第陸頁 伴善男……「讒言」したら「密告」された

冤罪事件簿 陸
事件応天門の変(おうてんもんのへん)
讒言者伴善男(とものよしお)
讒言された者源信(みなもとのまこと)
処罰実行者清和天皇
黒幕不明
讒言悪質度


事件 応天門とは、平安京の大内裏の内側にあった門で、朝廷内での政務・重要な儀式を行う場であった朝堂院(八省院)の正門で、朱雀門のすぐ北にあり、朱雀門・会昌門と並ぶ重要な門であった。「応天門」の名は都城に複数ある門の名前としてはメジャーな名前で、平城京にも、中国唐代の宮門にも同名の門が見られる。
 そんな中、本頁で採り上げている応天門が特に有名なのは、この応天門の変と云う事件の舞台となったことと、「弘法にも筆の誤り」という諺が生まれるもととなった、空海(弘法大師)の筆による扁額が掲げられたことにある。

 事件は貞観八(866)年閏三月一〇日深夜に勃発、この応天門が放火されて炎上したのだった。正直、応天門が炎上・全焼した以外の被害(延焼度合い・死傷者の有無等)は薩摩守の研究不足により不明である。



讒言者 事件発生から程なく、「左大臣・源信が放火した。」との密告が右大臣・藤原良相(ふじわらよしすけ)に寄せられた。密告の主は大納言・伴善男で、応天門は伴氏が大伴氏を名乗っていた頃に造営したものだった。
 ここで讒言者である伴善男及び、伴氏について触れておきたい。

 伴氏は上述した様に元々は大伴氏で、古墳・飛鳥時代には蘇我氏・物部氏の後塵を拝していたとはいえ、中堅貴族として古代からの名家でもあった。だが、善男の祖父・継人、曽祖父・古麻呂が二代に渡って謀叛人として処罰されていた。
 古麻呂は奈良時代に橘奈良麻呂の変に加担したとして藤原仲麻呂の手の者に逮捕され、拷問の最中に死亡し、継人は平安時代直前の藤原種継暗殺事件の首謀者として処刑されていた。そして継人に連座して善男の父・国道も一時佐渡に左遷され、既に故人だった一族の大伴家持(やかもち。古麻呂の従兄で、有名な歌人)も処罰された(生前の官位を剥奪され、埋葬を許されなかった)。
 そしてこの呪われた宿命を脱しようとしたものか、淳和天皇の幼名が大伴皇子だったことから、「同じ名前は畏れ多い。」として「大伴」を「伴」に改めていた。

 そんな一族がダークなイメージに苦しむ渦中にあって、善男は弘仁二(811)年に生まれた訳だが、天長七(830)年に官人として仁明天皇に近侍したこと重用され、まずは順調なスタートを切った。
 承和八(841)年に大内記、翌年に蔵人兼式部大丞を、翌々年に従五位下・右少弁兼讃岐権守に叙任された。承和一三(846)年にある訴訟を巡って同僚五人を弾劾・失脚させ、かつて藤原種継暗殺事件に関与したとして没収されていた家持の田を、家持が既に赦免されていたことをたてに取り戻すなどの辣腕を振るった。
 その後も承和一四(847)年に従五位上・蔵人頭兼右中弁、翌年には従四位下・参議兼右大弁に叙任され公卿に列した。

 仁明天皇崩御後も善男の出世は続き、嘉祥三(850)に文徳天皇が即位するのに伴って従四位上に、仁寿三(853)年に正四位下、斉衡元(855)年に従三位、貞観元(859)年に正三位、貞観二(860)年に中納言となり、そして貞観六(864)年に大納言となるに至った。
 大伴氏・伴氏の大納言への任官は大伴旅人以来で、実に一三四年振りだった。出世のきっかけこそは仁明天皇の寵愛によるものだったが、その後天皇は文徳天皇・清和天皇と代替わりしており、この間藤原家の力が増大していた真っ最中だったので、善男は純粋に有能だったのだろう。

 一方で、毀誉褒貶の激しい人物でもあった。
 生まれつき「人品が優れている。」とされていたが、「狡猾であり悪賢い男」とも呼ばれており、傲岸で人と打ち解けなかったと云う。弁舌が達者で、明察果断、政務に通じていたが、寛裕高雅さがなく、性忍酷であったという。
 容貌も「眼窩深くくぼみ、もみあげ長く、体躯は矮小であった。」と史書に記されている。勿論容姿と才能は関係ないのだが、古代にあっては強面・異相・奇相も個性の一つと見られていたし、能力や性格が目立つほど容貌にも触れられた。
 それゆえ、善男は仲の良し悪しが極端だった訳で、当時権力絶頂にあった藤原良房とは『続日本紀』の編纂に加わり、その弟・良相とも親しかったが、嵯峨源氏の源信 (嵯峨天皇の元皇子)とは仲が悪かった。



