第肆頁 藤原四兄弟……さすがに祟られたか?

冤罪事件簿 肆
事件長屋王の変
讒言者漆部君足(うるしべのきみたり)・中臣宮処東人(なかとみのみやこどころあずまびと)
讒言された者長屋王(ながやのおう)
処罰実行者聖武天皇
黒幕藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)
讒言悪質度
事件 事件の始まりは聖武天皇とその妃・光明子の皇子である基皇子の夭折にあった。
 神亀四(727)年閏九月二九日に生まれた基皇子は、その誕生を驚喜した父・聖武天皇によって生後僅か三二日で立太子され、皇太子となった。
 かかる幼さでの立太子は勿論異例中の異例で、この背後に聖武天皇と藤原家の密接な関係があったのは誰の目にも明らかだった。何せ聖武天皇は母・宮子も、妃・光明子も藤原不比等の娘なのである(さすがに宮子と光明子は異母姉妹だが)。その後事件にかかわってくる藤原四兄弟(長男・武智麻呂(むちまろ)、次男・房前(ふささき)、三男・宇合(うまかい)、四男・麻呂(まろ))は外伯父で、幼き日の聖武天皇が育ったのも不比等の屋敷だった。

 そんな血筋にあって、両親の愛情、母方一族の期待をもってその成長を楽しみにされていた基皇子だったが、不幸にも神亀五(728)年九月一三日に生後一年持たずして病死した。
 当然聖武天皇と光明子の悲嘆は深く、藤原四兄弟も意気消沈した。

 そんな悲しみの癒えぬ中、五ヶ月後の神亀六(729)年二月、聖武天皇の元に密告がもたらされた。それは皇族の一人で、左大臣でもある長屋王が左道(呪術)を習い、それをもって国家を危うくし、それによって基皇子を呪殺したとするものだった。



讒言者 まず最初に断っておきたいが、長屋王の変という事件を関わり方で見るなら、讒言者は漆部君足と中臣宮処東人である。
 この両名が聖武天皇に対して基皇子を呪殺したと訴えたことで長屋王は逮捕され、自害を強要された。

 実際、冒頭の評でも君足と東人を「讒言者」としているが、タイトルでは藤原四兄弟を「讒言者」としている。それはこの事件が完全に藤原四兄弟によるでっち上げで、密告者にして讒言者である君足と東人は「命じられたままに動いた駒に過ぎない。」と見て、この頁では藤原四兄弟を例外的に讒言の張本人と同一視している。
 推理小説では、「最も得した者を疑え。」という鉄則があるが、「長屋王が死ねば藤原四兄弟が喜ぶ。」と誰の目にも明らかだった程、その政治的敵対関係がこれほど顕著なのも珍しい。

 その藤原四兄弟だが、彼等は大化の改新で天智天皇に協力した功績で小役人の身から大きく出世した藤原鎌足の孫達である。天智天皇の死後は一時低迷したものの、鎌足の子・不比等は何とか勢力を盛り返し、娘・宮子を文武天皇に嫁がせ、宮子が皇子を生んだことでかつての蘇我氏、未来の子孫と同じく「天皇の外祖父」となった。勿論その皇子―首皇子(おびとのおうじ)こそが後の聖武天皇である。
 更に不比等は首皇子に娘・光明子を娶せることに成功し、不比等の息子四人も首皇子の外伯父として高位高官を約束された。

 基皇子薨去時、既に不比等は故人だったが、長男・武智麻呂は正三位で博学、次男・房前も正三位で政治的手腕は四兄弟一だった。三男・宇合は従三位で武人として優れ、四男・麻呂は正四位上で酒と音楽を愛して権力欲が薄かったことから藤原氏以外の貴族からの人気も高かった。
 かように四兄弟は祖父や父が築いた地位に胡坐をかくだけでなく、各々が自らの長所を発揮し、兄弟の苦手分野をカバーし合い、一致団結して光明子を盛り立てて藤原家の権勢を固めていった。

 そんな藤原四兄弟に真っ向から対抗してきたのが長屋王だった。天武天皇の孫で、高市皇子の子であった彼は左大臣の地位にあり、まだ摂政関白はおろか、太政大臣すら正式な官職では無かったこの時代、左大臣と云えば極冠にあるとさえ云えた。
 不比等存命中こそ官位的にその後塵を拝したが、年齢的には藤原四兄弟よりも年長で、宮廷歴も長く、政務に携わった期間も短くなかった。一方で、側室に不比等の娘を迎えており、藤原四兄弟とは義兄弟でもあり、政治路線も不比等路線を踏襲したもので、何も最初から藤原家と仲が悪かった訳ではなかった。

