第玖頁 『小田原征伐』と松田憲秀………家臣が主家を、子が父を

裏切り発生事件小田原征伐
裏切った場所相模国小田原城内
裏切り年月日天正一八(1590)年某月某日
裏切り者指名松田憲秀(?〜天正一八(1590)年七月一一日)
裏切り対象北条氏政・北条氏直
裏切り要因保身
悪質度
因果応報裏切りを息子に密告されて拘束。戦後、主家裏切りを罵られて、その咎で切腹に
裏切り者略歴 松田憲秀(まつだ のりひで)、北条氏の累代の家臣で、父は松田盛秀、母は北条為昌の娘(北条綱成の妹)であった。
 松田家は北条早雲以来の家老を務めて来たの家柄で、生年の不詳な憲秀だが、家老として仕え始めたのは北条氏康の代だった。
 内政や外交(主に千葉氏・里見氏などの諸勢力相手のもの)に手腕を発揮し、戦国最強の武田軍とも戦い、各地を転戦し、武人としても大きな働きを為していた。
 氏康死後は氏政に仕えたが、その頃には文書発給の際に印章を使用するなど、一国の大名に匹敵する格式を持っていた(余談だが、大河ドラマで北条氏康・氏政が出てくる際に近侍しているのはまずこの松田憲秀である)。

 だが、天正八(1590)年、関白豊臣秀吉と云うかつてない強敵が臣従を強要して来るとそれまでとは勝手が違った。



裏切りの背景 五代一〇〇年に渡って関東に覇を唱えた北条家中は決して馬鹿だった訳ではない、当たり前だが。
 既に四国の長宗我部や九州の島津まで屈服せしめ、毛利輝元・上杉景勝をも臣従せしめた豊臣秀吉が攻めてくればただでは済まないことぐらいは予見しており(実際そうなった訳だが)、好き好んで秀吉と戦おうと思った訳ではなかった。
 ただ、北条家中の多くが関東立国の覇業を捨て切れず、秀吉には逆らわず、従わずの路線を探った。

 実際、北条家中もタカ派とハト派で意見が分かれ、当初は硬軟両面に出た。
 つまり秀吉の臣従強要の第一歩である上洛命令に当主氏直(氏政はこの時点では隠居)の代理として叔父の氏規が上洛して関白の顔を立てる一方で、氏直の舅である徳川家康を通じて和を請いつつ、会津を奪取した伊達政宗と連携して抗戦する準備を整えたりもした。

 家康を舅に持つ当主氏直や、家康と旧知で穏健外交に優れていた氏規がハト派なら、先代の氏政とその弟・氏照はタカ派だった。加えて家老の中でも大道寺政繁、そして松田憲秀もタカ派で、憲秀は当初徹底抗戦を主張していた。

 やがて数々の努力も空しく豊臣秀吉は関東攻略を開始。三〇万を超える豊臣軍には姻戚で同盟を結んでいた家康も加わり、上杉景勝・前田利家・真田昌幸といった戦上手な大名達も顔を連ねていた。
 質・量ともに圧倒的優勢の豊臣軍に対して、北条側に勝因があるとすれば難攻不落の小田原城及び数々の戦いをしのいできた守備の強さや持久戦能力が挙げられる。
 小田原城は戦国時代切っての名将である上杉謙信・武田信玄にも落とすことが出来ず、兵糧も数年分の備蓄があり、戦が長引けば三〇万の大軍を擁する豊臣軍が先に兵糧不足に陥る可能性は高く、忠誠を誓って間もない大名が裏切ることもあり得たかも知れなかった。

 だが、秀吉は小田原城周辺の支城を次々と落とし、小田原城を包囲する様に城郭・陣地が日に日に堅牢なものとなり、何年でも包囲戦を続けられる様相を強める一方だった。
 そして裏切り者が出たのは豊臣軍ではなく、北条家の方、それもタカ派で徹底抗戦を主張していた筈の松田憲秀だった。

 人たらし男・豊臣秀吉は敵の内部に内応者を作る戦術に長けていた(仮に標的となった者が主家を裏切らずとも、主家から裏切り者と見做されて団結が瓦解するように仕向けることも多かった)。
 憲秀には秀吉の部将・堀秀政等から調略の手が伸び、憲秀は長男の笠原政晴とともに豊臣方に内応しようとした。

 徹底抗戦を主張していた筈の憲秀が豊臣方に内応したのは、私欲・保身の為ではなく、秀吉軍に抗し得ないと見た憲秀が相模・伊豆二ヶ国の所領安堵と城兵の助命を条件に和睦を打診していたという説がある。
 ただ問題だったのは憲秀がこの交渉を独断で行ったことにあった。当時の北条家での最高意志決定機関である小田原評定(←本来は悪い意味ではない)を経ず、一重臣が独断で交渉したのも問題ある行為だが、一度は徹底抗戦を主張した当事者だったことも許されざる行動と見られた。

 いずれにせよこの憲秀と政晴の背信を許さないとして告発した者がいた。
 憲秀の次男・直秀だった。直秀は父の背信を氏直に注進し、氏直は即座に憲秀を監禁し、政晴を処刑した。

 憲秀の内応は失敗に終わったが、累代の重臣が御家を裏切り、子が父を裏切るという事態は北条家中に大衝撃を与え、結局程なく北条氏直は自らの切腹と開城を条件に他の者の助命を請うて降伏した。



裏切りの報い この時代に限った話ではないが、主家を売らんとした者は即座に処刑されるのが相場で、一族の者が連座することも珍しくなかった。
 だが松田憲秀は監禁されたものの処刑されなかった。嫡男の政晴が即座に処刑されたことを鑑みると些か不可解だが、これは政晴がかなり内応に積極的だったことに対し、憲秀は様子見的な動きに終始しており、未遂だったことも大きいと見られている。

 ただ、未遂でも裏切り者は処刑されるのがこの時代の常である。
 憲秀が監禁されつつも処刑されなかったのは内通状況を訊問する目的があったが、充分な取り調べが行われない内に降伏が決定したからではないかと見られる。
 ともあれ、北条家降伏後の戦後処置にて憲秀は秀吉に北条家への不忠を咎められて切腹を命じられた。

 当主である氏直は自らの切腹と開城を引き換えに他の者の助命を請うたのだったが、秀吉はタカ派と見た北条氏政・氏照・大道寺政繁・松田憲秀に切腹を命じた。つまるところ(身も蓋も無い云い方になるが)内通に応じようと応じまいとタカ派と見做されていた憲秀に生き残る道は無かった。
 憲秀がタカ派と見られた自分が助かる為には内応するしかないと見たのか、主家が相模・伊豆の大名として生き残る為に泥を被る覚悟で独断交渉しつつ、松田家の為に直秀に自分の事を密告させたのか、その真意は今となっては謎だが、同時に切腹を命じられた四人の中で唯一人裏切り者の汚名を着せられた不名誉はかなり大きな報いと云える。
 北条家一〇〇年の歴史の中には裏切り者は希少なので、その不名誉振りはひときわ大きいと云えるだろう。

 一方、死を覚悟して降伏した北条氏直だったが、元々ハト派だったことに加えて舅・徳川家康の助命嘆願もあって命は助けられ、高野山域を命じられた(後に小大名に復帰)。
 氏直の高野山入りには、同じくハト派として家康能登の縁から除名された北条氏規が同行し、父・憲秀の内応を注進した松田直秀もこれに従っていた(直秀は氏直死後に父の名を一字取って「憲定」と改名し、豊臣秀次・前田利長に仕えて、前田家旗本として金沢で天寿を全うした)。


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令和三(2021)年九月二八日 最終更新