第参頁 明智光秀………届いた首は、皆偽物か?

行方不明者其の参
氏名明智光秀(あけちみつひで)
生没年永正一三(1516)年〜天正一〇(1582)年六月一三日
身分織田家重臣・丹波亀山城主
死因落ち武者狩りによる殺害
遺体の眠る場所谷性寺?



略歴 永正一三(1516)に清和源氏である土岐家支流である明智家に、父・光綱(光隆とも、光国とも)の子として美濃明智荘(現・岐阜県可児市)に生まれた。ただ生年には諸説ある。
 明智光秀の前半生は詳らかでない部分が多く、一般には斎藤家に仕えていたが、斎藤道三とその息子・義龍との争いに巻き込まれ、光秀は母の実家である若狭武田家を頼ったとされている。

 永禄八(1565)年五月一九日に室町幕府第一三代将軍足利義輝が殺害されたことで、義輝の弟・義昭が兄の仇を討ち、将軍職を奪還すべく、朝倉義景を頼らんとして越前にやって来たことで光秀と義昭は知遇を得た。
 そして北陸一向一揆の問題もあって義景が越前を離れられず、上洛への頼りにならないと見た三光秀と義昭は新たな美濃国主となった織田信長を頼ることとし、永禄一一(1568)年七月二二日に両者は美濃に到着した。
 信長が義昭を奉じて上洛の途に就くと、当然の様に光秀もこれに同道。同年一〇月一八日に義昭は室町幕府第一五代征夷大将軍に任ぜられた。

 その後も光秀はしばらく義昭と行動を共にし、翌永禄一二(1569)年、信長が美濃に戻った隙を突いて三好勢が報復急襲してきたときは義昭と共にこれを防いだ(本圀寺の変)。だが周知の通り義昭と信長の関係は徐々に冷却化し、それに伴って光秀に課せられた任務も義昭側近から織田家重臣のそれにシフトした。
 元亀二(1571)年九月一二日、自らは反対した比叡山焼き討ちでの武功が認められ、近江坂本を信長から与えられ、柴田勝家や羽柴秀吉よりも先に城持ち大名となった(正式に織田家重臣となったのはこの頃と考えられている)。

 元亀四(1573)年二月、前年に上洛を開始した武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝したことに勢いを得た義昭は反信長の兵を挙げたが、この時には光秀はおろか、義輝殺害直後から義昭と行動を共にしていた細川幽斎(藤孝)までもが義昭に見切りをつけて、信長家臣となっており、義昭はあっさり敗れ、京を追放されたことで室町幕府は事実上滅亡した。
 その後、信長は朝倉義景・浅井長政を滅ぼし、長篠の戦いで武田勝頼に大勝したことで完全に勢いを得て、天下取りに向けて畿内・東海・中部を制圧し、北陸・関東・中国・四国にまで侵攻の手を伸ばし、その中で光秀は主要な戦いに参戦しつつ、地域的には主に畿内・丹波方面攻略の指揮を取った。

 天正七(1579)年に細川幽斎と共に丹波を平定し、翌天正八(1580)年に信長よりその功を絶賛され、丹波一国を与えられた。
 天正九(1581)年に信長が朝廷に自軍の軍事力をアピールする軍事パレード、所謂京都御馬揃えが行われた際には運営責任者を任され、柴田勝家に比肩する織田家一の重臣となっていた。
 天正一〇(1582)年三月五日、信長に従って甲州征伐に従軍。ただ既に先行した信長嫡男・信忠によって武田家殲滅は殆んど完成しており、同月一一日に武田家は滅亡。信長・光秀甲州征伐を見届けると四月二一日には帰還した。

