第伍頁 厳島の戦い……中国覇権逆転劇
夜襲の行われた戦い 厳島の戦い 夜襲日時 天文二四(1555)年一〇月一日 夜戦場 安芸厳島 攻撃方 毛利元就 守備方 陶晴賢 勝敗 夜襲側の大勝利 卑怯度 五
背景 日本三大夜襲の一つ。この厳島の戦いが高名な要因は二つある。一つは中国地方の大大名、大内氏が滅亡し、毛利氏が取って代わる端緒となったこと。もう一つは戦史上類を見ない程の大逆転劇であったことにある。
名目上は、大内家重臣である陶晴賢と、大内氏の属国である安芸の地方領主・毛利元就との合戦だが、当時の大内家は実質の最高権力者である晴賢に牛耳られており、元就も大内傘下からの脱却を決心していたので、事実上、「陶対毛利」の合戦だった。
両者が戦うことになった背景を知るには、共に先代、先々代に遡る必要がある。
安芸の国人領主に過ぎない毛利家は周防の大内と出雲の尼子に挟まれた弱小勢力で、丸で織田と今川に挟まれた松平家に等しかった。一応、元就の父・弘元は親大内派で、嫡男・興元を大内氏に人質に差し出していた(元就の父・弘元も、兄・興元も、嫡男・隆元も歴代大内家当主から片諱を賜っている)。
だが、尼子氏の襲撃を受け、進退窮まった弘元はまだ若いのに敢えて隠居して興元に毛利家を継がせ、親大内の立場を取らせ、自身は次男の元就と共に尼子に降伏し、どっちに転んでも毛利家が生き残れるよう取り計らったが、生き残りをかけて汲々とする心労と酒毒のために、弘元・興元は相次いで早世し、元就は興元の遺児・幸松丸を後見し、嫡男・隆元を人質に差し出し、親大内路線で領国経営を勧めた。
やがて幸松丸も夭折し、対尼子戦線の矢面に立たされた元就は度々窮地に陥り、思い余った隆元は父が気兼ねなく尼子に降伏できるように自害しようとしたことすらあった。そしてその自害を止めたのが大内家累代の重臣・陶隆房(後の晴賢)だった。
隆房は隆元を主君・大内義隆の御前に連れて行き、元就救援を訴え、義隆も腰を上げた。
これには毛利一族が隆房に感激し、隆元はその後、隆房や弘中隆兼等の大内家重臣や、自分と同じ国人衆で大内家に人質として来ていた者達と深く親交を結んだ。中でも隆房・隆兼は年が近いこともあって特に親しかったと云われている。また立場は人質でも温厚な性格の隆元は義隆の覚えも目出度く、後に大内家重臣・内藤興盛の娘を、義隆の養女として娶っている。
かような展開もあって、順調にいけば内外に優秀な人材を擁する大内氏はやがて尼子氏を滅ぼし、中国地方を統べ、その幕下で隆房は義隆の片腕、毛利は参加の有力豪族として両者は友情の元に協力し合い、それ相応の地位を築くかと思われた。
だが、月山富田城の戦いで大敗した義隆が戦意喪失し、文弱に陥ったことで多くの者の運命が変わり出した。隆房は再三義隆が政治・軍事に取り組み直すことを説いたが、義隆は隆房への信頼を口にして丸投げするだけで、遂には義隆を見限り、大内家立て直しを大義名分として反旗を翻した。所謂、大寧寺の変である。
天文二〇(1551)年八月に起きたこの変で、隆房は義隆を弑逆し、義隆の嫡男・義尊も落命した。隆房は豊前の大名・大友宗麟の弟で、義隆の甥でもあった大友晴英を大内家の第一七代当主に迎え、大内家の実権を握った。晴英は大内義長と改名し、(一応は)自分を当主の座につけた隆房に、元の名である「晴英」から片諱「晴」の字を与え、隆房は陶晴賢と名乗った。
かくして、一見、当主の首がすげ変わっただけに見えたが、これに前後して大内家内部では武断派と文治派の対立が陰に日向に置き、元就も密かに独立を画策していた。
大寧寺の変から三年後の天文二三(1554)年三月、石見の三本松城(現・津和野城)を本拠とする吉見正頼が晴賢に反旗を翻し、打倒の兵を挙げたため、晴賢は大内勢を率いて三本松城を包囲し、元就にも参戦を呼びかけた。
