第伍頁 直江兼続………似た者同士の「成り上がり者」
友情DATA伍
名前 直江兼続(なおえかねつぐ) 生没年 永禄三(1560)年〜元和五(1619)年一二月一九日 身分 上杉家家老 石田三成との交流期間 天正一四(1586)年頃〜慶長五(1600)年 友好要因 似た者同士
概略 前田慶次郎利益を主人公とした隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』及びそれを漫画家化した『花の慶次−雲の彼方に』のヒットで、慶次の莫逆盟友であることから一躍知名度を上げ、後に大河ドラマの主役にまでのし上がったのが直江山城守兼続である。
知名度が高い割には幼少期に関しては謎が多く、通説では永禄三(1560)年に樋口兼豊を父に、越後上田庄(現・新潟県南魚沼市)に生まれたとされている。初名は与六。母親に関しては上杉氏重臣・直江景綱の妹とする説と、信州の豪族・泉重歳の娘とする説と、これまた諸説紛々である。
幼くして、上田長尾氏当主の長尾政景の子・顕景(後の景勝)に小姓・近習として仕え、政景が永禄七(1564)年に死去すると、顕景と共にその養父となっていた上杉輝虎(謙信)の居城・春日山城に入った。
天正六(1578)年、上杉謙信が急死すると後継者争い・御館の乱が勃発。周知の通り、乱は顕景改め景勝の勝利に終わり、その戦後処理が行われる天正八(1580)年頃から、景勝への取次役など側近としての活動が史料で確認され始める。
天正九(1581)年に、景勝側近の直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起き、与六は景勝の命により、信綱の妻・船を娶り、直江家の後継者・直江兼続となった。
船は上杉家重臣・直江信綱の娘で、信綱を婿養子としていたが、信綱が殺害されたことで、兼続と再婚し、直江家の名跡を守る形となった。これにより兼続は越後与板城主となったと共に、狩野秀治とともに上杉家の執政となった。
天正一〇(1582)年三月一一日、景勝と同盟を結んでいた武田勝頼一族が天目山の戦いに滅ぶと、武田遺領には織田家臣が配置され、更には北陸道を織田家一の猛将・柴田勝家率いる軍が攻め寄せ、上杉家は織田家との死闘を展開した。
さすがに勝家率いる織田軍は強く、越中魚津城が六月三日に落とされたが、その前日に中央にて本能寺の変が勃発し、織田信長が横死ししたことで柴田軍が急遽退却。上杉家は窮地を脱した。
織田家の混乱を受けて武田遺領は無主状態となり、遺領を巡る諍いが勃発(天正壬午の乱)。景勝は武田方に帰属していた北信濃の国人衆や武田遺臣を庇護し、北信濃の武田遺領を接収し、兼続は信濃国人衆との取次を務め帰参の窓口を務めた。
天正一二(1584)年末、狩野秀治が病に倒れ、兼続は内政・外交の取次の殆どを担うようになり、上杉家の家老にして、景勝の片腕と化した(当時の上杉家臣達は景勝を「殿」、「上様」と呼ぶ一方で、兼続を「旦那」と敬称した)。
天正一四(1586)年六月二二日、景勝が従四位下・左近衛権少将に叙任されると、それに伴って兼続も従五位下に叙せられた。
やがて信長の事実上の後継者となった羽柴秀吉が朝廷から関白に任じられ、豊臣秀吉となると、景勝は関白の元に発令された惣無事令(私闘禁止令)に従って秀吉に臣従。兼続も天正一六(1586)年八月一七日に景勝に従って上洛した。そして臣従の取次を務め、知己を得たのが石田三成だった。
三成との日々 豊臣秀吉は臣従してきた上杉景勝・直江兼続主従を大いに気に入って歓待し、兼続に対しては豊臣姓を許し、一説には三〇万石を与えて直臣にせんとしたとも云われているが、当然兼続はこれを断り、上杉家の家老であり続けた。
そんな一連の流れにおいて、兼続と交流を深めたのが、上述した通り、石田三成だった。