注進と処断 上述した様に、応天門が放火されて程なく、伴善男は藤原良相に下手人は源信であると訴えた。
 良相は直ちに兵を率いて邸を包囲し、邸内は恐慌状態に陥り、の家族が非常に嘆き悲しんだ様子が国宝・『伴大納言絵詞』には描かれている。
 この時、邸包囲の準備を整えている良相に驚いた甥の基経は驚いて父・良房にこのことを知らせた。就寝中にそのことを基経から知らされた良房も驚愕した。
 左大臣邸を包囲する軍事行動に等しい動きを太政大臣であった彼に知らさていなかったことに、である。ともあれ良房は平服のまま外孫である清和天皇の元に出向いた。

 清和天皇も大叔父であるにかかる疑惑があることに驚き、「証拠も無しに酷い話だ、左大臣に罪のあろう筈がない。」として勅命を発して参議・大江音人と左中弁・藤原家宗を邸に派し、仲裁が行われた。
 そして善男が常日頃から不仲であったことや、物証が無いことからもに罪無しとされ、清和天皇の言葉に対して感涙に咽んだは所有していた駿馬一二頭・従者四〇余名を朝廷に献上し、反乱の意図がないことを示そうとした(朝廷側は受け取らなかったが)。

 が完全に無実なら、善男の行ったことは誣告(中傷)で、の有罪を証明出来ないのであれば、本来厳罰対象である。だが、を訴えたことで善男が罰せられることは無かった。
 この時代の律令制と現代の刑法・司法を単純比較するのもなんだが、敢えて現代風に云うのであれば、は証拠不十分、または嫌疑不十分で不起訴とされたといったところだろう。一方の善男は偽証罪に問われかねないところだが、これも証言が確証を得るには至らないと云う判断で不問とされたのだろう。
 上述した様に善男が不仲だったのは周知だったので、善男を讒言していると考えた者は多かったことだろう。だが、それだけに讒言であることが明白化すれば危ないのは善男の方である。それでなくても「伴氏は謀叛の家系」という白眼視は廷内に根強く残っていたのである。
 だが、善男が中傷や誣告や偽証で罰せられた痕跡は見られないから、これも推測の域を出ないが、善男の証言は「嘘ではないにせよ、誤認の可能性が高い。」とされたのだろう。

 周知の様に、最終的にはこの伴善男こそが応天門放火の犯人として逮捕・処罰された。
 皮肉なことに善男の逮捕は密告によるものだった。『伴大納言絵詞』で割と有名な話だが、事の発覚は従者同士の争いがあった。
 善男の従者・生江恒山(いくえのつねやま)の子供と、備中権史生・大宅鷹取(おおやけのたかとり)の子供の喧嘩から親同士の喧嘩となり、生江が自分には大納言がついていることを強弁すれば、大宅は「大納言がそんなに偉いか?おまえの主人は俺の口ひとつで酷い目に遭うんだぞ!」と云い返した。
 だがこの台詞は妙な疑惑となって人口に膾炙し、大宅は検非違使の取り調べを受け、善男の応天門への放火を目撃していたが、恐ろしくて今まで黙っていたと証言した(←※史実では、生江が大宅の娘を殺傷したとされていますが、描写がグロくなるので。『伴大納言絵詞』の内容で語っています)。

 これにより善男とその一族は逮捕された。応天門炎上の五ヶ月後である八月四日のことだった。
 取り調べに対して善男は頑として罪を認めなかったが、有罪とされ、本来なら斬首となるところを当時の慣例で「主上の慈悲により罪一等減じ……。」として伊豆への配流となり、善男は配流先で没し、伴氏は衰退していったのだった。



真相と悪質度 はっきり云って不明である。
 推理小説にて囁かれる「最も得した者を疑え。」という原則に立つなら、藤原良房が怪しいという事になるのだが、後述する様に動機として決め手に欠ける。薩摩守的には失火、若しくは政治とは全く関係な愉快犯による放火である可能性も低くないと見ている。