だが、元就はこれに応じず、それどころか同年五月一二日、元就は完全に晴賢との決別を決心し、桜尾城など四城を攻略し、厳島まで占領し、いずれ晴賢との対決することになるのに備えて、厳島・広島湾周辺の諸城や水軍の守りを固めた。
当然、晴賢はこれを大内家及び自分自身への背信として激怒し、(自身は三本松城攻略から離れられなかったので)配下の部将を派遣して元就を討たんとするも、元就は国人衆や瀬戸内の水軍衆(半ば海賊)と結び、出雲の尼子氏や九州の少弐氏と提携したり、大内家臣に調略の手を延ばしたりした。
それ等のすべてが上手く行った訳ではなかったが、派兵されてきた部将相手にはそれなりに勝利を収め続け、本腰を入れられない晴賢の間隙を縫って毛利勢が周防に雪崩れ込むこともあり、特に厳島を攻めて来た陶方の急先鋒・江良房栄を謀略でもって内通を疑わせることに成功したのは大きく、天文二四(1555)年三月一六日に房栄は晴賢の命を受けた隆兼に誅殺された。
その後約半年に渡って毛利勢と大内勢(実質陶勢)は水陸双方で干戈を交え、六月に元就自身厳島に渡海し、宮尾城を視察し、配下に軍勢五〇〇を与えたりした。
そして七月七日、晴賢の部将・白井賢胤が宮尾城を攻めるが撃退され、一〇日には三浦房清率いる水軍が兵五〇〇で仁保城を攻めるが落とせず、敗れた房清は厳島上陸を晴賢に進言した。
事ここに至り、晴賢は九月二一日に周防・長門・豊前・筑前等の軍勢を引き連れて岩国から出陣。その兵力二万余と云われている(諸説あり)。陶勢は玖珂郡の今津・室木の浜から五〇〇艘の船団で出港して海路で厳島に向かい、同日の夜は厳島の沖合に停泊し、翌二二日早朝に上陸した。
襲撃 中国地方の覇権の行方を決定付けた厳島の戦いは日本史上に在って知名度の高い戦いである。だが、戦後、様々な立場の者が各自の視点で記録を残したため、兵数・戦に前後する諫言・局所における言動に諸説あり、なかなかその実像が詳らかではない。
それゆえ、申し訳ないが薩摩守の独断と偏見で「妥当」と思われる展開を諸説からピックアップして以降の文章を綴らせて頂く。参考となった書籍や史料の紹介は割愛させて頂き、伝聞形も用いないが、ご容赦願いたい。
まず、文章だけでは訳が分からなくなるので、おおまかな地勢として下の図を参照頂きたい。
「毛利元就が中国10カ国を平定するまで重ねた苦労 3枚目の画像より抜粋した画像を編集」
天文二四(1555)年九月二二日、陶晴賢は厳島に上陸した。前夜の軍議にて宮尾城を攻めるに際し、弘中隆兼は毛利軍が背後から攻撃してくることへの懸念を示したが、晴賢は無視した。
晴賢は、上陸した大元浦から三浦房清と大和興武を先陣として駒を進め、自身は宮尾城が見通せる塔の岡に本陣を置いた。二万を超える陶軍の布陣は大聖院や弥山に至る広いもので、北の杉ノ浦から南の須屋浦まで海側も警固船で埋め尽くされた。
晴賢は、宮尾城を尾根沿いに陸路で攻め、城の水の手を断とうした。
一方の毛利元就は二四日、陶軍厳島上陸の報を受けて佐東銀山城を出陣し、水軍の基地でもあった草津城(現・広島市西区)に着陣した。元就・隆元率いる毛利軍には、元就次男・吉川元春の軍勢と熊谷・平賀・天野・阿曽沼諸氏の安芸国人衆が加わっており、更に水軍を率いる元就三男・小早川隆景勢も合流した。
宮尾城兵を除く毛利軍の戦力は、兵四〇〇〇、軍船一一〇?一三〇艘程度で、小早川傘下に入っていた因島村上氏の加勢を加えても二〇〇艘に満たなかった。かねてより小早川家家臣・乃美宗勝が沖家水軍(能島村上氏・来島村上氏)と交渉に当たっており、元就は草津城で援軍を待った。
二六日、元就は熊谷信直に五〇?六〇艘の船を与え、宮尾城へ援軍として派遣。同日、隆景に対しても村上水軍の救援催促を急ぐよう指示した。