 両者の仲が悪化したのは、藤原四兄弟が藤原家と皇室の結び付きを強めるために行おうとしたことに長屋王が次々と「前例がない。」として反対してきたことにあった。
 一例を挙げると、聖武天皇が母・宮子に「大夫人」の称号を贈ろうとしたときも、四兄弟が光明子を皇后に就けんとしたときも、皇族でない彼女達に対して「前例がない。」と反対した。
 そんな地位的に、政治的に、目の上の瘤である長屋王を讒言で死に追いやった藤原四兄弟は閣僚八人の内、その半数を占め、一位を武智麻呂が、三位を房前が、四位を宇合が、五位を麻呂が担った。二位の多治比県守と八位の大伴道足は老齢で、六位の鈴鹿王は長屋王の実弟だが、兄とは似ても似つかない大人しい控え目の人物で、七位の橘諸兄は後々こそ巧みな政権運営を担ったが、この時点では凡庸としか見られていなかった。

 だが、周知の様にこの兄弟の天下は天平九(737)年の天然痘流行で幕を下ろした。
 朝鮮半島、九州経由で押し寄せてきた流行の波は遂に平城京にも侵入し、四月一七日に房前が、七月一三日に麻呂が病死し、直後に長兄である武智麻呂も発病した。
聖武天皇は驚き、同月二五日に正一位・左大臣に任じてこれを励まさんとしたが、武智麻呂はそれに満足したかのように、その日の内に息を引き取った。

 そして八月五日、四兄弟最後の一人である宇合も世を去った。
 鎌足や不比等の死後もそうだったが、四兄弟の息子達はこの時点ではまだ年も若く、藤原氏はしばしの雌伏を余儀なくされたのだった。



注進と処断 上述した様に讒言の内容は、「長屋王が呪いを掛け、基皇子が亡くなりました。」という、現代社会では一笑に付されるだけでしかないものだった。
 ただ、迷信深く、呪いと云うものが実在すると信じられたこの時代(雛祭りの人形も元々は病を治す為の呪術の一環だった)、高貴な人に対する呪詛は立派な犯罪だった(効き目があるか無いかは別として害意そのものが罪とされた)。
 加えて、愛児を失ったばかりの聖武天皇は完全に冷静さを欠いていた。

 讒言を真に受けた聖武天皇はその夜の内に、藤原宇合、佐味虫麻呂、津島家道、紀佐比物等を遣わして、六衛府の兵を率いて、平城京左京三条二坊の長屋王邸を包囲させた。
 翌神亀六(729)年二月一一日、舎人親王、多治比真人池守、藤原武智麻呂、小野牛養、巨勢宿奈麻呂等を長屋王邸に派遣し、長屋王の罪を取り調べた。
 取り調べ内容は不詳だが、『日本霊異記』によると包囲された時点で長屋王は自分に助かる道はないと諦観し、翌一二日に自害し、一族も自害した。
 謀叛の常で一族も連座させられた訳だが、一応皇族でもあったことから早い段階で実子以外は罪無しとされ、赦免された。殊に側室の一人だった不比等の娘は助かっているから、何をか況やである。



真相と悪質度 真相も何も、まず「左道」なるものがその実在が証明されない、でっち上げの産物である。
 長屋王が死んだことで藤原四兄弟は抵抗勢力の駆逐に成功した訳で、光明子は光明皇后となった。皇后になったと云うことは、聖武天皇崩御の際には光明皇后が天皇となることも地位上可能となったことを意味した(実際には聖武天皇と光明皇后の皇女が孝謙天皇となったが)。

 ただ、事件が長屋王抹殺を企んだ讒言だったのは誰の目にも明らかだったのだろう、怒りと悲しみで目を眩ませた聖武天皇を除いて。天平九(737)年に平城京にて天然痘が流行した際、長屋王自害から八年も経っていたにも関わらず、「長屋王の祟りでは?」との声が人口に膾炙したのだから、誰もが、「讒言で命を奪われた長屋王が祟ってもおかしくない。」と見ていたのだろう。

 そしてそれは彼を陥れた藤原四兄弟サイドも同様だったのだろう。天然痘の流行に対して聖武天皇は僧一〇〇〇人に疫病退散の加持祈祷を行わせると同時に、冤罪の疑いのあると思われた罪人達に恩赦も出した。勿論これらの措置に疫病を食い止める効果など無かったのだが、当時の人々は天災や疫病流行と云った人智の及ばない災禍は為政者に徳が無いことで起きると見ていたので、罪人達への恩赦も、「無実の罪で命を奪った長屋王に対する後ろめたさ」が心底にあって、その払拭を兼ねていたとしてもおかしくない。

 一方で、古代程為政者は自らの失政や判断ミスを認めることに目茶苦茶消極的である。表立った認めることはまずない。それでも何とかしたいので神仏に頼ったり、何らかの形で祀ったりした(←所謂、怨霊信仰である)。
 奈良の大仏建立が天然痘の流行や藤原広嗣の乱や数々の天災を仏教の力で防ごうとしたものであるのは有名だが、そこに長屋王に対する鎮魂・慰霊・謝罪が密かに込められていたとしても何の不思議もないだろう。


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令和六(2024)年二月六日 最終更新