第肆頁 佐竹義宣………襲撃から救ってくれた恩人
友情DATA肆
名前 佐竹義宣(さたけよしのぶ) 生没年 元亀元(1570)年七月一六日〜寛永一〇(1633)年一月二五日 身分 佐竹氏一九代当主、出羽久保田藩初代藩主、従四位上、左近衛中将、右京大夫。 石田三成との交流期間 天正一八(1590)年頃〜慶長五(1600)年 友好要因 臣従仲介
概略 元亀元(1570)年七月一六日、「鬼佐竹」と呼ばれた猛将・佐竹義重を父に、伊達晴宗の娘を母に嫡男として生まれた(つまり、伊達政宗は血の繋がった実の従兄である)。
天正一三(1585)年四月または翌天正一四(1586)年四月の壬生氏攻めで初陣を飾ったとされ、 天正一四(1586)年〜天正一八(1590)年の間に父・義重の隠居によって家督を相続したとされている。
この間、佐竹家は、相模の北条氏と和議を結んで南方を抑え、北方では伊達政宗と対立していた(黒川城主・蘆名義広は実弟)。そしてこの頃から天下人の道を着実に歩んでいた豊臣秀吉と音信を通じ、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいた。
天正一七(1589)年一一月二八日、佐竹義宣は秀吉から小田原征伐への出陣命令を受けたが、政宗と対峙中だったため、即時従うことは出来なかったが、その政宗の例からも有名な様に、このときの秀吉の召喚に応じないことは自身や御家の命運を左右した。
そこで義宣は秀吉自らが京を出立したという知らせを受けた段階で参陣を決意し、天正一八(1590)年五月に一万余の軍勢を率いて小田原へ向かい、同月二七日、秀吉に謁見して正式に臣従した。
臣従を認められた義宣はそのまま小田原征伐に従軍し、同年六月に三成の指揮下に忍城攻めに加わり、水攻めの際の堤防構築に従事。ここに豊臣傘下の有力大名にして、石田三成との友情の日々が始まった。
三成との日々 北条氏とは対照的に、関東諸豪族の中にあって早期に豊臣秀吉に従ったことで、佐竹義宣は外様でありながら厚遇され、小田原征伐後に、伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)を秀吉から知行として認められ、常陸の本領と下野の一部、計二一万石を安堵された。
この内、義宣に宛がわれたのは一一万石で、 残りは父・義重、他の一族、従兄である宇都宮国綱を初めとする与力大名の取り分で、当初義宣の領主権力は貧弱だった。家臣の中には、秀吉に服従せずに独立を認められなかった勢力が佐竹氏の配下として編入された者達が含まれ、当然その忠誠度は高いとは云えないものだった。
それでも義宣は小田原征伐以前から伝手としていた石田三成と昵懇だったことで徐々に領主権力の強化を進め、徳川・前田・島津・毛利・上杉氏と並んで「豊臣政権の六大将」と呼ばれるまでになった。
三成と懇意であったことの影響は大きく、義宣は天正一八(1590)年一二月二三日も秀吉の執奏で従四位下の位を賜り、侍従・右京大夫に補任され、翌天正一九(1591)年一月二日には、羽柴姓が与えられた。
同年三月二一日、常陸での領主権力を盤石化した義宣は水戸城に移り、水戸城の整備拡張を進め、本拠地の地固めに専念。一方で秀吉からは奥州出兵・朝鮮出兵等の重い軍役も課された。
五〇〇〇の兵を率いて肥前名護屋に在陣した義宣は、途中三成の取り成しで軍役人員を三〇〇〇人に軽んぜられ、文禄二(1593)年五月に下された渡海命令も、六月一三日に先陣の佐竹義久が一四四〇人を率いて名護屋を出航しただけで、七月七日に渡海を見合わせるよう通達があり、結局義宣が朝鮮に渡ることはなかった。
自身は渡海しなかったが、朝鮮半島にて加藤清正同様築城技術を持ち帰れたようで、これを活用して水戸城の普請を進め、文禄三(1594)年一月には秀吉から伏見城の普請を命じられ、伏見城竣工後、伏見城下に屋敷を与えられた。
