第参頁 島津義久………意外な仲介者
友情DATA参
名前 島津義久(しまづよしひさ) 生没年 天文二(1533)年二月九日〜慶長一六(1611)年一月二一日 身分 島津家当主、薩摩藩主 石田三成との交流期間 天正一七(1589)年頃〜慶長五(1600)年 友好要因 降伏仲介
概略 島津義久と石田三成の仲は「盟友」や「刎頸の友」や「無二の親友」となるには立場も違い過ぎ、距離も異なり過ぎた。
まして、精強な薩摩隼人を率い、敵に回した際の厄介度は戦国時代随一の島津家との交流は、良くも悪くも一筋縄でいくものではなかった。天下人・豊臣秀吉の寵臣とはいえ、五奉行四番目の三成が対等に親密に付き合うには距離も隔たり過ぎていた訳だが、秀吉とも徳川家康とも時に敵対しつつ、時に頭を下げつつ、決して天下を巡る対立をせずとも巧みに渡り合った義久と三成の交流は必見、と思い本作にカウントしたことをまずは申し上げておきたい。
島津義久は天文二(1533)年二月九日に島津家第一五代当主・島津貴久の嫡男に生まれ、次期当主として育てられた。殊に祖父・忠良からは「三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳自ら備わり」とされ、大いに期待された。
幼少時は大人しい性格だったが、逞しく成長し、天文二三(1554)年に二二歳で初陣を果たすと、義久と共に祖父から期待された有能且つ精悍な三人の弟(義弘・歳久・家久)とともに国人衆との戦いに身を投じ、永禄九(1566)年に元服して第一六代当主となった。
そして元亀元(1570)年に薩摩を統一し、天正元(1573)年に大隅を、天正四(1576)年に伊東義祐を日向から追って、祖父の期待した三州を統べる人物となった。
謂わば、南九州を支配した訳だが、この間中央では織田信長が室町幕府、浅井・朝倉、更には武田家を滅ぼし、信長自身は本能寺の変で横死するも、その後を巧みに受けた羽柴秀吉が畿内・東海・中部・中国・四国地方に揺ぎ無い勢力を築き、九州は徐々に時代の別天地で居られなくなっていた。
義久によって日向を追われた義祐は豊後の大友宗麟を頼り、それにも負けない義久だったが、ここに羽柴改め豊臣秀吉が関白として加勢して来ると、勝手は今までと大きく違い、義久も九州人以外と様々な対人関係を築くこととなった。
賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いを経て畿内・中国地方・四国地方を服従せしめ、関白となっていた豊臣秀吉は惣無事令を発令し、全国の諸大名に自分の許可を得ない私闘を禁じた。
これに対し、上杉景勝を初めとする多くの大名が関白の命令に従うことを誓ったことで戦国時代は急速に終息に向かった訳だが、すべての大名が進んでこれに従う程世の中は甘くなかった。
この流れに最後の最後まで抵抗したのは北条家だった訳だが、義久も発令当初これに従わず、天正一二(1584)年に肥前の龍造寺氏を、翌天正一三(1585)年に肥後の国人領主達を服属・和睦せしめ、義久の弟・義弘が肥後守護代となり、着々と九州統一を進めていた。
これに危機感を強めた大友宗麟が秀吉を頼り、改めて惣無事令に従うようにとの通達が義久に対して為された。島津家中で話し合った結果、義久はこれを黙殺することとし、戦い続けた。
結果、秀吉は既に傘下に収めていた毛利や長宗我部まで動員して天正一五(1587)年三月、九州に上陸した。
先遣隊である毛利軍や長宗我部軍には引けを取らなった義久も一〇万を超える秀吉本軍がやって来ると勝手が違い、まずそれまで島津家に服属していた国人領主が次々と豊臣方に寝返った。
さしもの義久も九州統一を断念し、三州だけでも死守せんとしたが、四月二七日には秀吉軍は薩摩にまで侵入した。余りの快進撃に義久の従兄弟達まであっさり降伏して城を明け渡す始末で、義久自身、和睦は充分に考えていて、秀吉からも高野山の僧侶・木食応其、将軍足利義昭の直臣・一色昭秀等が使者として講和を斡旋していた。
四月二一日の時点で義久は重臣の伊集院忠棟と平田増宗を人質として、豊臣秀長に和睦を申し入れた。だが、秀吉が求めたのは「和睦」ではなく、「降伏」で、さしもの義久もこれを受け入れざるを得なかった。
