第漆頁 『武田崩れ』と穴山梅雪・木曽義昌・小山田信茂………ろくでもないそれぞれの末路

裏切り発生事件武田崩れ
裏切った場所甲斐・信濃・駿河各地
裏切り年月日天正一〇(1582)年二月〜三月一一日
裏切り者指名穴山梅雪(天文一〇(1541)年〜天正一〇(1582)年六月二日)
木曽義昌(天文九(1540)年〜文禄四(1595)年二月一三日)
小山田信茂(天文九(1540)年or天文一〇(1541)年〜天正一〇(1582)年三月二四日)
裏切り対象武田勝頼
裏切り要因血筋残存・保身等
悪質度
因果応報個々に下記参照。いずれもロクな死に方をせず、後世の評判も最悪
裏切り者略歴 まずは穴山梅雪から。
 梅雪は出家名で、実名は信君。幼名は勝千代で、通称は玄蕃頭
 天文一〇(1541)年の生まれで、武田家支族にして重臣・穴山信友を父に持ち、母は武田信玄の実姉で、信玄とは血の繋がった甥であった。加えて正室・見性院は信玄次女で、梅雪は信玄にとっては甥にして義子、武田勝頼にとっては義兄にして族父で、梅雪は武田家にとって切っても切れない身内にして一門衆の筆頭だった。

 信玄の嫡男・義信が謀反を起こした義信事件に際しては実弟・信邦が義信に味方したため、梅雪は穴山家を守る為に自分の方から信邦の切腹を請い、その首を介錯したという悲劇はあったものの、川中島の戦いに際しては信玄本陣の守備を担い、今川家・北条家との甲相駿三国同盟瓦解後は駿河・遠江侵攻において中核を担った。
 大雑把に書けば、駿河奪取及びその後の守りにて地侍懐柔を一任され、梅雪の活動が見られる。駿河領国化後には梅雪は山県昌景の後任として江尻城代となり、駿河一国を任されたと云っても良かった。

 だが、元亀四(1573)年四月一四日に信玄が西上途中にて病死すると梅雪は御親類衆筆頭として武田勝頼を暗に後継者と認めない言動を繰り返し(その詳細は後述)、武田家中は団結力を弱め出した。

 次に取り上げるのは木曾義昌である。
 天文九(1540)年の生まれで、姓が示す通り信州木曽谷の地侍で、山がちで農耕に適さない木曾を地盤とした勢力は小さかったが、木曾(源)義仲を始祖とする 木曾源氏の名家だった。

 木曾義康の嫡子として誕生し、当初は小笠原氏や村上氏といった他の信濃衆と共に武田信玄の信濃侵攻に対抗していが、弘治元(1555)年に降伏した。
 前述した様に木曾氏は強勢ではなかったが、義仲嫡流の名族、隣接する美濃・飛騨との国境地帯を押さえていたことを買われ、義昌は信玄三女の真理姫を娶せられ、武田家の親族衆として木曽谷を安堵され、織田信長が美濃路から侵攻して来るのを防衛する役割を担った。
 ただ、表向きは信玄の義理の息子として親類衆・同盟相手とされたが、実際には主だった家臣や親族を甲府に人質として置くことを命じられ、甲斐への属国に等しかった。

 山がちな木曾谷は攻めるに難く、守るに易い地形で、木曾家の勢力は弱くとも義昌は美濃−木曾路を立派に守り抜いた。武田と織田・徳川の主戦場が主に東海道だったことも幸いした。
 しかし信玄が病没すると凋落し始めた武田家の行く末、新当主・武田勝頼の義弟でありながら、人質を取られ、木曾路防衛一辺倒で重要な役目を与えられるでもない立場に、義昌も木曾家中も徐々に不安を抱くようになった。

 最後に登場するのは勝頼を最後の最後に裏切った小山田信茂である。
 天文八(1539)年の生まれとも、天文九(1540)年の生まれてとも云われているが、不詳。小山田氏は坂東八平氏の末裔で、父は小山田信有。 小山田家は郡内地方の国人衆で、祖母が武田信縄(信玄の祖父)だったことから、信玄の従甥に当たる人物だった。

