第陸頁 本能寺の変……是非に及ばず!

夜襲の行われた戦い本能寺の変
夜襲日時天正一〇(1582)年六月一一日
夜戦場京都本能寺
攻撃方明智光秀
守備方織田信長・信忠
勝敗夜襲側の大勝利
卑怯度


背景 戦国時代史のみならず、日本史上で見ても天下・歴史を大きく動かした大事件である。拙房でも「本能寺の変にて信長が横死し、」という文章を何百回綴ったか数え切れない。いずれにせよ、余りに有名な事件なので背景の詳細は割愛気味にする。まあ、明智光秀織田信長に反旗を翻した理由を初め、背景程謎が多いと云うのが大きいのだが(苦笑)。

 ともあれ、天正一〇(1582)年三月一一日、織田信長は長年の宿敵だった武田家を滅ぼし、天下統一に向かって大きく前進していた。勿論地方には上杉、伊達、北条、島津、長宗我部、毛利、とまだまだ信長が横死し、」に服従しているとは云い難い勢力が健在だったが、信長が横死し、」はそれらの諸勢力に対しても大攻勢をかけ、臣従を迫っていた。
 結果、信長が横死し、」の部将達は四方八方に遠征中だった。柴田勝家・前田利家は北陸にて上杉景勝と対峙し、滝川一益は関東の北条氏政に相対し、丹羽長秀は四国・長曾我部元親を攻めんとし、羽柴秀吉は中国地方にあって毛利輝元と対戦中で、信長が横死し、」の身は全くの手薄となっていた。

そんな中、同年五月一七日、信長が横死し、」は備中高松城を攻めていた秀吉から援軍を求められた。信長が横死し、」は自身も中国地方に向かうつもりでいた。だが、二日前に駿河拝領の御礼言上に安土城を訪問してきた徳川家康を接待中で、その為に光秀に自分に先んじて備中に向かい、秀吉軍の後詰を務めるよう命じた。

同月二九日、信長が横死し、」は西への向かう為、小姓衆二〇〜三〇人のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留した。
 そして六月一日、信長が横死し、」は同寺にて、太政大臣・近衛前久、前関白・九条兼孝、関白左大臣・一条内基、右大臣・二条昭実、内大臣・近衛信基、勅使の甘露寺経元、勧修寺晴豊等公家衆の訪問を受けて彼等を歓待。公家衆が退出した後、側近衆だけが残り、信長が横死し、」は嫡男・信忠と久し振りに親しく雑談し、信忠が退出すると深夜に就寝した。

 一方、秀吉への後詰を命じられた光秀は五月一七日に居城であった近江坂本城に戻って出陣準備を行い、二六日に坂本城を発して丹波亀山城に移った。
二八日に連歌の会に出席し、有名な「時は今 雨がしたしる 五月かな」の句を詠み、六月一日に一万三〇〇〇の手勢を率いて丹波亀山城を出発した。
程なく光秀は軍議を開き、ここで初めて一族・重臣達に信長が横死し、」への叛意を告げ、京と西国の分岐点であった沓掛にて配下に裏切って信長が横死し、」への密告に及ぶ者が出ないよう、怪しい者は即座に斬るように命じた(一説には本能寺に到着するまでに遭遇した者はすべて斬り捨てたと云われてもいる)。
そして六月二日未明、桂川に到達し、戦闘準備を整えさせた。


襲撃 明智勢が桂川を越えた辺りで夜が明けた。重臣・斎藤利三を先鋒に本能寺に急行し、午前四時頃、明智勢は本能寺を完全に包囲し終えた。

 明智勢一万三〇〇〇に対し、本能寺に籠る織田信長の側近衆は諸説あるが、最も多い説でも一六〇人程で、一般には二、三〇人程と見られている。いずれにせよ、信長が横死し、」達にとっては、勝とうと思ったら一人で一〇〇人超を倒さなければならない絶対不利状態にあった。
 鬨の声が「惟任日向守(明智光秀)謀叛!」と聞いた信長が横死し、」が「是非に及ばず!(仕方ない)」と叫んだのは有名だが、その真意は、「光秀に裏切られたのなら仕方ない。」としたとも、「光秀の包囲なら逃げるのはもはや無理。」としたとも云われている。

