第漆頁 天草四郎………母の号泣だけが手掛かり?

行方不明者其の漆
氏名天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)
生没年元和七(1621)年?〜寛永一五(1638)年二月二八日
身分浪人の子
死因戦死
遺体の眠る場所 原城跡(長崎県南島原市南有馬町)



略歴 一般に「天草四郎」の名で知られるが、本名は益田四郎貞時(ますだしろうさだとき)。生年には異説もあるが、元和七(1621)年に小西行長の遺臣・益田好次の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島(現・熊本県上天草市)で生まれたとされる。

 豊臣時代に肥後南半分の領主だった小西行長は熱心なキリシタンで、それゆえに関ヶ原の戦いに敗れた際にも自害せずに捕らえられて刑場の露と消えた。当然小西家は改易となり、その配下は浪人した訳だが、行長同様キリシタンが多かったため、キリスト教を禁じた徳川の世では武士として生き辛く、益田家も浪人百姓として一家で宇土に居住したという。

 四郎の母の陳述によると、宇土で成長し、学問修養のために何度か長崎を訪れ、この地でキリスト教に入信し、一揆直前に父に伴われて天草へ移ったとされている。
 盲目の少女を治癒したり、海の上を歩いたり、といった不可思議な現象が伝わっているが、薩摩守は懐疑的である。ただ、カリスマ的な人気があったのは事実だった様で、寛永一四(1637)年島原の乱が勃発すると一揆軍の総大将に祭り上げられた(そうでなければまだ一〇代の彼を総大将とする理由はない)。

 島原の乱に関しては過去作「凄絶!島原の乱」にて詳し採り上げているのでそちらを参照願いたいが、藩主松倉勝家の圧政に対する一揆軍の士気はすさまじかったが、それでも島原城を陥落させるには至らず、一二月に当時廃城となっていた原城に立て籠もった。
 明けて寛永一五(1638)年一月一日、幕府側では業を煮やして老中・松平信綱を派すことを決定したのに焦って強襲してきた幕府軍の指揮官・板倉重昌を討ち取ることに成功したが、これを受けて三日後に現地に着任した信綱は兵糧攻めを決意した。
 時間は掛かったもののこれは効果的で、三ヶ月に及ぶ籠城で城内の食料・弾薬は尽き、一揆軍の疲弊を見計らった信綱は二月二七日に総攻撃を命じた。



死の状況 寛永一五(1638)年二月二七日に始まった総攻撃は翌二八日の一揆側の全滅をもって終結した。弾薬の尽きた一揆側では投石ぐらいしか飛び道具による攻撃が叶わず、食糧も断崖を降りて得る海草ぐらいしかなく、さすがに戦える状態ではなかった。

 そんな状態にあって、遺棄側は文字通り最後の一兵までが抵抗して全滅した。
 通常軍隊における「全滅」は組織的抵抗が不可能になるまで兵員を失った状態を指し、五割を失うと「全滅」とされる(らしい)。だが、このキリスト教を禁じた幕府に攻められた一揆側には「降伏」という選択肢もあり得なければ、信仰上「自害」という選択肢もあり得ず、文字通り全滅=玉砕した。

 この一揆側による徹底抗戦の前に勝利した幕府側も二日間の戦闘で戦死一〇五一人、負傷六七四三人という痛手を被った(幕府側の総勢は一二万七〇〇〇人だったので、一分強が死傷したことになる)。
 さすがにこうなると天草四郎にも助かる術はなく、四郎は二八日の最終決戦において本丸にて肥後細川藩士・陣佐左衛門に討ち取られた(父の好次も本丸にて戦死した)。



遺体は何処に? 上述した様に、島原の乱に参加した一揆軍は予め幕府方に内通していた一命を除いて全員が命を落とした。誰一人逃がすことなく討ち取ったのだからその中には天草四郎も含まれる筈だったが、それを確実なものとするには一つの問題があった。

 幕府側には四郎の容姿に関する情報が全く伝わっていなかったのであった。

 年齢ぐらいは伝わっていたが、一揆軍には老若男女様々なものが参加しており、総大将・松平信綱の元には陣佐左衛門が持ち込んだものを初め、四郎と同じ年頃と見られる少年達の首が次々に持ち込まれた。だが、どれが本物の四郎の首であるか分からなかった。
 そこで幕府軍は首実検を行い、「四郎の首かも知れない。」との疑惑があった少年達の首を原城三の丸の大手門前、そして長崎出島の正面入り口前に晒し、事前に捕えていた四郎の母・よねにこれらの首を見せたところ、彼女は陣佐が持って来た首を見て顔色を変え、その場で泣き崩れた。これにより、幕府方はその首を天草四郎のそれと断定したと云われている。

 詰まる所、「母親が首を見て泣いた」という理由で首が四郎の物と断じられた訳で、逆を云えば、それ以外に首を四郎の物とする根拠がなかった。そして乱鎮圧から一週間しか経たない三月三日から三月七日にかけてよね・姉達も処刑されたため、彼女達からそれ以上の証言や反応を得ることも出来なかった。

 もしかすると、何らかの形で四郎が生きていることを知った母親が、四郎を死んだことにして幕府側が追撃しなくなることを見込んで赤の他人の首の前で嘘泣きしたとしたら……………………まあ下衆の勘繰りだろうね(苦笑)。
 仮によねが見て泣いた首が四郎のそれでなかったとしても、原城から四郎が生きて出られた可能性は皆無に等しく、持ち込まれた少年首のいずれかが四郎だったことは間違いないだろう。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和五(2023)年三月一七日 最終更新