 天文二一(1552)年一月に父・信有が病死し、後を継いだ兄の弥三郎信有も永禄八(1565)年に死去し、家督を継いだ。これに前後する天文一六(1547)年一〇月一九日の信濃海野平での合戦か、天文二二(1553)九月の第一次川中島の戦いが初陣と見られているが、この時期の信茂の行動は不詳であることが多い。

 永禄一一(1568)年一二月に信玄が今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻すると信茂は先陣を務め、翌永禄一二(1569)年に北条とも戦うことになると同年九月武田家は相模小田原城を包囲した。
 さすがに上杉謙信の攻城もしのいだ小田原城は信玄の式を持っても落とせず、武田軍は撤兵することになり、その途中であった一〇月六日の三増峠の戦いでは信玄は信茂に郡内から武蔵八王子城を攻め、更に滝山城(八王子市)での合流を指示した。

 元亀元(1570)年、駿河・伊豆への出兵が行われ、同年八月に信茂武田勝頼・山形昌景と共に伊豆韮山城を攻めた。

 元亀二(1571)年一二月に北条との和睦が成立すると信玄は翌元亀三(1572)年一〇月に織田信長と断交して西上作戦を開始した。
 この西上において信茂は先陣として従軍し、三方ヶ原の戦いでも活躍した。

 だが元亀四(1573)年四月一二日に信玄は死去。その間隙を縫うように徳川家康が長篠城を攻めると勝頼信茂・武田信豊・馬場信春等に後詰めを命じたが、長篠城主・奥平氏は離反して家康についたため、長篠城は守り切れなかった。
 そして二年後の天正三(1575)年四月に勝頼は反攻を開始し、信茂もこれに従って三河足助城(愛知県豊田市)攻めを行った。
 しかし五月二一日には長篠に織田・徳川連合軍が駆け付け、長篠の戦いが勃発。周知の通り鉄砲隊の前に武田軍は惨敗。信茂は主に徳川勢と対峙し、勝頼の身辺を警護して退却したことで多くの重臣が命を落とす中、勝頼と共に甲斐への撤退に成功した。

 天正四(1576)年四月一六日、信玄の遺言でその死を秘すよう云われていた三年が経過し、武田家は信玄の死を認めて葬儀を行い、その場にて信茂は御剣を持った。かように勝頼からも深く信頼されていた信茂は二年後の天正六(1578)年三月に越後で起きた御館の乱(上杉謙信死後の二人の養子・上杉景勝と上杉景虎の間で起きた家督争い)に際して景勝との交渉に担った。
 当初は北条との同盟から北条氏政の実弟である上杉景虎(養子入り前の名は北条氏秀)に味方せんとした勝頼だったが、最終的には景勝に味方した(正確には中立要請に応じた)。
 家督争いは景勝の勝利に終わり、景虎は自害に追いやられ、これによって武田と北条は再度袂を別った。勝頼は新たに景勝との同盟を強化し、甲越同盟が成立すると信茂は引き続き上杉方との取次を担当した。

 だが武田家の衰亡は歯止めが掛からず、天正九(1581)年一二月、織田信長・徳川家康が武田領攻めを開始し、木曾義昌が裏切るとこれに呼応するように相模から北条氏も武田領への侵攻を開始した。
 木曾・駿河・相模の三方から攻められては未完成の新府城では支え切れないとの判断から勝頼は天正一〇(1582)三月三日に新府城を放棄し、火を放った。
 信茂は自らの居城である郡内岩殿城(山梨県大月市)に勝頼を招き、同地で織田・徳川軍に対抗することを進言し、勝頼もこれに応じた。

 既に穴山梅雪離反の影響で離反する国人衆・脱走兵が相次ぎ、勝頼が郡代に向かう頃には七五〇にまで減っていたが、裏切りの病は小山田家中にも伝播していた。



裏切りの背景 元亀四(1573)年四月一四日に武田信玄が病死すると、「人は城、人は石垣」と云って鉄壁の陣容を誇っていた武田家中はその堅牢さを失い出した。
 それもこれも信玄後継者が確固としていなかったことにあった。

