第陸頁 『朝倉討伐』と朝倉景鏡………ろくでもないその末路

裏切り発生事件朝倉討伐
裏切った場所越前国賢松寺
裏切り年月日天正元(1573)年八月二〇日
裏切り者指名朝倉景鏡(あさくらかげあきら大永五(1525)年?〜天正二(1574)年四月一四日)
裏切り対象朝倉義景
裏切り要因保身
悪質度
因果応報信用されないまま一向一揆戦に死す
裏切り者略歴 朝倉景鏡は大永五(1525)年頃の生まれと推測されるが不詳。父は朝倉景高、母は烏丸冬光の娘で、通称は孫八郎
 父・景高は越前守護代・朝倉孝景の弟で、孝景の嫡男である当主・朝倉義景景鏡は従兄弟同士である。

 景鏡は家中において大野郡司を務め、越前大野郡の亥山城(別名は土橋城)下を治めていた。
 義景の近い身内として式典の席次などからも一族衆筆頭的地位にあったと推定され、義景の名代として総大将となって出陣することが度々あった。
 永禄七(1564)年の加賀一向一揆征伐、元亀元(1570)年の金ヶ崎の戦いの際の織田軍追撃といった強敵を相手とした主要な戦いで総大将を務めた。
 また永禄の変で将軍足利義輝が殺された際に、奈良興福寺にて幽閉されていた義輝の弟・覚慶(足利義昭)が脱出して越前を頼ってきた際には景鏡は当主名代として覚慶と引見し、その後の饗応を担った。

 覚慶改め義秋(「義昭」と名乗るのはもう少し後)が越前を頼って来たのも、地理的な要因もあったが、守護代から力でのし上がり、「小京都」とも云われた越前文化を繁栄させた朝倉家の力を頼ってのことだった。
 だが、周知の通り加賀一向一揆に背後を突かれることを恐れていたことや、溺愛していたい嫡男の夭折などもあって義景は煮え切らない態度に終始し、義秋改め義昭から度重なる督促を上洛することはなく、義昭は細川藤孝・明智光秀の伝手で織田信長を頼って美濃に行き、義昭は第一五代征夷大将軍への就任を果たした。

 事情はどうあれ、結果的に義景は新将軍擁立者としての権威・権力を信長に奪われた形となり、この辺りから義景は徐々に周囲から頼りにならない存在と見られだし、その中には景鏡もいたのだった………。



裏切りの背景 大雑把に云えば、朝倉景鏡朝倉義景を裏切ったのは保身である。
 保身とは文字通り我が身を保つことで、云い換えれば我が身可愛さで、景鏡義景について行くのを危険と見た訳である。

 その詳細は詳らかではない。
 そもそも朝倉一族の中には続柄が不詳な者も多く、景鏡の経歴を同様である。史料的には足利義昭が再度義景を頼って来て織田信長と事を構えることとなったのが契機と見られる。
 信長のお陰で将軍に就任出来たものの、結局は傀儡でしかなく、信長から様々な要求(及び行動制限)を突き付けられたことに怒った義昭は再度義景を頼り、義景はこれに応じる旨を返書した。
 これに怒り心頭の信長は即座に朝倉攻めを強行し、一乗谷城落城も時間の問題かと思われたが、祖父の代から同盟を結んでいた浅井家が信長との同盟を破棄して助力してくれたお陰で滅亡を免れた。

 以降、義景は浅井長政との同盟を主軸に比叡山延暦寺や他の反信長勢力と連携して、主に畿内から近江における織田勢と死闘を繰り広げたが、同時に朝倉家中では権力争いが起きており、景鏡義景の間に微妙な距離感が出来たと確認されている。

 元亀三(1572)年、信長は羽柴秀吉に北近江の浅井家居城・小谷城の眼前に砦を築かせた。この時、景鏡は二度に渡って小谷城へ援軍として派遣されたが、この出陣中に景鏡の配下から織田軍に寝返えるものが出始めていた。
 そして天正元(1573)年、反信長包囲網における最強の一角・武田信玄が病死するや反信長勢力の運命は急転直下した。

 同年八月、織田軍に包囲され続けている小谷城を救援すべく、義景は二万の兵を率いて北近江に出兵した。だが従軍していた景鏡は連戦による疲弊を理由に出撃命令を拒否した。
 結局、義景は先鋒隊五〇〇に小谷城近くの大嶽山に砦を築かせ、周辺山中の要所要所に陣を築かせると自らは小谷城北一二里の余呉に本陣を築いて織田軍を牽制した。

 だが、朝倉家中のまとまりの無さを見抜いた信長は浅井より先に朝倉を滅ぼす好機と見て、八月一二日夜半に暴風雨に紛れて大嶽砦を奇襲し、朝倉討伐に入った。
 完全に虚を突かれた砦の守備兵は算を乱して逃走したが、これは織田勢がわざと逃がしたもので、織田勢は逃走兵に着かず離れず後を追い、次々と朝倉方の砦を陥落せしめた。
 自軍の壊乱振りに狼狽した義景は二万の軍を一ヶ所にまとめて対抗せんとしたが、信長は一二日夜から一四日夜まで兵に小休止すら与えず朝倉勢を攻め立て、義景に立て直しの暇を与えなかった。