同月二八日、義久は平佐城で抵抗していた桂忠詮の元に書状を送り、義久が既に降伏しており、これ以上の抗戦は島津家への戦後処置が過酷なものになる怖れがあるため降伏するように、と説き、忠詮もこれに従った。
忠詮降伏の報せを受けた秀吉は五月三日には平佐城の川向かいにあたる川内の泰平寺に本陣を置き、義久は、五月六日に鹿児島を出発し、途中の伊集院(現・鹿児島県日置市)の雪窓院で剃髪し、名を「龍伯」と改めて出家してから翌八日、泰平寺の秀吉の元を訪れて正式に降伏した。
法体で降伏を申し出て来た義久に対して秀吉は、「一命を捨てて走り入ってきたので赦免する。」としてこれを受け入れた。
だが、この段階で確保されたのは、「島津義久の助命」と、「島津家の存続」のみで、義久と島津家中が長年戦い続けて得て来たものがどこまで守られるのか?は非常に難しい問題だった。実際、この後の秀吉による天下統一の過程で秀吉に降伏したことで命は助かっても、それまで得た領土を大きく失った者は枚挙に暇がない(例:伊達政宗)。
同時にこれは秀吉に取っても難しい問題だった。降伏した以上はある程度の保障を与えなければならないが、相手の力は削ぎたいが、余り苛斂誅求を課しては後々の服従は得られない。かくして、両者の間に慎重かつ緻密な交渉が持たれることになった訳だが、その取次ぎを行ったのが石田三成だった。
三成との日々 島津義久と石田三成の交流は、謂わば、降伏から始まった。
後世の歴史が証明する様に、島津家は決して武を捨てなかった。そんな島津家を完全服従させるのは誰に取っても容易ではなかった。豊臣秀吉が実際に義久を降伏させ、徳川家康が幕藩体制下に収めた様に、戦って勝つことや、薩摩一国に封じることは出来ても、完全に力を殺ごうと思えば殲滅戦となり、そうなると例え勝てても大きな痛手を被り、その後の天下を収めるのに支障を来す。
一方で島津家も薩摩・大隅を守ることは出来ても余り反骨し過ぎては(火山灰度のシラス台地故に)米の取れない薩摩で他国との交流無しの統治は厳しい(実際、七二万石ありながら、飢饉でもない年でも薩摩藩では餓死者が毎年出ていた)。
武を捨てない島津家に対して秀吉も警戒心を解かず、特に反抗的と見做された三弟・歳久は一時切腹を命じられ、後に急死したことには秀吉方による毒殺説が根強く囁かれている。また逸早く降伏した筆頭家老・伊集院忠棟が秀吉から厚遇されたことで島津家中は乱れた。
ともあれ、降伏後の折衝・取次は次弟・義弘と、三成がメインとなった。
三成は取次役を立派にこなした。
降伏した島津家では、義久に薩摩が、義弘に大隅が、久保(義弘の子)に日向の一部が安堵されるという寛大なものだった。
三成と義久の仲は良好なものに終始し、義久は取次役としての三成を深く信頼した。九州平定後、義久は秀吉の命によって上洛したが、その道中筑前・筥崎で催された秀吉の茶会に招かれた。
茶会後、義久が赤間ヶ関(現・山口県下関市)に到着したとき、三成は義久の到着を出迎え、人質として薩摩から海路で先に到着していた義久の娘・亀寿と引き合わせた。
そして義久が木食上人を案内役とし、瀬戸内海を舟で進んで和泉・堺へ到着したときも、堺代官でもあった三成は多くの小船を準備して義久の乗船を出迎え、丁重な接待に当った。これにより両者の中は益々親密なものとなった。
そして天正一六(1588)年、三成の取り成しによって義久は大坂城で秀吉に謁見。謁見後、義久には一万石の在京料が与えられ、滞京中に細川幽斎とともに何かと世話を焼き、帰国にも尽力したのも三成だった。
同年六月、義弘が上坂して秀吉に謁見した際にも、三成は義弘と度々会合を重ね、最終的に義久の帰国が許可された際に、人質であった亀寿の帰国も特例として認められた。これは当時の状況下では異例とも云える厚遇であり、三成の斡旋によるところが大きく、更には三成の父・正継も堺において島津一行を手厚くもてなしたという。
これには義久も深く恩を感じ、これに報いるため、三成と幽斎に対し起請文を提出し、豊臣家への忠誠を誓うとともに、両名への感謝と今後の関係維持を強く願った。
この起請文には、「逆心の輩が現れても決して与せず」、「不調法あらば幾度でも御指南を仰ぎたい」とまで記されていた。