 武田家中は大きく分けてその立場から三つの型に分類出来る。
 武田一族から成る御親類衆、武田家に代々使える宿将、信虎・信玄の代に掛けて武田家に臣従した甲斐・信濃・上野の地侍から成る国人衆だが、結果的のその多くが武田勝頼に対して強い忠誠心を持っているとは云い難かった。

 それと云うのも勝頼の母方に問題があった。
 勝頼の生母・諏訪御寮人は信玄が助命の約束を半ば反故にして殺害した諏訪頼重の娘で、何時信玄を親の仇として寝首を掻いてもおかしくなく、多くの家臣が彼女を側室とすることに反対した。
 それに対して信玄は頼重の娘を側室とするのは、神代からの名家である諏訪家を再興して諏訪家旧臣や諏訪国人衆を懐柔する為で、諏訪御寮人との間に男児が生まれても諏訪家を継がせる、と家臣達に説いていた。
 それゆえ、元服に際して勝頼諏訪四郎神勝頼と名乗ることとなり、武田姓も与えられず、信玄の男児の中では唯一人武田家の通字である「信」の字を与えられなかった。
 それゆえ家臣達は勝頼を武田家の人間と見做さなかった。

 だが、義信事件で長兄義信が自害し、次兄・信親は盲目のために僧籍に入り、三兄・信之が夭折したため、兄弟順的にも消去法的にも勝頼しか人がいなくなった。
 それでも一度諏訪の名跡を継いだ勝頼が武田家の家督を継ぐことに反発する声は少なくなく、結局は勝頼の子の信勝(信玄逝去時に六歳)が信玄の後継者とされ、「信勝が一六歳になるまでは勝頼が後見する。」という極めてあやふやな立場に勝頼は立たされた。

 悪いことは重なるもので、信玄は逝去時に自分の死を三年間秘すよう遺言した(有名な話ですね)。それゆえ武田家は信玄の死がバレバレになった後も国外に対して信玄は生きていると云い張ったため、勝頼を後継者として認めたくない勢力は勝頼が家中の指揮を執る事さえ疎んじた。
 また信玄が薨去した元亀四年(途中で改元して天正元年)は反織田信長包囲網を担っていた浅井・朝倉が滅ぼされ、将軍足利義昭も京を追われ、信長の勢力は日の出の勢いとなっていた。

 掛かる状況下にあって、勝頼の下に武田家中がまとまりを欠いたのは間違いなく滅亡への端緒となった訳だが、少々同情的に見れば誰が大将なのかも分からない状況下で個々に保身に走った気持ちは全く分からないものでもなかった。但し、勝頼に対しては唾棄すべき背信に他ならなかった訳だが。

 まず穴山梅雪だが、信玄生前同様勝頼を「四郎殿」と呼び、「お前とは対等だ。」と言いたげな態度で接し続けた。
 勝頼の側近・長坂釣閑斎の家臣の中には梅雪への人情に及んだ者も出る始末だった。
 結局、信長の急激な勢力拡大の前に武田家は新当主を推戴する必要に迫られ、梅雪も勇猛な勝頼を立てることに合意したが、長篠の戦いでは勝頼の督戦命令に従わず、勝手に戦線を離脱するという切腹ものの独断専行をしでかす始末だった。
 家中の中には梅雪切腹を意見する者もいたが、勝頼は家中の分裂を酷くすることを懸念してその意見を退けた。

 さすがに独断での戦場離脱を暗に突き上げられた梅雪は甲斐に居辛く、逃げる様に城代を務めていた駿河江尻城に向かって織田・徳川と対峙していたが、やがて勝頼の寵臣達が家中で幅を利かせ出したことや、勝頼梅雪嫡男と勝頼娘との婚約に応じなかったことから勝頼を見限って織田・徳川に内通することを決心した。

 また長篠の戦い直後、様々な立て直しを図ったことが勝頼義弟・木曾義昌が離反する端緒となった。
 戦後、織田信長は武田方に寝返っていた東美濃の岩村城を攻めたが、大敗直後の武田家にその余力はなく、勝頼はそれまで殆ど戦場に出ておらず無傷の兵一〇〇〇名を擁する義昌に岩村城後詰めを命じた。
 だが国力に余裕のない木曾では岩村城への援軍は不可能として従わず、下手に動けば木曾口が破れ、信濃への織田軍の侵攻を招くとして免除を請い、勝頼も乱波二五〇名を出しての織田軍の後方攪乱を命じるに留めた。

