第肆頁 大谷吉継………追われなくなった首級の行方

行方不明者其の肆
氏名大谷吉継(おおたによしつぐ)
生没年永禄八(1565)年〜慶長五(1600)年九月一五日
身分越前敦賀城主
死因自害
遺体の眠る場所関ヶ原松尾山山麓の何処か



略歴 永禄八(1565)年、六角氏の旧臣・大谷吉房の子として近江に生まれた(永禄二(1559)年出生説もある)。
 木下藤吉郎が織田信長より近江長浜城主に封ぜられ、羽柴筑前守秀吉となった頃に小姓として仕え始めた。天正五(1577)年一〇月に秀吉が織田信長から中国地方攻略を命令されると吉継は秀吉御馬廻り衆の一人として従軍した。

 天正一一(1583)年、賤ヶ岳の戦いでは吉継は敵の総大将・柴田勝家の甥・柴田勝豊を調略して内応させ、天正一三(1585)年の紀州征伐にも活躍し、秀吉が従一位・関白に叙任されるのに連れて吉継も従五位下刑部少輔に叙任された。
 その後、天正一四(1586)年の九州征伐では、石田三成とともに兵站に努め、それまでの功績で天正一七(1589)年に越前敦賀郡二万余石を与えられ、敦賀城主となった(天下統一後には五万石に加増)。
 朝鮮出兵では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務め、文禄元(1592)年六月には吉継も石田三成・増田長盛等と共に渡海し、在朝鮮諸将の指導と現地報告を担った。

 慶長三(1598)年八月一八日、豊臣秀吉が薨去し、豊臣家中の対立が不穏化し。慶長四(1599)年に徳川家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則等豊臣氏の武断派諸将等と共に徳川邸に参じ家康を警護した。
 だが同年閏三月三日に利家が没すると武断派と文治派の対立は歯止めが掛からなくなり、利家の遺体も冷え切らない内に加藤清正等七将(残り六人は福島正則・細川忠興・加藤嘉明・池田輝政・黒田長政・浅野幸長)が三成を襲撃。三成は敢えて家康の元に逃げ込むことで虎口を脱するが、代償として佐和山城への隠居を命じられた。
 この親友の境遇に吉継は特にこれと云った動きを見せず、慶長五(1600)年に家康が会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して討伐軍を起こすと吉継も三〇〇〇の兵を率いて討伐軍に参加した。
 途中、佐和山城に立ち寄り、三成を訪ねた吉継は家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられた。
 これに対して吉継は、「無謀」、「勝機なし」と説得するが、三成を翻意させられず、一度は佐和山城を後にしたが、意を決すると敗戦を覚悟の上で三成の下に馳せ参じ西軍に与した。

 そして九月一五日、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保等の諸将を率いて関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に一族、戸田勝成・平塚為広の諸隊五七〇〇人で布陣した。
 既にハンセン病の為に目も見えず、馬にも乗れない吉継だったが、輿の上から軍を指揮し、東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦した。
 しかし正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊一万五〇〇〇が東軍に寝返り大谷隊を攻撃。これをある程度予測していた吉継は見事な采配で圧倒的兵力の小早川勢を二度三度と松尾山へ追い返したが、小早川勢の裏切りに備えて配置していた筈の脇坂・朽木・小川・赤座の四隊(四二〇〇人)が東軍に寝返り突如反転、大谷隊を攻撃してきた。
これには大谷勢も抗し得ず、吉継は死を覚悟した。



死の状況 前面から東軍の藤堂高虎・京極高知勢、側面から脇坂安治・赤座直保・朽木元網・小川祐忠勢、背後から小早川秀秋勢に攻められては、亡き豊臣秀吉から「一〇〇万の軍勢を指揮させてみたい。」と云われた戦上手・大谷吉継の能力をもってしても為す術はなかった。

 敗北を悟り、死を覚悟した吉継は、敵に首を取られることでハンセン病のために病み崩れた自分の面相が晒し首になることを恥じ、側近の湯浅五助に介錯を命じて自害した。  その際に吉継は斬り落とした自分の首を地中に埋め、決して東軍の手に渡さない様に託し、自らの命を絶った。



遺体は何処に? 「遺体」と云うより、「首級」の行方を本頁では議題としている。
 大谷吉継関ヶ原の戦いにて命を落とし、それは誰の目にも明らかで、その後の歴史に吉継が登場することも無ければ、生存が囁かれることも無かった。

 上述した様に、吉継は自害に際して湯浅五助に介錯と首の秘匿を命じ、五助はこれに忠実に従った。
 吉継の首は戦場から離れた場所に埋められ、その場所は現在も不明である。

 ただ、厳密に物申すと、五助が吉継の首を埋めたところを見ていて、その場所を知っていた者がいた。藤堂高虎の部将・藤堂高刑(たかのり)であった。これに対し、五助は高刑に発見されると、「私の首を差し上げるので、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい。」と頼み、高刑はこれに応じて五助の首を取った。

 藤堂高虎は養女婿である高刑が湯浅五助の首を取ったことに喜び、徳川家康の本陣に報告した。家康は高刑を褒めつつ、吉継の首の行方を高刑に詰問した。
 だが、高刑は五助最期の懇願を守り、自分を処罰するように求めて吉継の首が埋められた場所を頑として白状しなかった
 その姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたと云われている。

 現在大谷吉継の墓は三ヶ所ある、一つは吉継の領地である敦賀の永賞寺である。
 二つ目は戦場となった関ヶ原で、現・岐阜県関ケ原町に合戦後まもなく藤堂家によって建立された(大正五(1916)年に五助の子孫により五助の墓も併設された)。
 三つ目は現・滋賀県米原市にある。『常山紀談』の異説によると、切腹した吉継の首は五助とは別の家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたされている。

 これはもう感傷論になるが、湯浅五助の忠義や、藤堂高刑の信義を想えば、大谷吉継の首級は関ヶ原の地下に永久にその行方を知られることなく眠り続けて欲しいものである。その行方を気にするこんな作品を作っておいてなんだが(苦笑)。


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令和五(2023)年三月七日 最終更新