この間、陶軍は宮尾城の堀は粗方埋められ、水源も断たれたが、陶軍は二八日と二九日の両日は日が悪いとして総攻撃が延期した。一方の元就は「これ以上来島を待てないので、毛利・小早川の水軍だけで宮尾城に出陣する。」との指示を隆景に出した。
二八日、元就は草津城を出て、地御前(現・広島県廿日市市)に全軍を前進。同日、村上水軍二〇〇?三〇〇艘が毛利軍の救援に駆けつけた。元就は村上水軍に厳島を回り込んで掛け声や櫓拍子などで目立つように西側から陶軍に近づくよう指示し、村上水軍が陶方に付くかのように見せたが、隆兼は、村上水軍が毛利方に付いたのを見て水軍力の差で劣勢に陥ったことを認めると書面に書いていたので、この偽装はバレていたと思われる。
三〇日、元就・隆元・元春等の率いる本隊、隆景を大将に宮尾城兵と合流した第二軍、村上水軍の第三軍に分かれて厳島に渡海する準備を行った。
夕方頃になって天候が荒れ始め、雷を伴う暴風雨になるが、元就は「今日は吉日」であると称して風雨こそ天の加護であると説き、酉の刻(一八時)に出陣を決行。
本隊は敵に気付かれないよう元就の乗船する船のみ篝火を掲げ、厳島を密かに東に回り込み、戌亥の刻(二一時)頃に包ヶ浦と呼ばれる厳島東岸の浜辺へ上陸。元就は、すべての軍船を返すように児玉就方に命じて背水の陣の決意を将兵に示した。その後、吉川勢を先陣に博奕尾の山越えを目指して山道を進軍した。
一方、第二軍・第三軍は、夜の海を作戦通りに厳島西方の水道・大野瀬戸まで西進、大きく迂回してから厳島神社大鳥居の近くまで近づいた。小早川隊は、乃美宗勝等の進言により、敵味方の区別が付けられないほどの風と闇に乗じて岸に近づき、「筑前から加勢に来たので陶殿にお目通りする。」と称して上陸した。そして第三軍・村上水軍は沖合で待機し、開戦を待った。
明けて一〇月一日、卯の刻(六時)に毛利軍の奇襲攻撃が開始された。
博奕尾を越えてきた毛利軍本隊は、鬨の声を上げて陶軍の背後になる紅葉谷側を駆け下り、これに呼応して小早川隊と宮尾城籠城兵も陶本陣のある塔の岡を駆け上った。
塔の岡で戦いが始まったのを見て、沖合に待機していた村上水軍が陶水軍を攻撃して船を焼き払った。
前夜の暴風雨で油断していた陶軍は、狭い島内に大軍がひしめいていたことから進退もままならず、総崩れとなった。
挟撃を受けて狼狽する陶軍の将兵達は我先にと島から脱出しようとして、舟を奪い合い沈没したり、溺死したりする者が続出。弘中隆兼・三浦房清・大和興武等が手勢を率いて駆けつけて防戦に努めたが、大混乱に陥った陶軍を立て直すことは出来ず、晴賢も島外への脱出を図った。
敗走する晴賢等を吉川隊が追撃。
それを阻止せんとして弘中隆兼・隆助父子の手勢五〇〇が厳島神社の南方の滝小路を背にして立ちはだかった。途中、陶勢三〇〇が横から吉川隊を突いたため弘中隊が一時盛り返すも、吉川隊にも熊谷信直・天野隆重隊が援軍に駆けつけ、最終的に弘中隊は大聖院への退却を余儀なくされた。
この時、毛利軍の追撃を防ごうとして隆兼等が火を放ったため、厳島神社への延焼を危惧した元春は配下に追撃を中断しての消火活動を命じた。
晴賢は最初に上陸した大元浦まで辿り着いたが、、脱出に使える舟は無かった。そこに隆景の手勢が追いついてきたため、房清が殿軍となり、激しく抵抗。隆景が手傷を負う程の大抵抗だったが、そこに消火を終えて追いついた吉川勢が加勢したことで遂に房清は討ち死にした(房清は自分が晴賢に厳島上陸を進言したこともあって、相当責任を感じていた)。
極僅かな近侍達に守られた晴賢は、更に西の大江浦まで着いたが舟は見つからず、伊香賀房明の介錯によって自刃。最期まで付き従った房明、柿並隆正、山崎隆方の三人が山中に晴賢の首を隠した後、自害した(晴賢の首は四日後に草履取りが助命と引き換えに場所を白状したことで毛利勢の手に落ちた)。