秀吉が薨去した年である慶長三(1598)年には義久・三成の連署で、薩摩から大坂への米の輸送・販売や、台所方の物資調達・経理処理、領地の免目録の作成など、実務面における指示書が発給されたと云うから、三成は島津家の藩政においても重要な助言者・調整役として信頼を得ていたことが窺えるのであった。
そして秀吉が慶長三(1598)年八月一八日に薨去すると朝鮮出兵が終わり、敵地を得ることなく終わった戦にもかかわらず、朝鮮半島での奮闘が評価された島津家は五万石の加増を受けた。
翌慶長四(1599)年、直後、島津家中で秀吉の厚遇を受けていた伊集院忠棟を義久の養子・忠恒が斬殺するという事件が起きた(庄内の乱)。最終的にこれを収めたのは徳川家康だったが、事件に対して義久は三成に「知らなかった」と釈明している(一説には三成が義久の了解を得ていたとの説もある)。
友好の終焉 結果的に庄内の乱を巡るやり取りが石田三成と島津義久の最後の交流となった。乱の翌年、関ヶ原の戦いが勃発したが、島津家は義弘が手元の一八〇〇で西軍方として従軍したのみで、これは従軍諸大名の中でもかなり少ない方だった。
義弘は義久に増援を求めたが、庄内の乱後の混乱が止まない薩摩から兵を送ることは出来ず、義久と忠恒は薩摩を動けなかった。
関ヶ原の戦いにおける島津家の立ち位置には複雑なものがあった。
上述した様に三成と昵懇だった義久だったが、徳川家康とも親しかった。家康自身、島津一族には関心が高く、庄内の乱を穏便・寛大に済ませたのも島津家との交流と無縁ではなかっただろう。割と有名な話だが、三成が家康追討の兵を挙げた際、まず家康の重臣・鳥居元忠が籠る伏見城が攻められたが、当初義弘と豊久(歳久の子)が加勢を申し出たが、元忠がこれを断ったと云われている。
実際に元忠の立場に立てば、島津勢を城内に入れたか否かなかなか難しいものがある(加勢の振りをして入城したところを攻められることも考えられる)。ただ、こうなっては義弘・豊久は状況的にも西軍に加担せざるを得なかったし、従前の三成との島津家との交流からも西軍についたのは全く自然な流れでもあった。
そして九月一五日の決戦において島津勢はなかなか動かなかった。一八〇〇の寡兵では簡単に動けなかったということもあると思うが、三成からの督戦の使者が下馬せずに命令したことに腹を立てたとも云われている。
そして島津勢がようやくにして動いたのは小早川勢の寝返りで西軍敗北が確定してからで、有名な敵中突破が敢行されたが、豊久を初め多くの将兵が殿軍戦にて落命し、戦場離脱に成功したのは義弘を含む八〇余名のみだった。
こうなると島津家中は三成との友情どころではなくなった。
東軍大勝利を受けて九州だけでも加藤清正・黒田官兵衛と云った猛将・智将が何時攻めてきてもおかしくなく、実際に徳川秀忠を総大将とした島津攻めの計略もあったと云われている。だが、難しい戦後処理を抱えた状態で島津と事を構えることを家康は良しとせず、島津攻めは見送られた。
義久と義弘は家康に謝罪の使者を送る一方で、国元では何時戦になっても対処出来るように武備を固めた。そんな硬軟両面の交渉を二年間続けた結果、島津家は西軍従軍大名の中で唯一とも云える本領安堵を勝ち取った。
こうなると義久も義弘も、三成生前の交流に想う所はあっても、まずは自国の存続が第一だった事だろう。義久自身は慶長一六(1611)年一月二一日に享年七九歳で没し、後は養子・忠恒(義弘三男で、娘・亀寿の婿)が継いだが、その後の島津家は徳川家に在って油断ならない大藩でありながら、一目置かれる雄藩としても幕末まで存続した。
余談だが、小学生の頃、小学館の『日本の歴史』第12巻で、大坂の陣に際し、大名クラスが誰一人加勢してくれなかったことに対し、淀殿が「福島も島津も味方してくれないのか?」と憤るシーンがあり、「秀吉子飼いの福島正則はともかく、外様の島津の名前が出るか?」と思った記憶があるが、三成と義久の昵懇さの記憶から名前が出たと見るのは深読みだろうか?(笑)
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令和八(2026)年九月六日 最終更新