の一人にカウントしているが、実態以上に悪名が強いのが最大の報いかも知れない。

 将軍弑逆と云う大罪の前に義継は直後から翻弄され出した。
 三好三人衆と松永久秀が不仲になり、三人衆は三好家の旗頭として三好義継を利用し、永禄八(1565)年一一月一六日に義継は三人衆によって飯盛山城から河内高屋城へ身を移され、義継は三人衆と共に久秀と戦うことになった(つまり既に当主としての実権は希薄だった)。
 戦況は三人衆側が終始有利で、やがて三人衆が本国阿波から義輝の従弟に当たる足利義栄(あしかがよしひで)を呼び寄せると、篠原長房等の三好政権首脳陣は義栄を次の将軍にすべく尊重する一方で義継を蔑ろにしていった。
 このため、義継の側近達の間に不満が募り、義継の被官である金山駿河守が、義継に三人衆や長房との手切れ並びに久秀との結託を教唆し、これを聞き入れた義継は永禄一〇(1567)年二月一六日に少数の被官を引き連れて三人衆のもとから逃れて高屋城から脱出、堺へ赴いて久秀と手を結んだ。

 この際、三人衆からも康長が、そして安見宗房も久秀側へと鞍替えした。
 義継との結託により三人衆と久秀の争いは若干久秀が有利になったが、戦況の膠着は継続し決着はつかなかった。義継は大和で筒井順慶と結んだ三人衆と交戦、一〇月一〇日の東大寺大仏殿の戦いで松永勢が勝利し、久秀の勢力が持ち直す契機となった(この際に奈良の大仏が焼失。一〇年後の同日に落命した松永久秀は仏罰に当たったとされた)。
 詰まる所、義継は将軍弑逆に絡む悪因悪果として悪行に悪行を、裏切り裏切られを重ねることとなったと云える。

 一方、永禄の変に際して義輝実弟で奈良興福寺の門跡だった覚慶が寺内を脱し、還俗して名を義昭(厳密には最初は「義秋」だったが)と名を改め、兄の仇討ち並びに将軍位奪還を狙っていた。
 そして永禄一一(1568)年織田信長に擁立されて上洛してくると、進退窮まった義継と久秀は信長の上洛に協力した。

 将軍弑逆の大罪人の身でありながら逸早い降伏が功を奏し、義継は久秀と共に降り河内北半国と若江城の領有を安堵された。
 一方、これに抵抗した三人衆は居城を落とされ義栄を連れて阿波へ逃亡した(このため直後に急死した義栄は室町幕府将軍一五代の内、唯一人入京経験のない将軍となってしまった)。
 永禄一二(1569)年一月に阿波から畿内に上陸した三人衆が義昭を襲撃すると、義継は畿内の信長派と力を合わせて三人衆を撃退(本圀寺の変)、三月に信長の仲介により義昭の妹を娶った。
 その後しばらく信長の家臣として三人衆など畿内の反信長勢力と戦っていたが(野田城・福島城の戦い)、元亀二(1571)年頃から久秀と共に信長に反逆し、信長包囲網の一角に加わった。
 翌元亀三(1572)年に織田方の畠山昭高や細川昭元(二人とも信長の妹婿)と河内・摂津方面で戦って勝利するも、元亀四(1573)年四月、信長包囲網が頼りとした武田信玄が病死すると織田軍の反攻が始まり、七月に義兄・足利義昭が信長によって京都から追放され、室町幕府は滅んだ。

 義継は京を追われた義昭を若江にて庇護したため信長の怒りを買い、元亀から改元された天正元(1573)年一一月、信長の将・佐久間信盛率いる織田軍に若江城を攻められ(義昭は直前に堺へ脱出)、若江三人衆と呼ばれた重臣らの裏切りにもあって若江城は落城し、義継は妻子と共に自害して果て、首は信長のもとへ届けられた(若江城の戦い)。三好義継享年二五歳。
 余談だが、『信長公記』の著者、太田牛一は義継の壮絶な自害を「比類なき御働き、哀れなる(感動する)有様なり」と賞賛している。

 御家滅亡時の当主の常で概ね三好義継の評価は高いものでは無い。
 昨今、壮絶な自害振りからも武士としてはそれなりの器量を持っていたことを見直され、配下に松永久秀や三好三人衆と云った一筋縄では制御し切れない曲者達がいて、彼等に翻弄された若者への同情もみられるが、まだ父・長慶の方が評価は高い(大阪府大東市の市役所前には三好長慶の銅像があり、彼を大河ドラマの主人公にしようとの運動がある)。
 既に力を失っていた室町幕府を改革するよりは新時代・新秩序を作り出さんとの意欲は見られないでもないが、それを為すには明らかに彼は力が無さ過ぎた。
 無能者が理想を抱くなとは云わないが、既存秩序・既存権力を倒してそれを為そうとするなら最低でも絶対に成功する見通しと、失敗時に大悪名を背負い込む覚悟を併せ持って欲しいものである。そのどちらも持たず世の平和を乱し、害を為すだけの乱暴者・暴虐者が枚挙に暇が無いのは人類史の悲しむべき常ではあるが。


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令和三(2021)年九月二七日 最終更新