 「良房が最も得をした。」と考えるのは、古墳時代からの名家である伴氏が失脚した上、応天門の変決着から一年、二年の後に左大臣で源信も、実弟で右大臣だった藤原良相が相次いで世を去り、良房・基経父子は出世競争における独走態勢を確保したからである。
 ただ、自分で云い出しておいてなんだが、無理があると思っている。応天門炎上は貞観八(866)年閏三月一〇日で、伴善男逮捕は同年八月四日である。
 その善男への判決が下ったのは九月二二日だったが、その三日前に良房は臣下出身者として初の摂政に任官されていた。そう、事件の解決を待つまでもなく良房は位人臣を極めてので、本当に良房が善男を嵌めたのなら、処断が終わるまで大きな動きを起こしたとは思えない。
 また、弟・良相との仲は良好で、も嵯峨天皇の子として左大臣の位にあったとはいえ、文化人的繊細さの強い、政治的野心の低い人間で、良房が彼等を慌てて排除しない動機は見当たらないし、良房が政争の為に応天門放火を裏で糸引いていたのなら、善男を讒言するのを庇う必要はない。への処断が終わってから善男を誣告で処罰する方が一挙両得なのである。

 では、「判決通り、善男が下手人だった。」するとどうだろうか?
 もし本能に善男が犯人だったのなら、これはかなり悪質である。テメーで火をつけておいてその罪を政敵に擦り付けているのだから、二重三重の犯罪者である。放火そのものも重罪だが、端から人を罪に陥れる為にやったのだから、世界史で云えばナチスが国会議事堂放火でドイツ共産党を弾圧した事件並みに酷い。
 だが、善男が自作自演で応天門に放火したにしては、彼のその後の動きは余りに御粗末である。讒言はそれが讒言であることが赤裸々になれば待っているのは厳罰である。やる側としては何としても讒言した相手を有罪に持っていかなければならない。しかも相手は臣籍降下したとはいえ、嵯峨天皇の実子で、今上天皇だった清和天皇の大叔父である。本気で有罪に陥れるのなら偽証する者を大量に確保し、物証となるものをしっかり捏造しなければ、清和天皇は取り合わないだろうし、実際に取り合わなかった。

 事の真相はどうあれ、善男が良相にを訴え、その邸宅を包囲させたのも、が左大臣の地位を失えば、良相が右大臣から左大臣となり、空いた右大臣のポストに善男が就任出来ると見込まれていた。
 だが、讒言なら失敗した時のリスクは極大である。現在は臣籍にあるとはいえ、の皇族との血縁は極めて近しい。有罪に持ち込めなければ仮に讒言でなかったとされても皇族からの心証は相当に悪化する。
 上述した様にへの嫌疑はあっさり解消された。もし善男が讒言でを罪に陥れようとして応天門に放火していたのなら、不起訴により司法の矛先が自分に向くことは充分予想出来る。だが、への嫌疑解消から大宅鷹取の証言による逮捕まで善男が何かをした痕跡は見られない。
 人格や交流関係にはやや難が見られるものの、善男は能力的には有能である(でなければ累代の謀叛人とされた家系で大納言にまで昇ることは到底不可能)。その善男が確犯的に讒言していたのであれば、を有罪にする為に二の矢、三の矢を放たない方がどうかしている。
 事実として、善男の従者は善男の長男中庸が放火したと取り調べを受けて述べたが、これは相当な拷問の結果で、苦痛に耐えかねて嘘の証言をした可能性は充分である。同時に伴一族は最後まで有罪を認めなかった。

 では、当初善男が訴え出た様に、が放火犯だったのだろうか?
 これまた考えにくい。善男が不仲だったとはいえ、は穏健な人物で、善男の方が一方的にライバル視していたように思われる。がイメージに相違して過激な人物であったとしても、伴氏が造営した応天門を焼いたところでそれが政治的に善男へのダメージになるとは思えない。
 つまり動機的にも、人格的にもがやったとは考え難いのである。

 結局のところ、歴史家でも、検察官でもない薩摩守にはこの応天門の変の真相には自信を持って迫れない。そもそも誰を犯人と仮定しても、いくら宮城とはいえ門一つ焼くことに誰かが政治的にダメージを食らうとも思えず、動機が見えない。
 それゆえ、政治とは全く関係ない者が失火か、愉快犯的に放火したのを、根も葉もない噂が広まったところで、善男を追い落とす好機と捉えたものの、物証なき故に、「厳しい取り調べでまんよくゲロしてくれれば」といった軽い賭けだったのではなかろうか?

 これも自信あって云っている訳じゃありませんけどね(苦笑)。


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令和六(2024)年三月一日 最終更新