第陸頁 大谷吉継………説明不要な程の友情
友情DATA陸
名前 大谷吉継(おおたによしつぐ) 生没年 永禄八(1565)年〜慶長五(1600)年九月一五日 身分 越前敦賀城主、刑部少輔 石田三成との交流期間 天正元(1573)年頃〜慶長五(1600)年 友好要因 同僚
概略 出自についてははっきりしないが、近江浅井氏の家臣・大谷吉房の子に生まれ、母の東殿は羽柴秀吉の母・なか(後の大政所)、または正室・おね(後の北政所)の縁者とも云われており、浅井氏を滅ぼした後に近江長浜城主となった秀吉に小姓として仕えた。幼名は紀之介。
小姓の次は馬廻を務め、中国毛利攻めを皮切りに秀吉の軍役に従事し、天正一四(1586)年七月一一日、秀吉が関白に就任した際に吉継も従五位下・刑部少輔に叙され、一般に「大谷刑部」と呼ばれるようになった。
豊臣秀吉の天下統一過程にあっては主に兵站や検地と云った実務での活躍が多かったが、天下統一の前年に越前敦賀二万石の領主となり、天下が統一されると五万石に加増された。
天下統一後に行われた朝鮮出兵では主に船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配を担い、文禄の役と慶長の役の間に行われた講和交渉に際しては石田三成、増田長盛共に明の使者を連れて一時帰国したこともあった。
だが、慶長三(1598)年八月一八日に秀吉が薨去したことで朝鮮出兵は終結。秀吉の遺言によって五大老筆頭の徳川家康が政務を担うと、家康は秀吉の遺命を無視するかのような言動が目立ち出した(例:六男・松平忠輝と伊達政宗息女との許可を得ない婚約)。
これに対して五大老次席の前田利家と他の三大老・五奉行との間がきな臭くなったが、この時家康を警護する形で間に入って両者を宥めるのに尽力したのも吉継だった。
慶長五(1600)年、上洛命令に従わない会津の上杉景勝を討伐せんとして家康が征討の軍を起こすと吉継もこれに従軍。吉継と家康の仲は決して悪くなく、家康との昵懇に努めていれば、歴史の結果として天下を取った徳川の世で中堅クラス以上の大名として御家を存続させることは充分考えられた。
だが、吉継は出世よりも友情を取ったのだった。
三成との日々 石田三成と誰かの友情を語るのにこの大谷吉継をスルーしたら、歴史ファンから「やる気あるのか?」って、絶対云われるだろうな(苦笑)。というぐらい、「三成の親友」と聞いて真っ先にこの名が浮かぶのが吉継である。
薩摩守自身、拙房立ち上げ間もない時期に『菜根版名誉挽回して見ませんか?』で、そして後にも『刎頸の友』にて吉継と三成の友情に関しては採り上げている。書き尽くした感や、過去の繰り返しになってしまう感もあるが(苦笑)、本作は本作として三成との友情を語りたい。
まず両者の友情の始まりは、「同郷」と「同役」であったことが多い。
豊臣秀吉が羽柴筑前守秀吉を名乗り、近江長浜にて城持ちの身となったとき、秀吉は如何には様々な出自の者がいたが、その中で吉継と三成は長浜周辺の出身で、所謂、「近江派」と呼ばれた出身だった。
また秀吉に仕え出したのも、二人して小姓としてのスタートで、戦に対しても、戦場での槍働きよりは兵站や土木作業を担うことが多かった(←戦場での働きがなかったり、その能力に欠けていたりした訳ではないことに注意)。
必然、両者は行動共にすることも多く、吉継は三成を「佐吉」と呼び、三成は吉継を「紀之介」と呼び合った。
殊に有名なエピソードとして、茶会の話がある。
