第伍頁 藤原良房……讒言連発で出世?

冤罪事件簿 伍
事件承和の変(じょうわのへん)
讒言者不明
讒言された者橘逸勢(たちばなのはやなり)・伴健岑(とものこわみね)・恒貞親王(つねさだしんのう)
処罰実行者仁明天皇
黒幕藤原良房(ふじわらのよしふさ)
讒言悪質度
事件 事件が起きたのは承和九(842)年九月一五日の嵯峨上皇崩御直後のことである。上皇の遺体も冷え切らぬ二日後の九月一七日、橘逸勢伴健岑が逮捕された。容疑は二人が教育係を務めていた、皇太子・恒貞親王を東国に連れて行き、そこからの謀叛を企んでいたとするものだった。



讒言者 本来、この事件の讒言者は阿部親王(桓武天皇の孫、平城天皇の皇子、仁明天皇恒貞親王の従兄弟)とすべきなのだが、親王は完全にコマにされただけなので、藤原良房を讒言者兼黒幕として文章を進めたい。

 この承和の変薬子の変以来、三二年振りに朝廷を揺るがせた大事件だった。
 藤原種継暗殺事件に端を発した早良親王の怨霊による祟りから逃れるように長岡京が捨てられ、平安京が造営されて平安時代は始まった。平安遷都を行った桓武天皇崩御後、皇位は息子の平城天皇が継ぎ、平城天皇の退位により皇太弟の嵯峨天皇が即位した。
 その後、平城上皇は妻妾・藤原薬子に唆されて重祚を企んだが、情報を察知した嵯峨天皇は先手を打って謀叛は小火の内に鎮圧された。これが薬子の変だが、その後三二年に渡って、世の中は都城の名前の通り平安だった。

 嵯峨天皇退位後は皇位を弟の淳和天皇が継ぎ、淳和天皇が退位すると嵯峨上皇の皇子が即位し(仁明天皇)、仁明天皇の妹・正子内親王と淳和天皇の間に生まれた恒貞親王が皇太子となった。
 だが、恒貞親王を皇太子の座から引きずり降ろさんと画策する人物がいた。それが正三位・右近衛大将・藤原良房であった。時に良房三九歳。良房は藤原北家・藤原冬嗣の子で、北家始祖・房前の曾孫に当たった。
 北家は藤原四兄弟を祖とする南家・北家・式家・京家の中で後々最も栄えた家で、冬嗣も左大臣まで登り詰め、良房も嵯峨天皇に可愛がられ、良房の妹の順子(のぶこ)が嵯峨天皇の皇子・仁明天皇に嫁いでいた。
 まあ、文章だけではややこしくなるので、まずは以下の家系図を参照頂きたい。


括弧内の数字は天皇の代数

 承和九(842)年九月一五日の嵯峨上皇崩御時、淳和上皇は既に亡く、皇位にあったのは良房の義弟でもある仁明天皇だった。仁明天皇と妹・順子の間には道康親王(後の文徳天皇)が生まれており、良房にとって仁明天皇の後を道康親王が継いで欲しいのは、後々の藤原摂関家のやり方を見ても明らかである。否、子孫達が良房に習ったと云えよう。

 となると、藤原家の血を引いていない恒貞親王が皇太子の座にあるのは良房にとって障害でしかなかった。恒貞親王は「謀叛とは無関係」とされながらも、側近である橘逸勢伴健岑に対する監督不行き届きの責任を取らされる形で廃太子となり、替わって甥である道康親王が皇太子となり、後に文徳天皇となった。

 その文徳天皇には良房の娘・明子(あきらけいこ)が娶せられ、母と妻が藤原家の娘だった文徳天皇はほぼ良房の云うが儘となり、彼と明子の間に生まれた皇子が清和天皇として即したことで良房は「天皇の外祖父」となり、後に臣下として初めて摂政に就任し、藤原摂関政治の魁を為したのであった。
 その過程において良房は息子の基経共々数々の政争を展開するのだが、それは次頁に譲りたい。



注進と処断 切っ掛けは橘逸勢伴健岑恒貞親王の皇位継承に一抹の不安を抱いたことにあり、そこを上手く藤原良房に利用された。
 皇太子の地位にあるという事は、今上天皇が崩御または退位すれば次期天皇となることを約束されていることになる。しかしながら、桓武天皇の皇太弟だった早良親王の例からも、謀反の嫌疑を掛けられれば廃嫡されることは全然有り得る話だった。

 実際、恒貞親王自身、皇位に強く執着する人物でもなく、権力闘争を厭うて皇太子位辞退を申し出たこともあったが、それは嵯峨上皇によって慰留され続けた。そしてその嵯峨上皇は薬子の変を見事な手腕で早期に収めたり、弘法大師・空海を重用して日本仏教界一代改革の一翼を担ったり、書を取れば弘法大師様・逸勢とともに「三筆」に数えられるなど、決断力も行動力もある人物で、薬子の変以降、嵯峨上皇が健在な内は動乱もなく、藤原氏も陰謀を巡らすことを控えた。

 だが、その嵯峨上皇が危篤となると、陰謀を押さえられるか否かが微妙な雰囲気となり、逸勢健岑はあくまで恒貞親王の身の安全を図る意味での東国行きを検討した。だが、これを阿部親王に話してしまったことで、親王の口から嵯峨上皇の皇后で、逸勢の従姉妹でもあった橘嘉智子の耳に入り、嘉智子の覚え目出度かった良房の耳に入った。

 そして嵯峨上皇が崩御するや、それを待っていたかの様に(と云うか、実際にそれを待って)逸勢健岑は逮捕され、杖で何度も叩かれる拷問にかけられたが、謀叛を認めなかった(まあ、無実だし)。更に二三日に藤原良相(ふじわらのよしみ。良房の弟)が近衛兵を率いて皇太子の座所を包囲した。