三成は天正一一(1583)年の賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破った直後より兼続と狩野秀治に書状を送り、秀吉との提携を求めた。景勝もこれに応じ大石綱元を派遣し、三成を通じて秀吉に戦勝の祝意を伝えるとともに、和睦の意を表した。
兼続はこのとき、三成の斡旋に対する謝礼として馬一匹と白布五〇端を贈っている。その後も三成は両家の調整役を務め、景勝上洛時に三成は金沢まで出迎えた。このような関係を通じて、三成と兼続は勿論、上杉家との間にも早くから親密な信頼関係が築かれていた。
三成の役職柄、彼が諸大名と親密なる契機は数多くあった。だが、秀吉への忠義一徹の三成が個人的に必要以上に仲良くした例は余りない。にもかかわらず、 兼続と三成は、両者の経歴、立場から似た者同士だったことで意気投合した。恐らく普通に馬が合ったのだろう。
共に幼くしてまだ軽輩の身だった主君に仕え始め、共に主君の寵愛を得て出世したことで時に周囲に妬みを買い、共に渉外・取次を担ったことで、顔を合わすことも多く、同じ境遇にあったことで何かと気が合い、交流を深めることとなった。
秀吉への臣従後、兼続は三成を介して豊臣家に従いつつ、上杉家家老として多忙の日々を送り、天正一七(1589)年の佐渡征伐、翌天正一八(1590)年の小田原征伐に活躍。天下統一後も朝鮮出兵においては景勝と共に渡海して熊川倭城を築城。内政でも景勝が五大老の一人になるに伴って会津一二〇万石に移封されたことで上杉領となった庄内地方において大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切った。
その会津転封に際し、秀吉は三成を現地に派遣し、兼続と連携して事務処理を進めさせた。会津は蒲生家の改易騒動の直後でもあり、東北諸豪族の動きを抑える意味で、秀吉に取っても重要な地だった。
会津には、三成と兼続の連署による掟書が残されており、主君の異なる二人の名が並んで発せられた文書は、当時としては極めて珍しい例で、両者が強い信頼関係のもとで緊密に協力していたことを示す史料とされている。
だが、慶長三(1598)年八月一八日に秀吉が薨去し、徳川家康が台頭するようになると、三成の境遇が大きく変わり、兼続との友情の日々も、例によって三成自身の破滅と共に終焉に向かった。
要するに関ヶ原の戦いによる三成の破滅が両者の交流を終わらせた訳だが、三成斜陽の始まりとなった七将襲撃事件直後の慶長四(1599)年八月、佐和山に蟄居していた三成は次女の小石殿を会津に帰国する兼続に託し、後に小石殿は兼続の斡旋で上杉家家臣・岡重政(元蒲生氏郷小姓)に嫁いだ。
「遺児を託す」という言葉がある。自分が死ぬときに残された子を託すことが出来るのが本当の親友だと云う。恐らく五奉行失脚時に三成には自らが滅びの運命を迎えることに対する懸念も覚悟もあったのだろう。そんな折に娘を託したことからも兼続との友情の強さが計り知れるというものである(←ここで豊臣秀吉から秀頼を託された徳川家康が後に何をしたかを思い出してはいけない(苦笑))。
友好の終焉 本作の主旨上何度も触れたが、豊臣秀吉・前田利家の相次ぐ死を受けて、豊臣家中に多くの敵を作っていた石田三成は慶長四(1599)年に七将襲撃事件を受けて失脚し、五奉行の任を解かれ、佐和山城にての謹慎を命じられた。
一方上杉景勝・直江兼続主従は、新領となった会津の町を開発することに尽力していたが、旧領の越後に国替え引継ぎにて半分残していかなければならない年貢を、景勝にも無断ですべて会津へ持ち出していたことで、年貢を持ち逃げされたと憤る越後の後任領主であった堀秀治から返還を求められたが、兼続はこれを無視したことで、堀は「上杉家は謀反を企んでいる。」と徳川家康に訴えた。