過去作において何度も書いているので簡単に論述したいが、とある茶会において、茶を飲もうとした際にハンセン病を患っていた吉継の顔面から茶碗に膿が滴り落ちてしまったことがあった。吉継を含む周囲の全員が狼狽し、事態に対して戸惑う中、三成はその茶碗を取って中身を一気に飲み干すと、「余りにも美味くて全部飲んでしまいました。御代わりを所望したい。」と云って、茶碗を下げさせ、吉継の面子を潰さず、周囲の困惑も回避した。以前にも述べたことがあるが、このときの吉継への気遣いが他の者達にも活かされれば、三成は日本史上屈指の人気者になっていてもおかしくなかったと薩摩守は考える。誠に勿体ない話である。
勿論三成の吉継に対する気遣いは、友情もあったが、三成の純粋過ぎた性格の賜物でもあった。素の人格がどうあれ、ここまでの友情を見せられては吉継でなくても重宝しない筈は無かった。そしてそれは真の友情で、三成を本当に大切に想えばこそ、吉継は馴れ合うのではなく、三成に対して忌憚のない意見も申し述べた。
だが、それがクローズアップされたのは皮肉にも両者の最期に関するものだった。
「略歴」で上述した様に、慶長五(1600)年、徳川家康は会津の上杉景勝を討伐する軍令を発し、吉継もそれに従軍した。そして七月に会津に向かう途上で吉継は(七将襲撃事件で)失脚・蟄居中だった三成を訪ねた。
そのとき、三成は吉継に家康討伐の兵を挙げんとしていることを打ち明けた。これに対して吉継は三成を止めんとした。石高・人望・戦経験・兵力のいずれを取っても三成に勝ち目はない、と云いにくいことを滔々と述べた。
これに対して三成も臍を曲げることなく聞き続けたが、翻意することはなかった。
親友を翻意させれなかった吉継は、一度は佐和山を後にしたが、結局取って返して友情に殉ずる道を選んだ。吉継は三成に対して改めて人望の無さ(正確には、家康のそれに遠く及ばない)ということを述べ、家康と同じ五大老である毛利輝元や宇喜多秀家を総大将に立てることを勧め、三成もこれに従った。
かくして、二人は関ヶ原の戦いに臨んだのだった。
友好の終焉 慶長五(1600)年九月一五日、石田三成は関ヶ原の戦いに敗れ、伊吹山中で田中吉政率いる一隊に捕らえられ、一〇月一日に京の三条河原にて刑場の露と消えた。
そして大谷吉継は関ヶ原に自害して果てた。
九月一五日の未明、西軍副将で、戦場での総大将を務めた宇喜多秀家の隊と、東軍先鋒の松平忠吉(家康四男)・井伊直政(忠吉岳父)の隊がぶつかることで関ヶ原の戦いは開戦された。
双方合わせて二〇万とも云える大軍同士のぶつかり合いだったが、西軍には日和見する者が多かった。西軍で真面目に戦ったのは、三成、吉継、秀家のみで、三成は黒田長政・細川忠興・田中吉政隊と、吉継は藤堂高虎隊と激戦を展開。昼過ぎに大谷勢から見て右翼の松尾山に陣取っていた小早川秀秋が裏切ったことで戦局が大きく変動した。
小早川の裏切りを予見していた吉継は動揺することなく、一万六〇〇〇の大軍を二度に渡って押し返したが、共に小早川勢に備えていた筈の赤座直保・朽木元網・小川祐正・脇坂安治までもが裏切りに加担してはさしもの吉継も支え切れず、大谷勢は壊乱した。
敗北を悟った吉継は首級を取られることでハンセン病による病相を持つ顔面を晒されることを厭い、側近の湯浅五助に介錯と首の隠匿を託すと自害して果てたのだった。大谷吉継享年三六歳(四二歳説もある)。
かくして、吉継と三成の「友情の日々」は彼等の人生と共に終わったが、あくまで生前の直接交流が終わっただけで、二人の友情に終わりは無いと考えるのは薩摩守だけではあるまい。
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令和八(2026)年一〇月七日 最終更新