 だが結局は奏上を受けた仁明天皇が詔を発して、逸勢健岑が謀叛を企んだと公式に認定し、恒貞親王に対して謀叛とは無関係としながらも、事件の責任を取らせる形で廃太子する、とした。
 そして事件には逸勢健岑だけでなく、多くの者が関わっているとして逮捕・処罰された。その中には良房と同じ藤原氏、それも良房と同じ北家の者まで含まれた。

承和の変で処罰された者
名前 氏族 地位 処罰
恒貞親王 皇族 皇太子 廃嫡
橘逸勢 橘氏 従五位下・但馬権守 伊豆へ流刑
伴健岑 伴氏 春宮坊帯刀舎人 隠岐、後に出雲へ流刑
藤原愛発 藤原氏北家 正三位・大納言 解任・京から追放
藤原吉野 藤原氏式家 正三位・中納言 太宰員外帥に左遷
藤原秋常 藤原氏南家 従五位下・少納言 石見権守に左遷
藤原貞守 藤原氏北家 従五位下・春宮坊亮 越後権守に左遷
藤原高直 藤原氏北家 従五位下・春宮坊大進 駿河権介に左遷
藤原近主 藤原氏式家 従五位下・春宮坊大進 伯耆権介に左遷
藤原正世 藤原氏式家 従五位下・刑部少輔 安芸権介に左遷
藤原貞庭 藤原氏式家 正六位上・春宮坊少進 佐渡権掾に左遷
藤原岑人 藤原氏南家 正六位上・民部大丞 越中権掾に左遷
藤原正岑 藤原氏式家 正七位上・兵部少丞 因幡権掾に左遷
藤原安成 藤原氏式家 正八位上・治部少丞 丹後権掾に左遷
この他にも橘氏・伴氏・清原氏・文室氏・坂上氏等にも処罰者多数。

 上は正三位・大納言から下は正八位・治部少丞まで藤原氏だけでも一一人が処罰された。しかも既に政界から遠ざかっていた藤原京家を除く藤原四家すべてから処罰者が出たのだから平安時代における政変の中でも屈指の大事件だった。
 ただ、これだけの事件で、しかも謀叛でありながらこの事件、同じ平安時代における薬子の変昌泰の変と比べてもこの承和の変の知名度は大きくない。偏に、誰一人死罪にならず、最も罪が重いとされた逸勢健岑でさえ流罪だったのが大きい、と薩摩守は見ている。
 というのも、この当時中央政府においては薬子の変以来死刑が廃止されていた(死刑の復活は保元の乱における戦後処理時)。
 正確には死刑自体は制度として存在していたのだが、死刑に相当する重罪だったとしても、「帝の恩情により、死を一等減じ……。」として、死刑に次ぐ重罰である流刑に留めるのが通例化していた(いつの世でも戦乱の世でもなければ、司法官とは慈悲深さを見せたがるものなのだろうか?戦後の裁判も大概判決は求刑を下回るもんなあ………)。
 罪過であれ、処罰であれ、死人が出ていることと出ていないことの差は極めて大きい。いずれにせよ、廃太子、流刑、大量の左遷を出して処罰は終了し、事件そのものは解決とされた。



真相と悪質度 はっきり云って、でっち上げである。それもかなり悪質な。
 確かに、藤原良房にとって、恒貞親王が皇位に就くか、道康親王(文徳天皇)が皇位に就くかではその後の政治的優位は大きな差があったことだろう。実際、自分の云いなりとなる文徳天皇が即位し、外孫である清和天皇が即位したことで後々の藤原摂関政治の礎を築けたのだから、権力を勝ち得る為に橘逸勢伴健岑を冤罪に陥れてでも恒貞親王を皇太子の座から追わんとの動機は充分過ぎた。

 確かに橘逸勢伴健岑恒貞親王の東国行きを画策したが、それは政治的避難が目的で、そもそも皇太子の座にある親王に謀反の動機がない。昨今、歴史上の謀叛とされた事件の中には、「実は実際に謀反を企んでいた。」と囁かれるものも少なくないのだが、少なくともこの承和の変にて逸勢健岑が謀叛を企んだ物証は無く(まあ、陰謀に物証がある方が珍しいが)、阿部親王の密告(それも根拠レス)のみで、これが偽証なら逸勢健岑の有罪を立証する証拠は皆無である。
 上述した様に、両名は拷問に掛けられても罪を認めなかった。正直、拷問に掛けられた経験がないから人間の耐久力との関係は不詳なのだが、八五年前の橘奈良麻呂の変では首謀者とされた奈良麻呂や大伴古麻呂を含む多数の関係者が拷問で死亡している。正直、死刑になる可能性が薄いのであれば、意志の弱い者なら苦痛に耐えかねてあっさり罪を認めてもおかしくないと思う。
 逆に「良房が事件をでっち上げた証拠を出せ!」と云われても困るのだが(苦笑)、結果的に逸勢健岑は罪を認めず、結局は仁明天皇が有罪と断定する詔を出したことで両名の有罪が確定した。つまり、真相はどうあれ、良房仁明天皇の力で有罪・無罪はどうとでも左右されたことが明らかである。こうなると何を云っても無駄であるし、逆説的だが、これこそが両名の冤罪を証明しているとすら云える。
 事件に託けて大勢の同族を罪に陥れた冷血漢・良房が、それでも逸勢健岑を死罪としなかったことは、無実の罪で刑死した者が祟りを為す怨霊信仰が盛んになりつつあった時代において、無実の者を死に追いやることを躊躇ったのではないだろうか。


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令和六(2024)年二月六日 最終更新