第陸頁 豊臣秀頼………完膚なきまでに焼き尽くされて

行方不明者其の陸
氏名豊臣秀頼(とよとみひでより)
生没年文禄二(1593)年八月三日〜慶長二〇(1615)年五月八日
身分大坂城城主、右大臣
死因切腹
遺体の眠る場所清凉寺(京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)



略歴 文禄二(1593)年八月三日に太閤・豊臣秀吉を父に、その側室淀殿を母として大坂城で誕生した。幼名はお拾い
 淀殿は以前に秀吉の子・鶴松を生んでいたが、彼は三歳で夭折しており、もはや実子は望めないと考えていた秀吉は甥(姉の子)である秀次に関白職を譲り、自らは明征服を目指して朝鮮出兵に尽力すべく肥前名護屋にいたが、望外の次男誕生に狂喜乱舞・欣喜雀躍したのは云う前もなかった。
 その溺愛振りはやがて関白職を秀次に譲ったことを後悔させ、文禄四(1595)年七月八日に秀次の関白職を奪って高野山に追放し、同月一五日に切腹させるに程だった(一応、若干のフォローを入れるが、秀吉も当初はお拾いと秀次の娘を婚約させ、穏便にお拾いが関白になれるよう考えていた)。
 秀次一族を粛正した秀吉は諸大名にお拾いへの忠誠を誓う起請文への血判署名をさせた。

 お拾い生誕時に既に五八歳だった秀吉はせめてお拾いが一五歳になるまで生きたいと願っていたが、死期を悟るところがあったのか、文禄五(1596)年五月一三日にお拾いを初めて上洛させるとまだ四歳のお拾いを元服させ、豊臣朝臣藤吉郎秀頼と名乗らせ、法令や政治体制をゆくゆくは秀頼を補佐する形に整えた。
 だが、慶長三(1598)年八月一八日に秀吉は薨去。今際の際に秀吉が徳川家康・前田利家を初めとする五大老・諸大名にみっともない程に、しかし切々と秀頼の行く末を懇願したのは有名である。その秀吉の遺言に従い、秀吉薨去後、秀頼は家督を継ぎ、大坂城に移り、政治は家康が執った。

 周知の通り、秀吉が薨去すると家康はその力を強め、翌慶長四(1599)年閏三月三日に前田利家が薨去すると事実上誰もその力に抗し得なくなった。
 その家康に反発する勢力から関ヶ原の戦いが勃発したが、東軍の大勝利に終わり、戦中西軍に担ぎ上げられた形で毛利輝元の庇護下に置かれていた秀頼は責任なしとされ、東西両軍が「秀頼公の為」を大義名分としていたため、秀頼は家康を忠義者として褒めたたえることとなった。
 だが、ただでさえ五大老筆頭だったうえ、邪魔な勢力を打倒或いは弱体化した家康は関ヶ原の戦いにおける論功行賞を理由に羽柴宗家の所領(太閤蔵入地)を勝手に東軍に味方した大名に分配し、日本全国に分散して配置されていた約二二〇万石の内、諸大名に管理を任せていた分を奪われ、秀頼は摂津・河内・和泉のみを知行する六五万石の一大名の立場に転落した。

 勿論、この時点ではまだ家康を初め諸大名はすべて豊臣家の臣下で、家康も秀頼を立てていたが、慶長八(1603)年二月一二日、家康は征夷大将軍に任じられ、諸大名を動員して江戸城の普請を行わせる等して、江戸が武家政権の本拠地であるかの如く振舞い出した。
 だが、この時点では江戸城の普請に関して秀頼の直臣が奉行として指揮しており、淀殿も秀頼が成人すれば関白を任じられるか、二代目征夷大将軍の座が譲られると楽観視しており、同年七月に秀吉生前に約束されていた、秀頼と千姫(徳川秀忠・長女)との婚姻が成立したこともあって、豊臣家と徳川家は切っても切れない絆で結ばれ続けていると見る向きもあった。
 千姫の母は淀殿の妹で、秀頼と千姫は従兄妹同士でもあり、血の繋がり的にもそう見る者は決して少なくなかった。