 だが武田家斜陽は続き、信玄の代には築かなった天守閣付きの城を造営することとなり、勝頼は新府城造営の賦役(主に木曾杉の伐採と運搬)を義昌に命じ、これは木曾家への重大な負担となり、義昌は不満を募らせた。
そして義昌は、天正一〇(1582)年、織田家家臣遠山友忠を仲介役として織田信長と盟約を結び、実弟上松義豊を人質に差し出すと勝頼に反旗を翻した。
当然勝頼はこれに激怒し、従弟・武田信豊率いる討伐軍を木曾谷に差し向けたが、義昌は地の利と織田信忠の援軍を活かして鳥居峠にてこれを撃退。かくして武田家は信州伊奈口から織田信忠軍五万の侵入を許すこととなり、三月二日には勝頼の弟・仁科盛信の籠る高遠城が落城した。

 これに先立って二月二五日、穴山梅雪は甲府に人質として預けられていた身内を奪還するや甲斐一国の拝領と武田氏の名跡継承を条件に、徳川家康の誘いに乗り、信長に内応した。
 これにより甲州攻めの総大将となった織田信忠は梅雪の先導で易々と甲斐に侵攻した。親類衆筆頭である梅雪離反の影響は大きく、国人衆は次々と離反し、末端の兵からも脱走者が相次いだ。
 未完成の新府城では木曾・駿河・相模の三方からの攻撃に抗し得ないと見た勝頼小山田信茂の勧めに応じて、新府城に火を放って信茂の本拠である郡代岩殿城を目指した。

 だが、信茂もまた勝頼を裏切った。
 勝頼一族並びに主従は郡内への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)にて七日間逗留して信茂の迎えを待っていたが、三月九日夜に信茂は郡内への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門が人質であった信茂の一族を郡内へ退避させ、信茂勝頼一行に鉄砲を放ってこれを追ったと云う(『甲陽軍鑑』より)。
 長篠の戦いで最後の最後まで最前線で戦い続け、信長からの降伏勧告の書状を差し出してきたことで最後まで信頼していた小山田信茂までもが自分を裏切ったことに勝頼は愕然とし、もはや行く先も無い状態に絶望した。

 そして三月一一日、武田勝頼とその妻子は武田家所縁の天目山を死に場所と定めて自害し、甲斐源氏の名家・武田家は滅びた(武田崩れ)。
 それに前後して武田一門にも落命した者が相次いだが、「大人しく降伏すれば命と本領を安堵する。」と云う信忠の廻状を信じて反故にされた者が多かった。彼等が信忠の廻状に簡単に騙されたのには、その廻状内容を保障する旨が記された梅雪の添え状が存在したことが大きかった



裏切りの報い かくして武田家は滅亡し、そこには御家滅亡時の定番とも云える櫛の歯現象が見られた。
 つまり、武田勝頼を裏切ったのは一人や二人ではなかったのだが、上述した背景もあって、穴山梅雪木曾義昌小山田信茂のその後は結果的にも惨めさが際立った。

 数々の背信に勝頼とて指を咥えて見ていた訳ではなく、報復行動にも出んとしていた。
 まず木曾義昌の裏切りを知ると木曾攻めに向かわんとしたが、勝頼は新府城を出発する前の天正一〇(1582)年二月二日、木曾家の人質だった義昌の老母(七〇歳)、嫡男・千太郎(一三歳)、長女・岩姫(一七歳)が磔にされた………

そして勝頼自害の二週間後、織田・徳川勢により甲斐が平定された後、小山田信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から「古今未曽有の不忠者」との罵りを受けて処刑された
 一応、多少の弁護論を入れておくと、信茂自身は勝頼を裏切りつもりはなかったとの説もある。次々と国人衆が離反し、平氏が脱走し、当主の義兄弟である穴山梅雪木曾義昌までもが離反する中、小山田八左衛門を初めとする信茂の身内や家中までもがもはや武田家は終わりと見て、信茂の意に反してでも小山田家及び郡代を守る為に武田家からの離反・織田家への随身に向けて動き、信茂にもこの動きを止められなかったとするものである。
 だが、勝頼の厚い信頼を裏切ったことに変わりはなく、土壇場での裏切りでもあったことから信忠の信茂に対する心証は最悪で、裏切りの報いは即座に返って来ることとなった。