厳島での戦闘は一四時頃までにはほぼ終結した。唯一弘中隊が大聖院を経て弥山沿いの谷を駆け登っており、手勢一〇〇?三〇〇を率いて隣接する山の絵馬ヶ岳の岩場に立て籠もって抵抗を続けたが、山頂を包囲した吉川勢の猛攻を受け、徹底抗戦するも、隆兼は三日に討ち死し、息子の・隆助を含め弘中隊は全滅した。
この戦いで討たれた陶兵は四七八〇人、捕虜三〇〇〇余人とされている。周知の通り、この戦いで陶晴賢を失った大内氏と陶氏は急速に弱体化した。
夜襲の効果 大事を為すのには、「天の時・地の利・人の和」が大切だと云われている。本来の意味とはやや異なるが、夜襲とは「天の時」を巧みに生かす戦術である。そしてこの厳島の戦いに関して云えば、残る「地の利・人の和」も見事に毛利元就の掌中に落ちた。その意味では厳島の戦いは「効果的な戦果を挙げた夜襲の中の夜襲」と云えよう。
厳島の戦いは、誤解を恐れず云えば「戦国版屋島の戦い」とも云える。
屋島の戦いは暴風雨の中を強行上陸した源義経が兵士軍の背後に回り、完全に油断していたところを奇襲して大勝利を収めたもので、この厳島の戦いにおける毛利軍も闇夜と暴風雨を縫って上陸したことで不意打ちに完全な成功を収めている。まさに「今渡るしかない。」という「天の時」を逃さなかったと云える。陶方では弘中隆兼が背後からの奇襲を用心するよう陶晴賢に諫言しており、晴賢が無視したとは云え、闇と悪天候に隠れた上陸でなければ陸兼に察知され、迎撃態勢を整えられていた可能性は充分にあった。
加えて「地の利」も見逃せない。
二万を超える陶軍は厳島に広く布陣しており、東西から挟撃されたことで大軍であるが故に島内各所でひしめき合い、組織的な抵抗が出来なかった。大軍の有利な点は数に物を云わせて敵を包囲して四方八方から攻められたり、波状攻撃を仕掛けることで敵軍に休む暇を与えずに代わる代わる休養充分の兵力を当てられたり出来ることに在る。
だが、それもこれも充分な体制を整えることが出来てのことで、各個撃破されて意味が無いし、パニックに陥ると大軍程質が悪い。陶軍はまさに夜襲・奇襲を受けたことで多勢を活かせず、収拾のつかない混乱の陥ってしまった。
パニックに陥った大軍を率いたとあっては、歴戦の勇士・陶晴賢、弘中隆兼といえども形無しであった。
残る「人の和」に関しては、これは双方ともにそれなりに存在した。
毛利軍は吉川元春・小早川隆景による迎撃・追撃が功を奏し、陶軍の抵抗に遇って一時的に不利に陥ってもすぐに友軍が加勢して戦況を覆した。一方で、ある程度奇襲を危惧していたこともあって弘中勢は二日に渡って抵抗し、散り散りになったとはいえ、晴賢にも近侍達が最後の最後まで運命を共にした。
軍としての結束は双方譲らずそれなりに有ったと思われるが、個々の役割を果たしたと云う意味ではやはり毛利勢の方が一枚上手だったと云えようか。
周知の通り、この厳島の戦いにおける大勝利を機に毛利元就は中国地方に覇を唱える大大名に毛利家を押し上げた。大内家が陶晴賢を初めとする有能な将達を失ったことも大きいが、やはり厳島の戦いが非の打ち所の無い毛利方の大勝利だったことが大きと薩摩守は見ている。
というのも、戦国時代屈指の謀将であった元就は、陰謀に長けた自分が恐れられる一方で凄まじく嫌われているであろうことを自覚しており、毛利家を快く思う者は、国外はおろか、国内においても「一人もおるまい。」として三人の息子・娘婿・宍戸隆家の四人に一族結束の大切さを説いていた。
勿論、元就の子達がこの言によく従ったのも間違いないが、やはり厳島の戦いを初めとする智謀巧者振りをして、国人衆達に「逆らっては損。勝ち目無し。」と思わしめたのが大きいと思うのだが、些か過言だろうか?
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令和七(2025)年二月二五日 最終更新