 これに前後して、秀頼の官位は昇進し続けていた。
 秀吉存命中の慶長二(1597)年九月に従三位・左近衛権中将、秀吉薨去直前の慶長三(1598)年四月二〇日に従二位・権中納言、関ヶ原の戦の翌年である慶長六(1601)年)三月に権大納言、翌慶長七(1602)年一月六日に正二位と、連年昇進を遂げていた。
 家康が征夷大将軍になった直後の慶長八(1603)年四月二二日、将軍と同時に右大臣となった家康の後を継ぐ形で右大臣に昇進した。

 だが、その間に肝心の関白職は五摂家に戻され、慶長一〇(1605)年四月一六日に家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第二代征夷大将軍になったことで徳川家の将軍位世襲が天下に布告された。
 その三日前に家康の推挙で秀頼は右大臣となっており、それに伴って秀頼が退いた内大臣に秀忠が就任していたこともあり、徳川家が秀頼を立ててくれていると思っていた甘い考えはこの時点からはっきりと瓦解し出した。

 それに伴い、諸大名の態度も一変した。
 それまで毎年の年頭には公家が大坂城に大挙下向して秀頼に参賀しており、また家臣に対して独自の官位叙任権を行使するなど、朝廷からは秀吉生前と同様の礼遇を受けていた。
 だが、秀忠将軍就任以降、諸大名は年賀の挨拶を江戸に行い、大坂城には足も向けなくなった。加藤清正や福島正則と云った秀吉子飼い出身で、秀吉への恩を深く思う者の中には江戸城で将軍挨拶後に大坂に訪れる者もあったが、それもやがて絶え絶えとなった。

 更に秀忠将軍就任直後の慶長一〇(1605)年五月八日、家康は高台院を通じて、秀頼に秀忠への将軍就任を祝うべく上洛させるように淀殿に要求した。表向きは岳父への祝辞言上を求めたものだったが、実質は臣下の例を取る様求めた者であったのは誰の目にも明らかで、淀殿は秀頼との心中を仄めかしてまで、上洛を断固拒否した。
 つまり、「心中」をもって「臣従」を拒否した訳で…………………………外したな………。

 コホン、ともあれ、秀頼上洛は叶わず、これに対して家康は六男・松平忠輝(秀頼とは一切違い)を大坂に遣わし、融和に努めたが、これまでの待遇に幻滅したかのように慶長一二(1607)年一月一一日、秀頼は右大臣を辞した。このとき豊臣秀頼一五歳。

 慶長一六(1611)年三月、後陽成天皇が後水尾天皇に譲位。それに伴って上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請した。当然の様に淀殿を初め、豊臣家中には反対の声もあったが、加藤清正・浅野幸長が護衛する形で会見は成立した。
 形の上では、秀頼が大御所・家康からの上洛要請に従ったことで、豊臣家が徳川家に膝を屈した形となったが、家康は小柄な秀吉よりも母方の祖父・浅井長政の血の方を色濃く受け継いだかのような偉丈夫となった秀頼の堂々とした振る舞いに表向きは感心し、その成長ぶりを喜ぶ風を見せたが、腹の内ではその将来性を恐れたとされている。

 そしてこの会見に前後して豊臣家滅亡への状況変化は確実に進んでいた。
 さすがに武家として徳川家を打倒して昔日の栄光を取り戻せるとは豊臣家中の誰も思ってはいなかった。それゆえか、秀頼は地元での政治(なかなの善政だった様で、江戸時代になっても豊臣家が密かに慕われる元となった)や寺社仏閣の再建・寄進に力を入れていた(秀吉の遺産を浪費させるべく幕府がそう勧めたとされている)。
 そして会見直後に加藤清正、浅野幸長、池田輝政、真田昌幸、島津義弘と云った新豊臣派と目された有力諸大名が次々とこの世を去った(このタイミングのせいで、清正が暗殺されたことにしている歴史小説のなんと多いことか…………)。
 そして亡き父・秀吉への供養の為に再建した方広寺が一大事件を引き起こした。