これを受けた家康は上杉家を詰問。この詰問に対して、兼続の返した書面が、家康を激怒させ、会津征伐を決意させた、所謂、「直江状」が歴史に名高いが、これもまた「最近の研究」とやらで、「偽書」、「後世に大幅に改竄された」等の声が方々で挙がっている(←それこそ「最近」、こんなのばかりで嫌になる…………)。
個人的な愚痴はさて置き、兼続の書状が家康を激怒させたのは間違いなく、上杉家中には家康の命令に応じて上洛し、釈明するべきとの声もあったが、讒言の真偽究明が拒否されたため、景勝は上洛拒否を決断。
このことが、会津征伐に端を発する関ヶ原の戦いに繋がったことは周知だが、家康に対する挑発的とも云える景勝・兼続の言動が、家康を会津に誘き出し、その背後から三成が挙兵して挟撃せんとする、兼続と三成による戦略だったとする説は古くから巷間にて囁かれていた。
謀略故、どこまで史実なのか測り難いが、そういう説が出てもおかしくない程、兼続と三成の仲が昵懇であったことが当時から有名だった証左と云えよう。
兼続は旧領・越後で一揆を画策するなど家康率いる東軍を迎撃する戦略を練っていたが、三成挙兵報を受けた家康率いる東軍の主力は上杉攻めを中止。その後、一揆勢と交戦していた堀秀治の率いた軍が撤退し、東軍に所属する前田利長を攻撃する構えを見せ、三成から「堀秀治が西軍側についた。」という知らせを受けた事で、兼続は一揆勢力に攻撃の中止を命令して東軍の最上義光の領地である山形に総大将として三万人を率いて侵攻した。
しかし、これは秀治の策略で、利長に攻撃を仕掛けるよう見せかけていた秀治は、東軍への参戦を明白にしてすぐさま越後の一揆勢への攻撃を再開。事態に気付いた兼続は、再び一揆勢を扇動しようとするも間に合わず、秀治率いる部隊によって、一揆勢は壊滅する事になってしまった。
本拠の会津でも、上杉と最上は庄内地方を巡って激しく争った経緯もあり(上杉家から見ると自領は最上領により分断されており、最上家から見ると自領が上杉領に囲まれていた)、両氏は元々仲が悪かった。
細かい経緯は抜きにして、東軍諸勢力の大半が家康と共に西上したことで、上杉勢は最上義光、伊達政宗、結城秀康等と対峙する中、主に最上勢との激闘を展開する事となった。
だが、九月二九日、二週間前の時点で関ヶ原の戦いにて西軍が大敗したとの報がもたらされ、上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した(長谷堂城の戦い)。
勢いに乗った最上軍と義光救援のために伊達政宗が援軍として派遣した留守政景(政宗叔父)軍が猛追撃してきた。東軍勝報を得て勢い挙がる最上勢の追撃において兼続は前田慶次郎等と共に決死の殿軍を展開し、米沢への撤退に成功したが、この撤退戦の見事さは語り草となり、義光や家康にも称賛された。
事ここに至って景勝は家康への降伏を決意。既に石田三成は亡く、後は徹底的に徳川家に忠誠を尽くすしか道は無かった。
慶長六(1601)年七月、兼続も景勝と共に上洛し、上杉家は改易を免れたものの、会津一二〇万石から米沢三〇万石への大減封となった。この三〇万石とは、皮肉にも豊臣秀吉が兼続を直臣にせんとした際に提示した石高に等しかったと云う。
その後も兼続は景勝の片腕として財政立て直しに尽力し、元和五(1619)年一二月一九日に江戸上杉屋敷にて没した。直江兼続享年六〇歳。
その後も上杉家の財政難は続き、ようやく立て直されたのは第九代藩主・上杉治憲(鷹山)のときだった。そしてその間、上杉家中では、上杉家の家格を(結果的に)大きく落とした兼続を半ば君側の奸の様に見る風潮もあったが、それを払拭したのも治憲だった。
もしかしたら、兼続もまた江戸時代中期まで、昭和時代の三成の様なイメージで見られていたのだろうか?もしそうでも、この二人なら互いに顔を見合わせて笑って良そうな気がするが。
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令和八(2026)年一〇月一日 最終更新