第捌頁 『本能寺の変』と明智光秀………戦国裏切り者の代名詞

裏切り発生事件本能寺の変
裏切った場所京都本能寺
裏切り年月日天正一〇(1582)年六月二日
裏切り者指名明智光秀(?〜天正一〇(1582)年六月一三日)
裏切り対象織田信長
裏切り要因諸説紛々でいまだ不明
悪質度
因果応報主君の仇討ちに引き返して来た羽柴軍に敗れ、敗走中に落ち武者狩りに死す。
裏切り者略歴 超有名人物につき省略(笑)。



裏切りとその背景 これは難しい…………。
 日本史上一、二を争う程知名度の高い裏切り事件である本能寺の変だが、「何故明智光秀織田信長を裏切ったのか?」と云う動機に関してはいまだに確固たる定説は出来ていない(恐らく万人が納得する定説は半永久的に出てこないと思われる)。

 従来囁かれていた日頃からの怨恨説や、徳川家康饗応役解任説や、野望説はその多くが後世(主に江戸時代)にて喧伝されたもので信憑性が疑われている(完全否定された訳でもないのが厄介だ)。
 また光秀は実行犯ではあるが、信長を害さんとして光秀を裏で糸引いた者がいるとする黒幕説もよく囁かれる。では、誰が黒幕なのか?に関しても、京と将軍位を追われたことを恨む足利義昭とする説、武士から権威を取り戻さんとする朝廷説、アジア進出中で日本植民地化を狙っていたイエズス会説、結果的に本能寺の変を契機に天下を取った羽柴秀吉説、嫡男切腹を密かに恨んで報復を狙っていた徳川家康説、と様々あるが、どれも決め手に欠け、黒幕など居ないと考える人も多い(現代でも何の動機もなく突発的に犯罪に手を染める輩は散見される)。
 勿論、これらの要因が幾つか重なった複雑なものであろうことも考えられる。

 それゆえ些か無責任だが、ここでは背景には触れず、事実だけを書かせて頂く。
 まず天正一〇(1582)年三月一一日に織田信長は徳川家康と共に長年の強敵武田家を滅ぼすことに成功した。天下統一に王手を掛けていた信長は柴田勝家に上杉景勝征伐を、滝川一益に北条氏政・氏直征伐を、丹羽長秀に長宗我部征伐を、羽柴秀吉に毛利征伐を命じて派し、自身は安土に、京にと多忙に走り回って武田遺領統治を初めとする戦後処理、対朝廷対応に追われる一方で五月に駿河一国を拝領された御礼言上に上洛した徳川家康を饗応し、自らは中国地方で苦戦して救援を求めて来た秀吉を後詰めする準備を勧めつつ、明智光秀にその先遣を命じた。
 つまり信長に先立って秀吉軍の援軍として中国地方に出陣することを命じられた訳だが、その為に一万三〇〇〇の兵を整えた光秀は六月一日に亀山城を発し、その直前か柴野付近の陣で重臣達に信長討伐の意を告げた。

 光秀は重臣達以外には機密を厳重にし、軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長様が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ。」として京都へ向かった。そして本能寺に向かう途中に遭遇した者は何者であれすべて殺害された………
 そして六月二日未明、光秀軍は京都の本能寺を急襲して包囲。一万三〇〇〇の兵に囲まれ、周囲から鉄砲を撃ち掛けられては近習一〇〇名足らずで投宿していた信長主従に逃れる術はなかった。
 旗印が光秀の家紋である桔梗紋で、「惟任日向守謀反!」と聞いた信長は有名な「是非に及ばず!」を叫び、得意の弓術で明智勢を次々射殺したがやがて弓弦は切れ、背中に矢を受けた信長は槍でもって一〇名余りを突き伏せたと云われる(←仮にすべてが雑兵相手だったとしても、炎に捲かれ、奇襲を受け、圧倒的不利な状況でこれだけの人数を倒したのは恐るべき腕前である)。

 だが、腕に鉄砲弾を受け、これ以上の抗戦も適わないと断じた信長は寺に火を放って自害。森蘭丸を初めとする側近・近習も信長自害迄の時間稼ぎの為に奮戦し、ある者は討死し、ある者は追い腹を切った。
 正に多勢に無勢で助かり様が無かったが、自害・放火の時間稼ぎは功を奏し、光秀に我が首を渡すまいとした信長最後の望みは達せられ、首を含むその遺体は遂に発見されなかった。

 ここで少し余談をば。
 小学生の頃、道場主は信長の首すら発見出来なくなる程混迷を極めた戦場でどうして信長最期の様子が克明に後世に伝わっているのかが激しく謎だった(今では信長に近侍していた女中達の証言を『信長公記』の作者・太田牛一が書き残したものであることを知っている)。
 寄せ手の大将が光秀と知った信長は自分の命運が尽きたことを悟った。と云うのも、光秀が一万を超える軍勢で一寺を包囲した以上、脱出を許すような手抜かりが光秀にはないと信長は断じていたゆえだった。
 その一方で、信長は「光秀は女子供を手に掛けるような男ではない。」として女中達に寺から逃げるよう促した。女中達は戦国の魔王が見せた最後の優しさに涙しながら寺外に脱出。果たせるかな、信長が推測した様に女中達は命を落とすことなく、信長の最期は彼女達から太田牛一に話され、後世に伝わっている。
 信長嫌いを広言して憚らない薩摩守だが、信長が自らの命が失われるトンデモ状況下で女中達を戦に巻き込むまいと配慮し、自分を裏切った光秀の人格を信じていたこの話は好きである。

