第伍頁 明石全登………見事に絶たれた行方。自害の可能性なし

行方不明者其の伍
氏名明石全登(あかしぜんとう。名は「てるずみ」とも、「たけのり」とも)
生没年不詳
身分宇喜多家重臣→豊臣家家臣
死因不詳
遺体の眠る場所不詳



略歴 生年不詳。前半生に謎が多く、名前の読みも諸説ある人物である。
 永禄一二(1569)年頃、守護大名赤松円心の子孫である備前明石氏の当主で、浦上宗景の家臣で、備前保木城主だった明石行雄の子として生まれた(とされている)。
 明石家は天正三(1575)年九月に宇喜多直家の調略に呼応して寝返り、これにより浦上氏は滅亡。そのまま宇喜多家に仕え、秀家の代となる天正一六(1588)年には四万石の知行を得ていた。

 明石全登は文禄五(1597)年四月頃に父から家督を継ぎ、大俣城主兼宇喜多家家老となり、豊臣秀吉薨去の翌年である慶長四(1599)年に宇喜多家中でのお家騒動が起きると全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切ることとなり、これによって一〇万石取りの大身となった。

 その翌年である慶長五(1600)年に関ヶ原の戦いが勃発すると、主君・宇喜多秀家は西軍の副将格となり、戦場では中央に陣取って、多くの西軍諸将が日和見を決め込む中、宇喜多勢は福島正則・松平忠吉・井伊直政と云った東軍方の猛将達率いる軍勢と激戦を展開した。
 この時全登は宇喜多勢一万七〇〇〇の内の約半数に当たる八〇〇〇名を率いて先鋒を務め、主に福島勢と互角に戦ったが、有名な小早川秀秋の裏切りをきっかけとして旗色は決し、宇喜多勢も総崩れとなった。
 このとき、秀家は戦場にて名誉の戦死を遂げんとして、斬り死にを覚悟したが、全登はこれを強く諫め、大坂城へ退くように進言し、殿軍を務めた。

 戦後、全登は岡山城に退いたが、城は既に荒らされていて、主君・秀家とも連絡が取れなかった。当の秀家は各地を逃げ回り、薩摩に潜伏しており、潜伏がバレたことで徳川方に出頭したのは戦の三年後だった。
 その後秀家が死を一等減じられ、八丈島に流刑となったのは有名だが、その間、全登は秀家と連絡が着かず(何せ秀家は妻・豪姫にも消息を伏せていた)、そのまま出奔して浪人となるしかなかった。

 その後、大坂冬の陣の勃発で大坂城入りするまでの全登の消息は諸説あり、はっきりしていないが、血縁や信仰上の問題から、黒田如水の弟・直之に匿われていたとされる説が濃厚とみられている。
 と云うのも、後に棄教したとはいえ黒田氏はリシタン大名で、如水の母は明石一族であった。直之が黒田一族の中でも、熱心なキリシタンであったことからもこの説が有力視されている訳だが、後に江戸幕府はキリスト教を禁じ、如水の死後、息子の長政もこれに従ったため全登は黒田家を出て、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。

 ともあれ、慶長一九(1614)年に大坂冬の陣が勃発すると全登は豊臣家の浪人募集に応じた。既に徳川幕府体制は盤石で、豊臣秀頼の援軍要請に応じた大名家は皆無だった。となると豊臣軍を構成したのは元々大坂城に仕えていた直臣と、関ヶ原の戦いでの敗北・改易や、キリスト教禁令によって仕官を亡くした浪人衆で、全登は見事にこれに当てはまっていた。
 殊にキリシタンにとっては、信仰を守る為にも徳川家の天下を覆す必要があり、全登ならずとも充分な戦意を持って臨んだ。

 周知の通り大坂冬の陣は開戦からしばらくして一時的な和睦がなったが、慶長二〇(1615)年には再戦となり、大坂夏の陣が勃発した。全登は五月六日の道明寺の戦いに参加し、後藤又兵衛が戦死する中、明石隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、その為に政宗と相茂の同士討ちが起きた。
 この戦いで全登自身も負傷したが、翌七日の天王寺・岡山の戦いでは、小倉行春(元蒲生氏郷家臣)と共に三〇〇余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙った。
 だが、真田信繁(幸村)の戦死を初め、天王寺口にて豊臣軍は壊滅し、全登は水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。