 念願の武田家滅亡を果たした信長だったが、天下統一に向けてやるべきことは山の様にあり、五月に駿河一国を与えられた徳川家康が上洛すると光秀はその接待を命じられ、その後中国地方で毛利征伐に従事している羽柴秀吉の後詰を命じられた。
 その為に亀山城に戻った光秀は一万三〇〇〇の兵を整え、六月二日早朝に出発すると本能寺に宿泊していた信長を急襲し、これを自害に追いやった(本能寺の変)。
 首尾よく信長・信忠父子を討った光秀だったが、その後は丸で上手く事が運ばなかった。即座に畿内の親信長勢力追捕に努めたが、堺見物をしていた家康には逃げられ、娘婿の細川忠興は父・幽斎共々味方しないことを明言し、羽柴秀吉を毛利輝元と共に挟撃せんとした策も密使が捕らえられたことで失敗に終わり、密使から信長横死を知った秀吉は世に云う中国大返しにて急退却し、光秀は運命の六月一三日を迎えた。



死の状況 結局、明智光秀の命運は山崎の戦いに敗れたことで尽きた。
 要衝天王山を巡って、一万七〇〇〇の兵を率いた光秀中国大返しの途上で次々味方を集め、二万七〇〇〇とも、四万とも云われる兵を率いた羽柴秀吉軍が激突し、光秀はこれに敗れた。

 戦場から敗走した光秀は再起を図るべく、近江坂本城を目指した。一般にはその途中の小栗栖(現・京都市伏見区小栗栖)の竹藪にて落ち武者狩りにあって落命したとされている。一応は戦死なのだが、中には落ち武者狩りと戦ってこれを撃退したものの、致命傷を負い、側近の溝尾庄兵衛に介錯と自らの首を秘匿するするよう命じたする説もある。



遺体は何処に? 本能寺の変及び山崎の戦いが行われたのは六月である。勿論旧暦なので当時の六月は真夏の暑い盛りだった。当然遺体の腐敗も早かった(食事しながら閲覧してる方、すみませんです………)。

 上述した様に、明智光秀は小栗栖の竹藪にて落ち武者狩りに遭って命を落とした。逃げ延びて後に徳川家康のブレーン・南光坊天海になったとの伝説もあるが、伝説の域を出ず、本作の趣旨とは異なるため、これに関してはここでは触れない(興味ある方は過去作「生前伝説……判官贔屓が生むアナザー・ストーリー」を参考されたし)。
 まず事実だけを列記すると、「光秀の首」とされた生首は、光秀戦死の翌日、村井清三を通じて織田信孝(信長三男)の元に届き、まず本能寺で晒された。
その後、光秀の重臣で同月一七日に捕えられて斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口(現・京都府京都市東山区・左京区)に首と胴を繋いで晒された後、同月二四日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれたとされる。

 まず上述通りなら、光秀の首は粟田口に眠っていることになる。
 だが、ここで一抹の疑問を挟むのだが、信孝・秀吉の元に届いた首が本物だろうか?と云うことである。まず上述の過去作でも少し触れたが、明智光秀の首を取りました!」として届けられた首は三つに及んだ
 少なくとも、この内二つは恩賞を目当てに届けられた偽物か、メディアが未発達な時代ゆえに「光秀の首」と思い込んで届けられた別人のもの、と云うことになる。加えて、盛夏による腐敗の早さを考えれば、三つとも光秀の首でなかった可能性も零ではない。

 三つとも光秀の首でなかった場合、光秀はその場を生き延びたか、別説に在る様に、溝尾庄兵衛に介錯させた後、自分の首を敵の手に渡らせない為に持ち逃げさせたことが考えられる。
 生き延びを除外するなら、庄兵衛に自分の首を託したことになるのだが、『信長公記』の著者として有名な太田牛一が残した『太田牛一旧記』によると、最期と悟った光秀は自らの首を守護の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院に届けてくれと云い残したとされている。
 致命傷を負った現場である竹藪に埋められたとの説もあるが、谷性寺(現・京都府亀岡市宮前町)に埋葬したとの説もある。
 ただ、庄兵衛自身小栗栖で命を落としており、単純に考えるならそこで光秀の首も落ち武者狩りの手に渡ったものと思われる。庄兵衛が偽首を持っていて、それが光秀の首とされた可能性もないではないが、そこまで云い出せばキリがないと云えよう。

 結局、生死・遺体の行方に関係なく明智光秀の名がその後歴史の表舞台に現れることは無かった。


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令和五(2023)年三月二日 最終更新