これらの手柄で佐竹家の石高は五四万石に達し、義宣自身の取り分だけでも二五万石となった。 たが、重い軍役にも見られるように、佐竹家の豊臣政権下における日々は決して安泰なものではなかった。慶長二(1597)年一〇月、義宣の従兄で、与力大名でもあった宇都宮国綱が改易された。
身内であることから、これに伴って佐竹氏も何らかの処分を受ける可能性があったが、結果的に義宣に累は及ばず、これには三成の取りなしがあった。一〇月七日に義宣から義重に宛てた書状には、佐竹氏にも改易命令が出されたが三成の取りなしによって免れたことや、上洛して早期に秀吉に挨拶するのに際し、宇都宮氏改易を主導した浅野長政の検使が宇都宮領の調査に向かっているのに覚られないように密かに行うようにという助言を三成から受けたことが書かれていた。
さすがに度々の恩恵を受けて何も感じなければ佐竹義宣は男ではない、となるのだが、勿論なことはなかった(笑)。
慶長三(1598)年八月一八日に豊臣秀吉が薨去すると、豊臣家中が諍いを初め、当初これを抑えていた前田利家も慶長四(1599)年閏三月三日に逝去すると即座に加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田輝政が三成の屋敷を襲撃した(七将襲撃事件)。
この知らせを受けた義宣は三成を女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃れさせ、後に三成は家康の元に逃げ込んだ。
義宣の茶の湯の師匠でもあった古田重然は徳川家康に釈明するよう勧めた。これに対し義宣は「三成は公命に背いたこともないのに、加藤清正らは三成を討とうとした。自分はかつて三成に恩を受けたから、三成の危急を見て命にかけて救っただけである。このことを家康に謝罪すべきというなら、御辺よきにはかられよ。」と度正論を述べた。つまり、「三成に討たれる様な公的な落ち度はなく、清正等の襲撃こそ不当で、それを謝れと云うなら、アンタがやれ。」と織部に云ってのけた訳である。
ともあれ、これを受けて織部は忠興に取りなしを依頼。家康は忠興からこの話を聞き、「義宣身命にかけて旧恩に報いたのは、義と言うべきである。異存はない。」と答えた。
ちなみにこの有名な美談、Wikipediaに「実際に義宣が三成の窮地を救ったことを裏付ける一次史料は存在しない。」とある様に、実話で無いとする説がある。
確かに一次史料にないことは「史実」とは断言出来ないのが学術的な正論なのだろう。昨今、一次史料にないことで有名な話や、美談が「最近の研究では……。」という枕詞(?)でさも、作り話・嘘・捏造の様に囁かれる傾向には辟易するものを感じている。
勿論、だからと云って、史実か否かはっきりしないものを否定するなとは云えないが、仮に史実と断定出来ずとも、作り話だったとしても、そんな作り話が実しやかに囁かれ、長く浸透していた歴史的素地は無視すべきでは無いと思う。
義宣が三成を七将襲撃事件から救ったのが史実では無かったにしても、三成が襲撃を受け、家康の元に逃れ、事件を家康が裁き、三成が公的に五奉行の職を説かれ、佐和山への隠居を命じられたのは史実で、「そんな大事件が起きれば義宣が助けたに違いない。」とされ、それが容易く受け入れられること自体は直視すべき、と薩摩守は考える。
友好の終焉 慶長五(1600)年五月三日、五大老筆頭・徳川家康は上洛命令に従わない会津の上杉景勝を征伐の為、東国の諸大名を京都に招集。佐竹義宣もこれに応じ同月中旬、京都に到着した。
六月六日、招集された諸大名の進撃路が発表され、義宣は仙道口を任されることとなり水戸へ帰り、以後、義宣と石田三成が顔を合わせることはなかった。
七月二四日、下野小山に到着した家康は水戸にいた義宣に使者を派遣し、上杉討伐を改めて命じ、人質を上洛させるよう要求したが、義宣は会津征伐が豊臣秀頼に代わって実施されるものであり、秀頼に逆らう意志はないことから新たな人質を出す必要は無いとしてこの要求を断った。
これにより家康は義宣を警戒するようになった。実際、この時期、佐竹家中で意見が分かれており、東軍につくとも西軍につくとも云えない状態にあった。
