第肆頁 河越城の戦い……日本史上三大夜襲の一つ

夜襲の行われた戦い河越城の戦い
夜襲日時天文一五(1546)年四月二〇日
夜戦場武蔵河越城
攻撃方北条氏康
守備方上杉憲政
勝敗夜襲側の大勝利
卑怯度


背景 日本三大夜襲の一つにして、一般には河越夜戦とも呼ばれる。北条氏康が関東に大きく覇を唱える端緒となった戦いでもある。
 北条氏と云えば、豊臣秀吉が天下を統一した際に徳川家康がその旧領を下賜されたことから、「関八州の主」というイメージが強いが、氏康が父・氏綱の逝去を受けて家督を継いだ天文一〇(1541)年の段階で、その領域は伊豆・相模の二ヶ国、そしてようやく武蔵の大部分を制圧したところだった。

 まだまだ「関八州の主」にはほど遠かったが、それでも北条氏自体は上り調子にあり、一方それと敵対していた関東旧勢力はその勢力をどんどん侵食されていた。その敵対勢力とは、古河公方足利氏及び関東管領上杉氏だった。
 これらの諸氏は本来室町幕府が開幕した折に、旧鎌倉幕府の本拠である関東地方にて旧勢力残党が反乱するのを防ぐ為に室町幕府株式会社関東営業部とも云える鎌倉府を置き、中央に習って鎌倉公方と関東管領を置いたのが始まりだが、鎌倉公方は御世辞にも中央に従順とは云えず、独自の勢力を張り、公方はおろか、関東管領を務める上杉氏まで内紛を繰り返した。
 その上杉氏において扇谷上杉氏と山内上杉氏が対立する間隙を縫って氏康の祖父・北条早雲(伊勢盛時)が小田原を本拠に勢力を伸ばしたのは周知の通りだが、氏康の家督継承期にはそれまで仲違いしていた諸氏が共通の敵を前に団結しようとしていた。

 天文一四(1545)年八月、扇谷上杉氏当主・上杉朝定(ともさだ)と山内上杉家当主・上杉憲政(のりまさ)が手を結び、古河公方・足利晴氏を味方につけることに成功した。晴氏の妻は氏綱の娘で、謂わば、氏康晴氏は義兄弟の仲に在り、この離反は氏康にとって大きな痛手だった。
 晴氏が義兄弟から離反したのも、形成の不利を悟ったからで、甲斐の武田晴信(信玄)、駿河の今川義元も北条包囲網に加わっていた。
 晴信の最初の正室は上杉朝興の娘で、このとき既に故人だったが、それでも晴信と朝定は義兄弟の仲にあった。一方の今川家は、義元の祖母が早雲の姉で、氏康と義元は又従兄弟だったのに敵方に着いた。後世、氏康と晴信・義元が相甲駿三国同盟を結んだのは有名だが、この時点では、氏康の姻戚は敵に回り、敵は姻戚関係で団結したのだから最悪の状況にあった。

 そして対北条包囲網を完成させた両上杉軍・足利軍は北条網成(←元は今川家臣福島氏の出だが、氏綱の娘を娶り、北条姓となっていた)の籠る武蔵河越城に攻め寄せ、包囲した。
 河越城は名前の通り、現・埼玉県川越市にあった城で、川越市は今でも東京都渋谷・池袋と関東西北部を結ぶ交通の要衝で、河越城は元々上杉方の城で、網成が奪取したものを奪い返さんとしていた。
 その兵力は八万で、桶狭間の戦い川中島の戦いにて二、三万が大軍とされた時代においてはとんでもない数の暴力だった。


