第参頁 富士川の戦い……平家落ち目の象徴

夜襲の行われた戦い富士川の戦い
夜襲日時治承四(1180)年一〇月二〇日
夜戦場駿河大堀川
攻撃方武田信義
守備方平維盛
勝敗夜襲側の不戦勝
卑怯度


背景 伊豆で挙兵した源頼朝は石橋山の戦いに敗れ、僅かな兵と共に安房に落ち延びると坂東武者に合力を呼び掛けた。高祖父・八幡太郎義家が東国武士の為に尽力してくれた恩義もあって、敗戦から二ヶ月を経ずして坂東武者約二万五〇〇〇を率いて安房を発し、途中武蔵で数万騎を加えて鎌倉に戻った頼朝は、駿河で甲斐源氏の武田信義と合流した。

 信義は義家の弟・新羅三郎義光の曾孫で、武田信玄で有名な甲斐武田家の初代となった人物で、彼もまた以仁王の令旨を受けて打倒平家の兵を挙げていた。
 治承四(1180)年八月二五日には二日前に石橋山の戦いで頼朝を破った大庭景親の弟・俣野景久と波志田山にて交戦。一〇月一四日に富士山麓で目代橘遠茂の三〇〇〇余騎を撃破していた。

 この頃、福原にいた平清盛は、頼朝挙兵の報に驚愕するも、石橋山の戦いで頼朝を撃破したと聞いて安心するも、頼朝の生死は不明で、その間にも全国各地の源氏が挙兵したと聞き、気の休まる間も無かった。
 そして一〇月二二日に孫・平維盛、末弟・平忠度等を大将とする追討軍を鎌倉に向かわせた。追討軍は二九日に京都を発ったが、その進軍は遅々としたもので、福原を出てから京都を発つのに一週間も掛かっていることからして、「兵は神速を貴ぶ」からほど遠い体たらくだった。
 この間に、源氏は体勢を立て直した頼朝、戦勝で意気上がる信義に加え、信濃木曽では頼朝の従兄弟である義仲が挙兵していた。

 これに対抗する平家軍は数こそ七万とも、一〇万とも云われる圧倒的多数を誇ったが、所謂烏合の衆で、加えて西国では連年の大飢饉から食糧不足に陥り、兵の士気は極端に低かった。

 以下、『吾妻鏡』によると戦局の流れは、一〇月一三日に平家軍が駿河に入り、翌一四日に信義鉢田の戦いで駿河目代を破り、その翌々日である一六日に頼朝が鎌倉を発った。

 同月一七日、信義維盛に挑戦状を叩きつけた。
 その内容は侍大将の伊藤忠清が激怒の余り、「使者は斬らない。」との不文律を無視して、使者二人の首を斬った程だった。
 そしてこの間も周辺状況は刻々と変化しており、翌一八日、石橋山の戦いにおける平家方の殊勲者・大庭景親が維盛軍への合流を信義に阻まれ、相模にて手勢を解散して逃亡した(後に頼朝に降伏したが、許されずに斬られ、梟首された)。
 同日、信義に富士川対岸布陣し、頼朝も黄瀬川沿いに布陣した。翌々一九日に伊藤祐親が維盛軍への合流に失敗し、頼朝方に捕らわれ、関東における頼朝地盤強化は着々と進んでいた。


襲撃 富士川を挟んで対峙する源平両軍。治承四(1180)年一〇月一八日、武田信義は富士川東岸に進み、西岸に布陣する平家軍に夜襲を仕掛けんとして夜道を密かに進軍させていた。
 その頃、一〇万もの大軍を擁していた平家軍だったが、上述した事情もあって戦意の低下は著しく、兵糧不足もあって、逃亡兵はかなりの数に及んでいたと云われている。その為、夜襲に備えてはいたが、その心境は戦々恐々としたもので、備えていると云うよりは、怯えているに等しかった。

 そして信義隊は平家軍の背後を突くべく、富士川の浅瀬に馬を乗り入れたが、手元ならぬ足元不如意から音を立ててしまったことで富士沼の水取りが一斉に飛び立ち、大量の水鳥が羽ばたく音に平家方は驚き、大混乱に陥った。
 『平家物語』『源平盛衰記』によるとその混乱振りは日本史上における数多くの戦史にあってもかなり恥ずかしいもので、弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げ惑い、他人の馬に跨る者、杭に繋いだままの馬に乗ってぐるぐる回る者もいて、とても冷静とは云えず、集められていた遊女達は哀れにも馬に踏み潰されたとの記載まである。
これは源平合戦の勝者である源氏方の記録であることを差っ引いて考えてもかなりのカッコ悪さで、二〇年近く戦から遠ざかって貴族化していた平家が実践を前にかなり混乱したであろうことは誰にも否めないものだった。

 伊藤忠清は恐慌状態に陥った自軍をその場で収拾するのは不可能と見て、維盛に撤退を進言し、維盛もこれを容れた。

 結局、平家軍は総崩れになった上、散り散りに敗走し、維盛が京へ逃げ戻った時には僅か一〇騎になっていた。ここまで来るとかなりの誇張を感じないでもないが、平治の乱以来戦から遠ざかっていた上に、政争や陰謀の果てに武士達の人望を失い、貴族化していた平家一門の弱体化振りが根底にあったことは否めない所であろう。


夜襲の効果 武田信義が敢行せんとした夜襲は、戦術的には大失敗と云える。何せ攻撃開始前に敵方に気付かれてしまったのだから、薩摩守が夜襲部隊の隊長なら、水鳥を驚かせた兵の首を斬りたいところである。
 だが、これを戦略的に見るなら話は違ってくる。

 夜襲の要諦は、相手が睡眠中であることを含め、疲弊・油断しているところを突き、敵勢に大打撃を与えるところにある。
 勿論、敵総大将の首を討てれば万々歳だが、これは夜襲に限った話ではない。古代に遡る程敵将の首を取れれば過程に関係なく戦は大勝ちである。逆を云えば、敵将の首を取れずとも、敵軍に組織的な立ち直りが出来ない程の大打撃を与えられれば大勝である。
 軍事的には全兵力の五割の兵を失えば軍隊は組織的抵抗が不可能となり、その状態に陥れば「全滅」とされる。そこを差せば、僅か一〇騎で都に戻った平維盛は惨敗も惨敗の大惨敗であり、武田信義壇ノ浦の戦いに次ぐ大勝利を収めたと云える。

 そこまでの壊滅的な打撃を敵軍に与えられずとも、敵の兵糧の大部分を焼き払ったり、分捕ったり、敵軍を四部五裂に追いやったり出来れば、かなりの大勝である。殊に敵軍が混乱の中で敵味方の区別がつかなくなり、同士討ちを始めてくれれば「夜襲」そのものは戦果の多寡に関係なく大成功と云える。
 その観点に立つと、富士川の戦いにおける夜襲は、七〜一〇万もの敵軍を壊滅に追いやり、その後東海道において敵軍の妨害に遇うことなく進軍出来たことを考えると、かなりの結果オーライと云える。
 平家軍の逃げっ振りからも、恐らくは武具も兵糧もかなぐり捨てて敗走したと見られ、軍需物資的にもかなりの分捕り品を源氏軍は得たと見られる。そしてこの戦いの翌日、頼朝は末弟・九郎義経との対面を果たした。誰が敵で味方かもわからない状況下で兄弟対面が叶ったことからも、平家軍は完全に富士川周辺から逃げ失せていたとことが見て取れるのである。


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令和七(2025)年一月三日 最終更新