 それより早い内から織田・徳川に気脈を通じていた裏切り者は、織田・徳川から害されることはなかったが、だからと云って報いを受けなかった訳ではなかった。
 勝頼自害後、事前より信長・家康に内容していた穴山梅雪は約束通り本領安堵と武田家継承を許され、家康の与力とされた。
 梅雪は五月に信長への御礼言上のため家康に随行して上洛し、安土城にて信長に謁見し、家康と共に堺を遊覧していたが、六月二日に京都へ向かう途上で明智光秀の謀反と信長の横死(本能寺の変)を知った。
 堺見物の供回りは僅かで、明智軍に攻められては一溜りもなく、梅雪と家康は畿内を脱して領国への帰還に掛かったが、家康が伊賀越えで命からがら三河に帰り付いたのに対し、梅雪は落ち武者狩りの一団と遭遇し、斬り死にして最期を遂げた。
 尚、梅雪落命には家康による謀略説もあるが、薩摩守はこれを指示しない。信長の横死は家康にとっても寝耳に水で、家康自身少し運が悪ければ落命していてもおかしくなかった。そんな余裕の全くない家康に梅雪を嵌める余地があったとは思えない。
 また家康は武田家残党を厚遇しており、梅雪嫡男である穴山勝千代(武田信治)が当主となることを認め、。穴山衆は家康に臣従した。
 勝千代は天正一五(1587)年に夭折して穴山武田氏は断絶したが、家康は梅雪養女を五男に娶せ、元服に際して武田信吉と名乗らせて穴山武田氏を継承させたことからも家康が梅雪に悪意があったとは考え難い(ちなみに信吉は二一歳で嗣子なく夭折し、穴山武田家存続は成らなかったが、梅雪未亡人は家康・秀忠に信頼され、後に秀忠隠し子(保科正之)の養育を担った)。

 つまるところ、穴山梅雪自身は織田・徳川に臣従する武田一族として、信長・家康からはそれなりに遇されていたと見える。また梅雪に同情的な書では梅雪は滅びの道を歩む勝頼を止められないとして武田家存続の為に敢えて主家を見捨てて織田・徳川に従う道を取ったとしている。
 ただ、それらを考慮に入れても内通以前からも勝頼に冷淡だったことや、勝頼父子に対する裏切りに云い訳の余地が無いことからも、武田ファンからは蛇蝎の如く嫌われている。本能寺の変後に斬り死にしたことに、「家康の謀略」を囁く人々の中にも、真実か否かよりも「そうであって欲しい。」と思って膾炙している者達も多いことだろう。
 余談だが、武田信玄及びその一族郎党の実像に大きく迫った昭和六三(1988)年の大河ドラマ『武田信玄』に穴山梅雪は全く登場しなかった(元となった新田次郎の小説には登場している)。
 武田家臣の多くをカッコ良く描いた同作品に登場しない・させられないほど後世の武田贔屓を敵に回したことこそ、穴山梅雪に対する裏切りへの最大の報いではないか、と私見的に考えている。


 一方、梅雪同様、勝頼の義兄弟でありながら信長に寝返った木曾義昌だが、武田家滅亡後は、戦功として安曇・筑摩二郡一〇万石が加増され、深志城(後の松本城)に城代を置いて中堅大名に匹敵する勢力を獲得した。
 だが義昌もまた寝返った織田家の不幸−本能寺の変につられて混乱の渦中に陥った。梅雪も織田信忠も武田旧領を任された河尻秀隆も落命するとしなのは混迷を極め、義昌は北信濃の新領を放棄して美濃へと逃げる森長可(有名な森蘭丸の兄)の命を狙ったが、企みを長可に気付かれ、木曾福島城に押し入られ、子の岩松丸の身柄を拘束される体たらくだった。
 息子を人質に取られたこと義昌は止む無く遠山友忠を頼り、長可をよく思っていなかった将達が長可の撤退を邪魔しない様に説いて回る役目を振られた。
 同時に信濃では混乱を好機と見た深志城の旧主・小笠原氏の旧臣が越後国の上杉景勝の後援を受けて前信濃守護・小笠原長時の弟である洞雪斎を擁立し、義昌は深志城を奪われ、木曾への撤退を余儀なくされた。