襲撃 両上杉氏と足利晴氏の連合軍八万に対し、当時の北条氏康が動員できた兵は二万が限界だった。勿論これは総動員しての兵力で、河越城救援の為に二万人全員を向ける訳にはいかなかった。
 氏康は外交手段を駆使し、武田晴信・今川義元のとは和睦を結ぶことで河越での戦いに介入されない布石を打った。信濃への進出を図る晴信、東海道を西に向かいたい義元、そして関東に覇を唱えたい氏康の利害は一致し、三者は後に同盟を結んだ訳だから、まずは外交的に打てる手は打てた。
 とはいえ、同盟相手でも油断出来ないのが戦国の掟、結局氏康が河越に向けることの出来た兵力は八〇〇〇で、城内の三〇〇〇と合わせても一万一〇〇〇が限界だった。勿論まともに当たっては勝負にならない。
 天文一五(1546)年四月二〇日、入間川の近くに着陣した氏康は自軍を四隊に分け、各隊取り決めの場所から不必要に動かず、同士討ちを避ける為に合言葉を決め、鎧に白い紙を肩衣のように身に付けさせ、重い指物や馬鎧を身に付けず、倒した敵の首を取らないよう取り決めた。

 一方で氏康は夜襲以外にも巧みに相手の油断を誘っていた。それは偽りの和睦申し入れである。晴氏上杉憲政に対して氏康は使者を送り、「城兵の命を助けてくれれば、河越城を開城し、周辺領土の割譲に応じる。」と申し入れた(←勿論大嘘)。
 この申し入れを晴氏憲政は突っ撥ねるとともに、彼我の兵力差からも北条方には全く戦意が無いと思い込み、完全に油断した。
 そして足利・両上杉軍が眠りこける夜中、北条勢は襲い掛かった。


夜襲の効果 夜襲に限らず、奇襲の要諦は敵の「油断」を突くことに在る。「油断大敵」と云う言葉を知らない日本人はまずいないと思うが、戦争のみならず、スポーツでも、サラリーマン社会での諍いでも、ありとあらゆる勝負で油断を突かれた者が格下相手に不覚を取った例は枚挙に暇がない。『魁!!男塾』では、敵キャラが見下していた主人公サイドのキャラに劣勢を強いられた際に、決まり文句の様に「油断したぜ…。」とこぼしている(笑)。
 話が逸れたが、「油断を突く」という云う意味では、この河越城の戦いにおける夜襲は、日本戦国史上屈指の効果を挙げたと云える。

 北条氏康の狙いは図に当たり、不意を突かれた足利・上杉連合軍は組織的抵抗もままならず、各所で同士討ちを展開(←完全に夜襲が図に有った際の定番である)。氏康自らも抜刀して十数人を倒し、各部将の活躍、更には機を見て城内から守将・北条氏綱が打って出たこともあって扇谷上杉方では総大将・上杉朝定が討たれ、名のある武士三〇余名が討ち死に。朝定に後継者がいなかったため、扇谷上杉家は滅亡した。
 山内上杉軍では上杉憲政が上野平井へと敗走。城内の綱成はこの機を捉え、三〇〇〇騎を率いて打って出ると、足利晴氏も関東諸氏の軍ともに敗走した。
 足利・両上杉連合軍は約一万三〇〇〇人が討ち死にし、戦後上杉氏の家臣の中には氏康方についた者も少なくなかった。

 河越城の戦いはその知名度の割には実態が余り伝わっていない戦いで、如何に氏康が名称でも一〇倍もの兵力差を覆したことには「誇張」の声も囁かれることが多い。だが、周囲の大名勢力との対峙した状況からこの戦いで当時の氏康が河越に率いることに出来た兵力として約八〇〇〇というのは打倒の数と見られている。
 一方の足利・両上杉連合軍だが、これも三氏が合力したとなると数万は下らないと見られ、氏康が劣勢を巧みに覆したことは疑いようもないだろう。

 戦後、扇谷上杉家は滅亡し、山内上杉家の当主・憲政が越後の長尾景虎を頼って彼の養父となったのは有名である。晴氏も(義兄弟の縁もあってか)命こそ助かったものの古河公方としての求心力を完全に失い、その後も氏康に翻弄され、失意の内に病死した。
つまり三氏はこの敗戦で壊滅したに等しく、そのすべてが河越城の戦いにおける戦果とまでは云わないが、まさかの大敗による精神的衝撃が大きく影響していると云っても過言ではないだろう。


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令和七(2025)年二月八日 最終更新