 そして、それっきり明石全登の消息は絶たれた。



死の状況 謎の多い明石全登の生涯だが、その最期に関しても生死・行方に様々な説があり、それは後述していくのだが、一つだけ断言出来ることがある。それは全登は絶対に自害していない!」と云うことである。云うまでもないが、全登はキリシタンで、キリスト教の教義で自殺は厳しく禁じられている(それゆえ、関ヶ原の戦い直前、西軍の人質になることを避けんとした細川ガラシャは家臣に自らの胸を突かせたことで命を絶たせた)。

 となると、大坂夏の陣を最後に歴史からその姿を消した全登は、討ち死にしたか、戦場から逃げおおせたまま表舞台に出てこなかったことになる。
 ただ、大坂夏の陣後における徳川方の落ち武者追跡は執拗を極めており、元宇喜多家家老だった全登の生死がはっきりしないというのは何とも不可解である。

 贔屓武将の例で恐縮だが、塙団右衛門が浅野勢との戦いで戦死した折には、「自分が討ち取った!」と三名(亀田高綱・八木新左衛門・上田宗古)が云い立て、揉めに揉めた。正直、身分だけで云えば団右衛門のそれは然程高いものでは無い。大坂方の立場で見ても、大坂方副将格・大野治長の弟・大野治房の部将に過ぎなかった。それでも「首を取った者」が誰なのかは重要だった。
 御宿勘兵衛が討ち取られた際には徳川家康もコメントしており、後藤又兵衛の死に様や真田信繁・木村重成を討ち取った者(前者は西尾仁左衛門、後者は安藤重勝)も有名である。それ故、全登程の人物が討ち取られたとして、その死に様や討ち取った者が不詳なのは不可解である(後述するが、戦死説にも諸説ある)。

 では、逃げおおせたとして、上手く行ったのだろうか?
 上述した様に落ち武者狩りは執拗を極めており(雑兵といえども追捕対象だった)、豊臣国松、大野治房・治胤兄弟、長宗我部盛親等が逃げ切れずに捕らえられ、処刑された。関ヶ原の戦いにおける大谷吉継の様に部下に遺体を処分させた可能性も無きにしもあらずだが、上述した様に、キリシタンである全登の自害はあり得ない。
 となると、全登は旧主・宇喜多秀家以上に巧みに逃げまくったことになる。まあ、古今東西官憲の追跡を逃げ切った者も決して少なくないから、やはり全登は逃げ切ったのだろう。ただ、その場合でも全登は以後歴史の表舞台には出て来なかったから、徳川幕府に対抗する術を持てない内にひっそりと天寿を全うしたのだろう。
 少なくとも約二〇年後まで生きていれば、島原の乱に従軍した可能性はあっただろうから、それ以前に没したと思われる。



遺体は何処に? 明石全登が如何にしてこの世を去ったのかが詳らかではないので、当然その遺体が何処に眠っているかも不詳である。
 よってすべてが推測の域を出ないのだが、戦死説と落ち延び説の双方を列記して、何処に眠っている可能性が有るかを記しておきたい。


戦死説
討ち取った者参考出典眠っているであろう場所
不明『徳川実紀』『土屋知貞私記』不明
汀三右衛門(水野勝成家臣) 『大坂御陣覚書』『大坂記』不明
石川忠総(大久保忠隣次男)『石川家中留書』不明
井伊直孝の家臣鳳来寺宛鈴木平兵衛書状佐和山?


落ち延びた説
落ち延び先参考出典眠っているであろう場所
九州説『大村家譜』『山本豊久私記』不明
土佐庄谷相村上久保説『土佐国諸氏系図(根須村明石氏系図)』高知県香美市香北町白石?
南蛮説『戸川家譜』『武家事紀』不明


 一応、Wikipediaによると明石全登の墓所は「岡山県備前市吉永町今崎」、「岡山県瀬戸内市邑久町虫明」、「高知県香美市香北町白石」の三箇所が記載されているが、土佐庄谷相村上久保説が正しい場合のみ、香美市に眠っているのが正しいと思われるが、そうでなければ、元宇喜多家家臣として所縁の地である岡山に縁者によって供養された結果と思われる。


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令和五(2023)年三月七日 最終更新