 明智光秀が討たれて、本能寺の変に端を発した織田家の混乱が収まると、武田家の遺領を巡って景勝・家康・北条氏直が三つ巴の争いを繰り広げ、そんな中義昌は初め氏直に従っていたが、すぐに寝返って家康に通じて盟約を結び、再度安曇・筑摩両郡および木曽谷安堵の約定を得た。
 だが、天正一二(1584)年に家康が羽柴秀吉と対立し出すと義昌は盟約を反故にし、次子・義春を人質として秀吉に差し出して恭順するに至ったのだが、歴史の結果を知る我々はこれによって家康の心象が悪くなったことが後難を招くことが容易に想像出来るのだった。

 天正一八(1590)年に秀吉が北条氏を滅ぼして天下を統一すると家康に関東移封を命じた訳だが、義昌は皮肉にも秀吉から徳川附属を命ぜられ、下総阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)に一万石を与えられて木曾谷を追われた。
 結局、背信を繰り返した義昌は周囲から心を開いてもらえず、天下人に冷遇され続け、精神的にも経済的にも逼迫した義昌は、文禄四(1595)年に失意のままに享年五六歳で死去した。
 一応、後世に史跡公園と銅像が作られたことから、統治者として全く嫌われていたとは思わないが、ゴタゴタ人生が祟ったものか後を継いだ義利は叔父の上松義豊を殺害するなどの乱暴な振る舞いが祟って慶長五(1600)年に改易され、義昌の遺体は何故か水葬された。

 義利は浪人し、最終的な消息は不明。次子の義成は大坂の陣で豊臣方について戦死し、末子の義一は義昌が武田家から離反した際に義昌の下を離れ、木曾谷に隠棲していた母・真理姫(真龍院)を頼り、母子で隠者に等しい生活を送り、最終的には義昌の子孫は木曾家の親族であった千村氏・山村氏を頼り、美濃・尾張また江戸にて微禄を喰み、家格はともかく命脈は存続させた。
 皮肉にも実家を裏切った夫を見限った真龍院は心身を病んでもおかしくない隠遁生活にもかかわらず九八歳まで生きた。武田家に随身し続けていれば共に滅びた可能性が高く、織田・徳川・北条・豊臣に囲まれて翻弄された義昌の人生を振り返れば武田家を裏切ったことを殊更白眼視するつもりはないが、節操なさ過ぎたことが否めず、旧領も保てず生涯安定した心持に慣れなかったことが勝頼に対してのみならず裏切りを続けた義昌に対する報いと云えるのではなかろうか。


 薩摩守は、穴山梅雪木曾義昌小山田信茂も好き好んで武田勝頼を裏切ったとは思えないし(特に義昌は裏切りによって肉親を何人も殺されている)、勝頼 (及び信玄)に落ち度が無かったとも思わない。梅雪達以外にも勝頼に背を向けた一門、累代の臣、国人衆は少なくない(特に国人衆は)。
 そもそも戦国時代は多くの現代人が抱く江戸時代に確立した武士道的忠義を通すには過酷過ぎる時代で、我が身は元より一族郎党や庶流でも主家の命脈を保つ為には主君を裏切らざるを得なかったケースも少なくない。
 梅雪達だけを蛇蝎の如く忌み嫌ったり、不忠の権化の様に罵ったりするのは穏当とは云えないが、理由や状況が百歩譲って彼等が「武田家」に対して不忠者ではないと弁護出来たとしても、「武田勝頼」に対する不忠者との誹りは逃れようがなかろう。

 同じ裏切りにしても勝頼に対する離反のタイミングや切羽詰まった状況によってダークイメージの濃淡も大きく異なるだろうけれど、あれほど巨大だった武田家を結果的に裏切って滅亡に追いやったことが悪名を甚大にしていることが最大の報いかも知れない。


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令和三(2021)年九月二八日 最終更新