第参頁 川島皇子……親友と思っていたのに

冤罪事件簿 参
事件事件名無し
讒言者川島皇子(かわしまのおうじ)
讒言された者大津皇子(おおつのおうじ)
処罰実行者鵜野讃良(うののさらら)
黒幕同上
讒言悪質度


事件 事件が起きたのは天武天皇崩御直後のことだった。
 朱鳥元(686)年九月九日、第四〇代天皇である天武天皇が崩御。皇位は数多くいる皇子の中から次男・草壁皇子が即位することが生前から決定していた。

 当時は天皇が崩御しても皇太子がすぐに即位する訳ではなかった。天武天皇の遺体が冷え切らない一〇月二日、天武天皇の三男で草壁皇子の異母弟・大津皇子が草壁皇子に対する謀反の容疑で捕らえられたのだった。



讒言者 大津皇子に草壁皇子に対する謀反の企みあり、として訴え出たのは川島皇子である。
 川島皇子は天智天皇の第二皇子で、壬申の乱にて兄である大友皇子(弘文天皇)が自害に追いやられるも、彼自身は天武天皇の娘を妻としていたこともあって、天武政権においても重要な皇族としてその地位を保っていた。

 天武天皇八(679)年五月五日、天武天皇・鵜野讃良(うののさらら。後の持統天皇)・六人の皇子(草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子・川島皇子・志貴皇子)が吉野に行幸し、翌日、天武天皇は草壁皇子を皇太子と定め、六人の皇子に異母兄弟同士互いに助け合い、決して争わないことを誓わせた(吉野の盟約)。

 拙サイトで何度も述べているが、この時代の家系図を描こうとすれば婚姻関係で訳の分からないことになる。現代の感覚では余り考えたくないが、従兄妹での結婚はおろか、叔父と姪の婚姻、果てまた母親が異なれば兄妹・姉弟での婚姻すら存在した。
 それゆえ、血の繋がった身内でも殺し合うことが珍しくない一方で、仇の一族(勿論自分にとっても一族である)との婚姻もあり得た。

 そんな中、川島皇子は兄の仇である天武天皇(叔父であり、姉妹の夫でもあり、岳父でもある)に仕え、大津皇子とは親友でもあった。
 だが、結局この川島皇子の密告により、大津皇子は草壁皇子に対する謀反の意有りとして、捕縛された。

 史書によると川島皇子は温厚でゆったりした人柄で、度量も広かった、とされていたが、その後はフツーに朝廷に仕え続け、その生涯を閉じたのだった。



注進と処断 事件は川島皇子の密告がすべてだった。逆に云うとそれ以外に大津皇子が謀叛を企んだ証拠はなく、共に処刑された者もいなかった。

 密告は川島皇子鵜野讃良に行ったことで即座に大津皇子が捕縛され、翌日の一〇月三日に大津皇子は自邸にて自害を命じられてその生涯を閉じた。
 現代日本の裁判と単純比較するのは不適切かもしれないが、逮捕の翌日に処刑されているとあっては、完全に頭から有罪と決めて掛かっての処断であったことは誰の目にも明らかであろう。



真相と悪質度 本当に謀叛が実行に移されたのならともかく、未然に防がれた場合、下手人に本当に謀反の意があったのかどうかを万人に確信させるのは極めて難しい。
 大津皇子に限らず、「謀反人」として処刑されたもので、本当に翻意が有ったか否か疑わしいものは枚挙に暇がない。
 個人的見解による結論を先に書くと、これはもう、大津皇子の能力・人気を妬み、息子・草壁皇子の対抗馬となることを警戒した鵜野讃良に、川島皇子が忖度して讒言で大津皇子を消したとしか思えない。

 上述した様に、大津皇子は逮捕の翌日に自害を命じられている。どう見てもまともな取り調べが行われたとは思えない大津皇子が謀叛する気でいたと自供したとの記録もなく、他に連座した者の記録もないとあっては、これはもう冤罪であろう。

 そこで、最後に、何故にここまで強引な冤罪処刑が行われたのかを考察したい。
まず、「謀叛で狙われた。」とされた草壁皇子だが、彼は天武天皇の妃の中で最も発言力の有った鵜野讃良の産んだ子で、皇位継承者の座を勝ち得たのは偏に母親のごり押しによるものだった。

 讃良によるごり押しが無かったとするなら、才能・宮中人気の両面で次期天皇と目されていた筆頭が三男・大津皇子だった。大津皇子は体格や容姿的にも逞しく、性格は寛大で幼少時から学問・読書を好み、知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸にも優れ、自由奔放でありながら謙虚で、人士を厚遇したゆえ、その人柄を慕う者は多かった。
 また、当時の皇位継承は必ず嫡男・長男が継ぐとは決まっていなかったが、大津皇子の母・  大田皇女は鵜野讃良の実姉(父は天智天皇)で、普通に考えるなら大津皇子は極めて皇位継承の可能性が高かった。

 そしてそれを懸念する故、彼女は天武天皇が元気な内に草壁皇子を立太子し、吉野の盟約を結ばせて草壁皇子の立場を安泰たらしめんとした。正直、大津皇子と草壁皇子に能力・人格・人望においてどれほどの差があったのかは詳らかではないが、天武天皇崩御後に後継者の座が覆されかねないと見ていたのだから、相当な差が有った見られる。
 恐らく、草壁皇子が天皇として申し分ない人物だったとしても、それを遥かに上回る力量と人望が大津皇子にあったのであるまいか?

 この事件が冤罪だったと見る一つの根拠として、草壁皇子がすぐに即位せず、結果として夭折してしまった点に薩摩守は注目している。
 現在では天皇の大尉や崩御に対して皇太子または皇位継承第一位にあるものが翌日には次代として即位するが、この時代は間が開くことも珍しくなかった。とはいえ、天武天皇崩御時の草壁皇子は二七歳で、既に軽皇子(後の文武天皇)という子もいて、年齢的には即座に即位しても全くおかしくなかった。
 だが、即位しないまま事件の翌年に急死したことで幼少の軽皇子が成長するまでの間、鵜野讃良が持統天皇として即位することとなった。結果的に草壁皇子の血筋は奈良時代に称徳天皇が崩御するまで存続したから、讃良のごり押しは結果的な成功を収めている。ただ、あれほど渇望した草壁皇子の即位が即座に為されなかったのも、大津皇子処刑のイメージが極めて悪く、それのほとぼりが冷めるまで待たんとした結果、先に草壁皇子が急死して、即位が幻と消えたのではあるまいか?

 一方、大津皇子を讒言で死に追いやった川島皇子だが、史書によると決して人望が無かった訳ではなく、その人柄もそこそこいい評判を持っていた。だが、大津皇子に関する密告―それも讒言であるとしか思えない―に対しては「薄情」と見る目が大きく、「謀反を未然に防いだ。」として公式には朝廷として大いに賞賛されたが、皇子・重臣の中には個人としては口を噤む者も多く、世間一般には極めて評判が悪く、それゆえ彼及び彼の家系は皇室の一門でありながら以後の歴史における影が薄かったのではあるまいか?と考える次第である。


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令和六(2024)年一月一二日 最終更新