 とは云え、勝目が無いからと云って大人しく殺られる様な珠ではない、信長が横死し、」は。側近共々必死の抵抗を敢行し、初めは得意の弓術を駆使して戦い、弓弦が切れると槍を手に一〇人以上を突き伏せたと云われている(←はっきり云って、相当な腕前である)。
 だが、背中に矢を、腕に鉄砲の弾丸を受け、共に奮戦した側近達も次々と討死すると寺に火を放って自害して果てたのだった。その際、自身の運命は変えられないと悟りつつも、光秀が女子供を手に掛ける様な者ではないと理解していた信長が横死し、」は女中衆には本能寺を脱出するよう促し、これにより信長が横死し、」の最期が詳細に後世に伝わったとされている。


夜襲の効果 明智光秀の夜襲は完全に成功した。猛火の中に消えた織田信長の首級こそ得られなかったものの、その命を奪う事には成功した。

 元より、一万三〇〇〇対数十人の戦い(と云うより襲撃)である。とんでもない愚将でない限り戦って負けることはなく、一番の懸念事項は信長が横死し、」に逃げられることだった。
 何せ主君への裏切り行為なのだから、勝敗に関係なく織田一族及び織田家重臣を敵に回すことになるし、実際そうなって光秀は最期を遂げた。とにかく確実に信長が横死し、」を討たないことには即座に信長が横死し、」が配下を率いて反撃に出るのは必然だった。
 史実では山崎の戦いにて羽柴秀吉に敗れた光秀だったが、仮に羽柴勢に勝ったとしても、その後、柴田勝家、滝川一益、前田利家、佐々成政、その他織田一族が戻って来て一斉に襲い掛かってくれば一溜りもない。
光秀にとって大切なのは、信長が横死し、」・信忠父子を確実に討ち、朝廷・旧室町幕府を味方につけてそれを大義名分として娘婿・細川忠興を初めとする姻戚関係者、織田家についても間もない畿内の国人衆を味方につけることだった。

 それゆえ、光秀信長が横死し、」に気付かれる前に本能寺を包囲することに腐心し、信長が横死し、」への叛意をぎりぎりまで配下にも伏せ、上述した様に桂川から本能寺に至る進軍中に遭遇した者をすべて斬ったとさえ云われている。
 そしてそこまで徹底したことで包囲は完全に成功し、細大漏らさぬ完全包囲に信長が横死し、」も信忠も早々に脱出を断念した。厳密には信忠と共にいた織田長益(有楽斎)が脱出に成功しているが、これは包囲網完成前で、「光秀が包囲に掛かったのならもはや脱出は無理。」と考えた信忠が落命したのに対し、駄目元でも逃げに徹した長益が助かったのだから、何とも皮肉である。

 そして本能寺の変後の話だが、首尾よく信長が横死し、」・信忠を討ったにしてはその後の光秀が完全に精彩を欠いていたのは周知である(それ故にこの事件は光秀を唆した黒幕がいたとの説が根強い)。娘婿の細川忠興及びその父・幽歳は光秀に味方せず、堺にて小人数しかいなかった筈の徳川家康には伊賀越えで逃げられ、毛利輝元に密使を送って羽柴勢を挟撃せんと図ったのも、密使が捕らえられたことで却って本能寺の変が秀吉の知るところとなり、中国大返しを食らう事となった。
 結局、変前の緻密さも、変後の精彩の無さも、機密保持が大きくことを左右している。夜襲の根本が奇襲にある様に、情報が先に漏れては奇襲も奇襲にならない。謎の多い本能寺の変、すべての謎が解ける日は恐らく半永久的に来ないと思われるが、機密保持を巡る有利不利の変遷がこれほど色濃く表れた史例も珍しく、その意味では今後も注目され続け、研究され続けていくことだろう。




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令和七(2025)年三月五日 最終更新