 結局三〇〇〇の兵と六〇人余りの将を失った義景は命からがら居城・一乗谷城に引き上げるしかなかった。
 信長は一五日になって初めて兵に休養を取らせると、越前の豪族・僧兵に命の保障を与えて味方に引き入れ、一七日に越前に入った。
 こうなってはもはや戦にならず、景鏡義景に一乗谷からの撤退と自領の大野郡における再起を進言した。
 だがこれは完全な罠で、景鏡は撤退してきた義景一行に大野郡山田庄の六坊賢松寺を宿舎に宛がったが、二〇日に軍勢をもって寺を包囲し、義景を自害に追い込んだ。
 景鏡はその際に捕縛した義景の母・妻子・近習と義景の首級を信長に差し出し、降伏を許された。かくして朝倉討伐は大嶽砦の奇襲から数えてたったの九日間で終結した。



裏切りの報い 機を見て上手い降伏をしたことで織田信長に厚遇された朝倉景鏡だったが、地元越前ではそうは問屋が卸さなかった。

 信長に降伏後、彼に従って上洛した景鏡は本領を安堵され、信長から一字を貰って、領地から姓も改め、土橋信鏡と名乗った。
 だが、只でさえ内紛の続いていた越前が落ち着くでもなく、早くも翌天正二(1574)年、桂田長俊を滅ぼそうと富田長繁が起こした土一揆が越前一向一揆に進展した。
 桂田も富田も元々信鏡の部下で、小谷城救援の際に信長に逸早く寝返っていた人物だった。信鏡は一揆軍に攻められ、四月一四日に平泉寺に籠もって戦ったが戦死。一〇歳と六歳の子も捕らえられ殺害された。

 歴史の評価は常に敗者に厳しい。
 朝倉義景景鏡も結果的に短期間に滅びたこともあってその能力を低く見られる傾向にある。特に義景は様々な好機を逸し、日和見が多かったことからかなり酷評されている。義景を裏切ったのも景鏡一人ではない。
 裏切ったのがそんな落ち度の多い義景だった故か、景鏡も裏切り者として然程悪名が高い訳ではない。だが、薩摩守は土壇場で近い身内だった景鏡の裏切りは越前国内にてかなりの悪感情を生んだとみている。

人物像が不詳な景鏡の言動に迫るには軍記物『朝倉始末記』によるところが大きいのだが、同書によると景鏡はかなり陰湿な人物とされ、永禄七(1564)年九月に加賀の陣中で同族を口論の末に自害に追い込んでおり、金ヶ崎の戦いでは朝倉景恒の後詰に出陣しながらも府中より先には進軍せずに日和見に徹し、前述した様に義景最後の出陣の際も疲労を理由に参陣を断った等、陰湿な逸話が多い。
そして同書によると最期に際して景鏡は僅か三騎にて敵中へ突入して討ち死したとのことで、景鏡自身完全に諦めの境地にあったと云うから、人望をかなり失っていた可能性は高いと見られる。

 勿論、景鏡にも云い分はあっただろう。従兄弟である義景を裏切ったことは感心出来ないにしても、「朝倉家の血筋を残す。」「日の出の勢いの信長に一時従い、隙を見て御家を再興する。」と云う考えがあって敢えて義景を裏切る決断をしていたとしてもおかしくない。
 まあ、その後僅か八ヶ月で落命・族滅したため、云い訳も出来ず、その真意も大儀の有無も詳細も伺えないのが痛手な訳だが。

 一応、補足しておきたいが、朝倉義景及び朝倉家中は後世かなり悪く誇張された可能性が有ることを考慮する必要がある。
 と云うのも、最終的に天下を取ったのは徳川家で、三代将軍家光から七代家継までは二代秀忠正室・崇源院の血を引いている。云うまでもなく崇源院は浅井長政の末娘で、崇源院を慮れば浅井家を悪く云えない。
 それゆえ「義の人で、名将でもあった長政率いる浅井家が滅びたのも、偏に同盟相手だった朝倉義景が不甲斐なかったから。」と云う視点で史観が構成されたと云うのはよく云われることである。

 例を挙げれば、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に敗れたのも、当初浅井勢が織田勢を圧倒しまくっていたのに、一万五〇〇〇の兵を率いた義景が三分の一の五〇〇〇人しかいない徳川勢に大敗したことで浅井勢も敗れたとされている。
 足利義昭の御内書に応じて形成された反信長包囲網が崩れたのも、義景の日和見や目先の欲に目が眩んだ撤退によるものとされている(実際、このことを詰った武田信玄の書状はかなりの怒りに溢れたものである)。
 確かに義景は武将としては御世辞にも名将とは云い難い。ただそれでも薩摩守は戦乱の世に加賀一向一揆と云う難敵を東に、混乱を極めた若狭・近江を西と南に抱えた状況で「小京都」と云われるほどの一大文化圏を築き上げた義景を無能とは見ていないし、何より一度義景を見限った筈の足利義昭が再度頼ったのも見逃せない。

 朝倉景鏡の裏切りからは少々話が脱線したが、単純な忠義論で語るには複雑な立場や状況があるにせよ、只でさえ敗者に厳しい歴史の評価が裏切りによって更に増大することが景鏡義景の対人関係に見受けられる気がする今日この頃である。


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令和三(2021)年九月二七日 最終更新