 所謂、方広寺鐘銘事件である。
 慶長一九(1614)年七月二六日、家康は大仏開眼供養を延期する様に命じた。鐘に刻まれた銘文の中にある「国家安康」、「君臣豊楽」が、「家康」の名を切って呪い、「豊臣」を「君」として「楽」しむことを願っている、という「や」の付く自営業もびっくりの云い掛かりをつけた。

 この云い掛かりを巡っては、徳川方の非を認めるものも、非を認めないものもあるが、この鐘銘文が今も残っていることから、悪質さはどうされ、やはり云い掛かりだったと薩摩守は見ている。
 ともあれ、結局はこれが素で大坂冬の陣に至った。

 だが、諸大名は一人として秀頼の元に駆け付けなかった。豊臣恩顧の大名でさえ、「先代には恩になったが、当代には恩になっていない。」として、かつての忠義よりも現在で幕藩体制下での生き残りを優先した(僅かに福島正則が大坂の蔵屋敷にあった米の接収を黙認した)。
 これにより秀頼方に集まったのは、関ヶ原の戦い後改易された者、キリスト教禁令下で生き辛い立場にあった者からなる元大名や浪人衆のみだった。

 淀殿の乳兄弟・大野治長を対象に対徳川戦略が組まれたが、天下の居城大坂城を頼っての籠城戦が決され、多くの浪人衆は逸れに不満だったが、真田丸での抵抗を初め、所々で数に劣る大坂方が徳川方に強く抵抗した。
 だが、家康は「国崩し」と呼ばれた大筒を連夜発し、外堀の為に届かなかったとはいえ、その大音響は淀殿を初めとする女性陣を恐慌状態に陥らせ、偶然遠く飛んだ砲弾の一つが淀殿のいた近くに命中し、瓦礫の下敷きとなった侍女の一人が即死したことで和議が急速に進められることとなった(家康の方でも、長期戦となることで裏切者が出ることを懸念していた)。

 和議は、淀殿の妹にして、将軍御台所・お江の姉である常高院(故京極高次未亡人)を仲介に、結ばれ、大軍を動員して大坂城に攻め寄せた徳川方に花を持たせる意味で、「大坂城の一部を破却」するとして、堀の埋め立てを条件に成立した。
 これが後々どうなったかは余りに有名なので割愛するが(笑)、半年も経たない慶長二〇(1615)年、大坂方に敵意有りとして、家康が命じた「浪人総追放」や「大坂城退去」の双方を秀頼が拒否したことで大坂夏の陣が勃発した。

 だが、四月二九日に塙団右衛門が、五月六日に後藤又兵衛、木村重成が、そして七日に真田信繁(幸村)までもが戦死し、秀頼方の戦力は完全に瓦解したのだった。



死の状況 頼りになるすべての部将を失い、豊臣秀頼は父・秀吉の残した大坂城天守にて最期を迎え、白と運命を共にせんとした。
 だが、その周囲が様々な意味で反対。秀頼はその説得に応じて山里廓に移り、直後に大坂城天守閣は炎上した。

 やがて秀頼母子が籠る山里廓も井伊直孝率いる徳川軍に包囲された。
 この間、何とかして秀頼の命だけでも救いたいと考える側近達は、大野治長切腹や千姫送り返しによる秀頼母子の助命嘆願を画策したが、千姫による助命嘆願は家康が折れかけたのを秀忠が押し留めた。

 廓を包囲していた井伊勢は秀頼が出て来ないことに業を煮やし、廓を銃撃。もはやこれまで見た秀頼は淀殿ともに自害。大野治長、その母で淀殿乳母だった大蔵卿局、速水守久、毛利勝永、真田大助(信繁の子)等近臣二七名が運命を共にした。豊臣秀頼享年二三歳。