ともあれ、八月二五日、義宣は突如として水戸城へ引き上げ、家康に対し重臣・小貫頼久を使者として派遣し、水戸城へ帰った理由を釈明させた。
家中では隠居の父・義重を初め、東軍への加担を強く主張する者も多く、その動きに抗し切れなかった義宣は上田城に拠る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として三〇〇騎を送ったが、それ以上には積極的に家康に味方しなかった。
周知の通り、関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、義重が直ちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、更に上洛して家康に不戦を謝罪した。この処置に対して秀忠からの礼状は届いたが、家康の意向は不明で、義宣は水戸城を動かずそのまま二年が経過した。
既に三成は刑死し、上杉・島津氏の処分も決定し、処分が済んでいないのは義宣のみとなった。事のここに至って、義重の説得により慶長七(1602)年四月に上洛し、ようやく家康に謝罪した。
途中、義宣は相模で秀忠と会い、陳謝し、伏見にて家康に対し謝罪及び家名存続の懇願をした。同年五月八日、義宣は家康から国替えの命令を受け、転封先は五月一七日に出羽秋田に決定し、五四万石から二〇万石への減転封となった(不戦により兵力を温存していたことが改易を免れさせたとも、遠隔地への左遷になったともされている)。
以後の義宣は徳川幕府傘下の外様大名としての新領地の経営に専念。慶長八(1603)年五月から築城を始めた久保田城を本城とし、家柄や旧例に捉われず、旧家臣及び関東・奥州の旧大名の遺臣達を能力本位で登用し、積極的に開墾を進めて家中の建て直しに尽くした(これにより久保田藩の実収は四五万石にも上ったと云われている)。
実力本位の人材登用から譜代の老臣達の反感を買い、御家騒動も起きかけ、家老の川井忠遠等を粛清せざるを得なかった時もあったが、大坂冬の陣では玉造口にて上杉景勝とともに木村重成及び後藤基次が率いる軍勢と激闘を繰り広げたことから幕府の好印象を得るのに成功した(大坂冬の陣において感状を受けたのは僅か一二名で、内五名を佐竹家中が占めた!)。
翌大坂夏の陣で豊臣家が滅び、徳川の天下が盤石化すると、鷹狩を趣味としていた義宣は度々将軍徳川秀忠に鷹を献上し、外様ながら幕閣の心証を良くし続け、元和九(1623)年に本多正純が改易に処せられた際は、翌寛永元(1624)年に、正純・正勝父子の身柄を預かった。
義宣は本多父子を丁重に遇したが、寛永三(1626)年四月、幕府上使から正純の警備を一層厳しくするよう命じた大御所・秀忠の意向が伝えられ、義宣は番屋の整備と監視の強化を指示し、警備にあたる侍・小者の人数を申告させるとともに、関東からの人や荷物の出入りを禁止した(これに対して幕府は正純警備を担当する負担を考慮して佐竹家に課された軍役の内二万石分を免除した)。
一方で、義宣は土井利勝を取次とする以前には正純を頼っていたので、正純が横手に閉居した後も、義宣は八朔と歳暮の音信を欠かさなかった。とはいえ、本多家との旧交を保ちつつも、幕府に対しては正純を厳重に警備していることを示す必要があり、義宣が鷹狩の季節を外れて仙北方面へ度々渡野したことについて、正純の警備を怠っていないことを内外に示す意味があったとも云われている。
寛永一〇(1633)年一月二五日、江戸神田屋敷で逝去。佐竹義宣享年六四歳。家督は甥の義隆が継いだ。
歴史の結果として、徳川家が豊臣家を下し、義宣は外様ながら幕府への恭順の意を示しつつも、失脚した本多家との交流を軽視しなかった。その義宣の在り様を見ると、豊臣家の天下が存続した際に義宣を三成の交流と、それに伴う佐竹家の待遇がどう変遷したかを興味深く思うのは薩摩守だけではないだろう。
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令和八(2026)年九月一六日 最終更新