 一方、光秀に手抜かりはないと信じていたことが裏目に出た者もいた。信長の嫡男・織田信忠である。父の危機を知った信忠はこれを救わんとして京都所司代・村井貞勝・貞成父子達と共に本能寺に駆け付けんとしたが、途中で明智軍の重囲に陥り、二条御所にて抗戦したがやはり衆寡敵せず、弟の勝長(信長五男)と共に刺し違えて自害した。
 この時、信忠も父同様に「光秀に手抜かりはあるまい。」と信じて脱出を諦めた訳だが、叔父の織田長益(有楽斎)は諦めずに脱出したところ、意外にも上手くいった(ただ、それがために一人命を永らえた有楽は世の人々から「臆病者」として悪し様に云われることに苦しんだが)。

 ともあれ、未明に始まった本能寺の変は昼頃には決着した。
 取り敢えず、「事実のみを書く」としましたが、それでも諸説あり、すべてが真実と保証出来ない事を白状しておきます(苦笑)。



裏切りの報い 書くまでもないことだが、明智光秀は「三日天下」と云われる程短い時間で「裏切り者」として山崎の戦いに敗れ、落ち延びんとしていたところを落ち武者狩りによって土民よって命を落とし、日本史上において一、二を争うほど有名な「裏切り者」との烙印を押されてしまった。

 首尾よく織田信長信忠父子を死に追いやった光秀だったが、信長の死を知った織田家中はその仇討ちに走った。
 光秀は京都を押さえ、残党追捕に移ったが、少人数で堺見物をしていた徳川家康には逃げられ、安土城に入って近江を抑えんとしたが、勢多城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて甲賀に退いたため、坂本城に入って近江を押さえられたのは六月四日のことだった。
 六月七日から九日に掛けて誠仁親王や吉田兼和を抱き込んで朝廷や寺社勢力を味方につけた。
 だが、光秀が頼りとした娘・珠(ガラシャ)の婿である細川忠興とその父・幽斎(←足利義昭に仕えていた頃からの仲である)は光秀への加担を断り、親子は信長への弔意を示すために髻を切り、神戸信孝(信長三男)に対して織田家に二心の無いことを示し、更に珠を幽閉して反光秀の意を鮮明に示した。
 また大和の筒井順慶も態度は明らかにせず、様子見の果てに羽柴秀吉に味方した。余談だが、順慶は秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力するかのような素振りも見せたりしていたので、このことから日和見が「洞ヶ峠を決め込む」と云われることの語源となったのは有名である(←民明書房風)。

 そして、先の将軍・足利義昭を保護している毛利を味方につけんとして使者を放ったが、その使者が羽柴軍に捕らえられたことで謀反は秀吉の知るところとなり、変から僅か一一日で戻ってきた羽柴軍二万七〇〇〇(中国征伐軍+池田恒興軍四〇〇〇、中川清秀軍二五〇〇、織田信孝・丹羽長秀・蜂屋頼隆軍八〇〇〇)と山崎にて戦うこととなった。
 この時点における明智軍は僅かに増えて一万七〇〇〇で、数的に不利だったが、天王山と淀川の間の狭い地域である山崎には兵は三〇〇〇程度しか展開出来ず、秀吉軍がにわか連合で、強行軍による疲労を抱えていることを考えれば必ずしも勝算の無い戦いだった訳ではなかった。
 しかし、秀吉軍は軍師・黒田官兵衛(如水)の作戦立案に従って要衝・天王山を占拠したことで地勢的・戦術的有利を握り、明智軍は敗れた(戦の経緯・両軍の軍勢には諸説あります)。

 前述した様に敗れた光秀は本拠地の坂本に落ち延びんとしたが、落ち武者狩りにあって落命(重傷を負って自害した説もある)。近江や勝竜寺城や安土城に逃れんとした光秀の一族や重臣達も自害したり、捕らえられて殺されたりし、光秀の謀反は終結した。
 尚、この直後の文章は食事しながら閲覧している方には見ないことをお勧めしたいが本能寺の変山崎の戦いが勃発した陰暦六月は真夏で、生首を含む遺体は即行で腐敗した。当然「光秀の首を持ってきました!」と云っても確かな判別は不可能に等しく、秀吉の下には「光秀の首」が三つも届いた。そしてそれらの首は身元を隠す意図でもあったのか、顔の皮が完全に剥がされていたらしい………(オエェェ……)
 それゆえ明智光秀は生き延び、徳川家康のブレーン・南光坊天海がその人であるとの伝説があるが、本作には関係ない話なので割愛する(この伝説に関する薩摩守の考察に興味のある方は過去作『生存伝説……判官贔屓が生むアナザー・ストーリー』を閲覧して下さい)。

 謎の多い明智光秀織田信長への謀反だが、光秀信長を死に追いやったことは確固たる史実である。また、どんな理由が有ったとしても光秀信長の引き立てで城持ち大名にまで出世したのは紛れもない事実で、その信長光秀が弑逆したことは、幾許かの同情が考慮出来たとしても「主殺し」と云う大罪者の汚名を免れ得ない。
 勿論羽柴秀吉を初めとする織田家家臣が仇討ちを行ったことも正当行為で、細川忠興が姻戚よりも忠義を重んじて光秀に味方しなかったことも大義に則った判断と云える。
 いずれにせよ織田信長と云う日本史上トップクラスに入る有名人に謀反した故、明智光秀が「裏切り者」の代名詞的に見られることは最大の報いと云えよう。ただ、信長が有名過ぎる故に光秀もまたその人格や境遇がそれなりに有名なため、まだ「裏切り者」にありがちな陰湿なイメージを持たれていないのは救いと云えるだろう(薩摩守も人としての光秀は割と好きである)。


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令和三(2021)年九月二八日 最終更新