遺体は何処に? 自害に際し、豊臣秀頼は自らの遺骸が徳川方に渡ることを恥とし、側近の毛利勝永に自分への介錯と共に、廓内の火薬に火を放って自分の遺体を焼き尽くすよう命じたとされている。

 秀頼自害に対して、家康を立てる小説・学説では家康自身はあくまで秀頼の命だけは助けるつもりだったが、井伊直孝の脅しが秀頼を追い詰め、その死が避けられなかったとしている。
 一方で、格段家康に好意的という訳でもない小説・学説では家康は自分が寿命を迎える前に(実際に家康は大坂夏の陣から一年も経ずして薨去している)何が何でも豊臣家を滅ぼそうとしていたとする者が多い。
 いずれが正しいかによって、直孝勢の発砲の持つ意味や目的も異なってくるが、発砲して尚も何の反応も見せない廓内を訝しがりながら様子を見ていた井伊勢はやがて廓から煙が燻り出しているのを見て、強行突入を敢行した。

 だが、戸板が外されて空気が流入したことで廓内の炎は一気に拡大し、鎮火後に確認された遺体は真っ黒焦げで、誰が誰やら、性別すらも分からない状態だった。このことを元に秀頼生存説を唱える人もいるが、ここではその説には触れない。詳しくは過去作『生存伝説―判官贔屓が生むアナザー・ストーリー―』を参照願いたい(笑)。

 秀頼の生死がどうあれ、豊臣家がその後再興されることは遂になかった。秀頼の遺児達は男児・国松が捕らえられて斬首され、女児が千姫必死の助命嘆願により出家を条件に許された。この娘・天秀尼が子を成すことなく早世したことで秀頼の血は完全に途絶えた。

 故に、これらの状況や歴史的推移を鑑みて、薩摩守は、豊臣秀頼は定説通りに大坂城落城後に山里廓にて母・淀殿や近臣・侍女達と共に自害して果てたと見ている。ただ、その遺骸は秀頼最後の望み通りに焼き尽くされて徳川方の手に渡ることは無かった。

 さて、ここから少しグロい描写になるので、その手の描写が苦手な方や、食前食中食後の方々は閲覧をお勧めしないが、三〇人近い人間の遺体が、誰が誰やら全く分からなくなるほど焼き尽くされたとなると、かなりの火勢である。恐らく定説通り火薬が用いられたのだろう。
 まして井伊勢は煙を見た直後に廓内に突入している。さすがに爆発直後は退かざるを得ないにしても、即座に消火と遺体回収に努めたであろうことは想像に難くなく、その結果、個人特定不可能状態ながらも遺体自体は回収出来た。
 正直、薩摩守には遺体を焼いた経験はなく、人体を焼く行為は身内の火葬以外に目にしていない。どれほどの火勢が有れば骨だけ残るのか?どれほどの火勢を過ぎれば骨まで焼き尽くされるのか?想像もつかないし、想像したくもないが、三〇人近い人間が火薬を用いて焼かれたとなると、遺体の中には爆散したものもあれば、瓦礫に埋もれるほどまでに焼き尽くされたものもあったのではなかっただろうか。

 昭和五五(1980)年、大坂城三ノ丸跡にて発掘調査が行われ、人一人の頭蓋骨と別に首のない二人の骨、馬一頭の頭の骨が発見された。
 骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は二〇代男性のもので顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認され、年齢や骨から類推する体格から秀頼のものではないかと推測された。
 その後、遺骨は昭和五八(1983)年に京都・清凉寺に埋葬された。
 このことから、「敵の手に渡さない」という秀頼最後の願いだけは達成されたのだろう。徳川の世が終わってから発見されたのも、一つの慈悲だったのだろうか。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和五(2023)年三月一〇日 最終更新