第漆頁 藤原時平……有名過ぎる「讒言者」

冤罪事件簿 漆
事件昌泰の変
讒言者藤原時平(ふじわらのときひら)
讒言された者菅原道真(すがわらのみちざね)
処罰実行者醍醐天皇
黒幕藤原時平
讒言悪質度


事件 事件が起きたのは醍醐天皇の御代で、一〇世紀には云って間なしの昌泰四(901)年一月二五日のことで、右大臣・菅原道真が娘・寧子(やすこ)の婿である斉世親王(ときよしんのう)を擁立して醍醐天皇を退位させようとしてるとの容疑で道真を初めとする菅原一族が逮捕された。同時に道真の息子達を初め、斉世擁立派と見られた者達も処罰対象となり、嵯峨源氏・藤原氏・その他の諸氏からも処罰者が出た。



讒言者 有名過ぎる話だが、菅原道真が斉世親王を皇太弟に立て、醍醐天皇を退位させて実権を握らんとしている、と讒言したのは藤原時平である。
 時平は祖父(正確には大伯父)の良房が臣下出身者で初めて摂政に就任し、父・基経の代には阿衡事件以前から事実上の関白に等しい地位・実権を確立していた(事件そのものは道真が基経を書面で宥めたことで収まった)。
 つまり後々の藤原摂関政治への先鞭が付けられた時代に三代目として、時平は寛平九(897)年に二七歳で藤原北家の氏長者・大納言となり、二年後には左大臣となっていた。勿論臣下筆頭である。
 父・基経が世を去った寛平三(891)年の時点では時平はまだ二一歳の若年という事もあり、いきなり摂政・関白にはなれなかったが、それでも参議の地位にあり、順調な出世を重ね、父の死から一〇年を経て藤原家・官位の双方で頂点に立っていた時平にとって、地位のみならず、能力的にも先帝である宇多法皇、今上である醍醐天皇の双方から認められていた(荘園制度の最大利益享受者でありながら、国政の為、荘園整理に尽力してもいた)。

 一方、時系列としては事件後になるのだが、時平の妹・穏子(おんし)が醍醐天皇に入内しており、醍醐天皇とそこまで蜜月関係を築けていた時平にとって政敵と云えるのは隠居の身でありながら隠然たる影響力を持ち、摂政・関白を介さない統治に熱心だった宇多法皇と、皇弟・斉世親王に娘を嫁がせ、官界と学界双方において抜群の知名度を持ち、宇多法皇の信任も厚い道真だけだったと云って良かった。
 敵意の有無はともかく、道真は過去に阿衡事件に際して文章力で父・基経をも説得しており、万一敵に回れば恐ろしい存在と時平が受け止めたのも分からない話ではなかった。



注進と処断 藤原時平醍醐天皇に対して、「菅原道真が娘婿である弟君・斉世親王殿下を唆して皇位に即け、その後ろ盾となるため、陛下に対する謀反と企んでいる。」と讒言した。
 勿論、讒言は讒言で、道真の陰謀は時平による完全なでっち上げだった訳だが、時平は決して馬鹿ではない。彼は道真最大の理解者である宇多法皇を「道真に欺かれている。」と醍醐天皇に訴え、これが為に道真を救わんとして内裏にやって来た宇多法皇は門衛に阻まれて息子である醍醐天皇に会う事すら叶わなかった。

 君主を初めとする最高権力者の多くは当主の座を退いた後も実権を手放さないことが多いのだが、この時、宇多法皇は「法皇」の名が示す様に仏門に入っており、世俗を離れた立場にあった。加えて、時平は宇多法皇が道真を庇おうとするのは読んで、上述した様に醍醐天皇に対して宇多法皇の言に耳を貸さない様に勧め、醍醐天皇は父が内裏に入ることすら拒んだ。

 先帝すら聞く耳を持って貰えない状況下で道真を初めとする容疑を掛けられた者達の釈明が通る筈もなく、道真一族を初め、宇多法皇の近習までも連座することとなった。
 「謀反人」とされた者に対する刑が極刑となるのは世の常である。とは云うものの、前々頁でも触れた様に、既に九〇年以上前に中央官界では死刑が廃止されていた(くどいが、正式に制度としてなくなったのではなく、「主上の恩情により、罪一等減じ……。」が慣例化していた)。それ故、流刑が最高刑の主流となっており、道真は太宰府権帥に左遷された。
 一応、制度上では大宰府の最高権力者は皇太子の専任職だったが、勿論皇太子が当時僻地とされた九州に常駐する筈もなく、権帥(ごんのそち。「仮の長官」の意)が現地に赴任することとなり、高位高官にあるものに対する厳罰のシンボルとなっていた。



真相と悪質度 事件そのものはほぼほぼ、藤原時平によるでっち上げで、菅原道真は無実の罪で謀反人とされ、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された。
 そして結論を先に書けば、真相はどうあれ、朝廷の公式記録としては、道真は後に「無罪であった。」と認定されている。

 一応、極一部には「実際に道真は斉世親王を擁立せんとしていた。」との説も囁かれている。だが薩摩守が重視したいのは、「真相」よりも「悪質度」である。
 正直、日本史上に在って有名なこの事件の実態を調べる為、様々なサイトを調べたのだが、時平による讒言から、道真への処分決定まで、如何なる流れがあったのか、<S>薩摩守の調査能力不足により全く不肖だった。
 道真が拘束されたのか?どんな風に尋問されたのか?拷問があったのか?取り調べにどう釈明したのか?最終的に容疑を認めたのか?
 同時に何を証拠に道真達の有罪が認定されたのかも不詳である。

 ただ、思うに、醍醐天皇は内心、「時平のでっち上げであろうな。」と思いつつ、道真を政界・廷内から追うことを良しとしていたのだろう。
 そう思うのは、醍醐天皇とその父・宇多法皇の経歴と背景を思えば、である。
 醍醐天皇は、歴代天皇の中で唯一臣籍に生まれれて、天皇に即位した人物である。というのも、醍醐天皇の父・宇多法皇は一時、臣籍降下して、賜姓源氏である源定省(みなもとのさだみ)となっていた。だが、ひょんなことからその父である光孝天皇が大甥である陽成天皇の退位に伴って皇位に就いたことで定省は皇籍に復帰し、後に宇多天皇となった。
 醍醐天皇は宇多天皇が源氏であったときに生まれたので、「臣籍に生まれて天皇になった唯一の人物」となった。そしてそんな複雑な皇位継承が背景にあったためか、宇多天皇は藤原氏が外戚として権力を握るのを阻止する方向に動き、道真を初めとする学者肌の貴族を数多く登用した。
 とはいえ、決して藤原家を蔑ろにした訳ではなく、阿衡事件も宇多天皇に基経を軽んじる気持ちは微塵も無かった。また道真に対しても純粋に醍醐天皇の行く末を託していた(勿論時平に対してもである)。

 そんな父から皇位を継承した醍醐天皇も、端から道真を疎んじた訳ではなかったが、年の近い時平と仲が良過ぎたことがすべての人々の不幸を生んだ。
 醍醐天皇即位時、天皇は一三歳の少年で、退位した父はまだ三一歳の働き盛りだった。そして新帝を左右で補佐する時平は二八歳、道真は五三歳だった。醍醐天皇にとって、道真は祖父に等しい年代で、まだ父と三歳違いである時平の方が親しみやすかったことだろう。加えて、醍醐天皇は宇多法皇から道真を師父に等しい役割で付けられたから、「口喧しい爺。」的な存在だったとも思われる。
 他方、醍醐天皇は父同様、天皇親政を重んじる為にも摂政・関白の影響力を排除することに努めた人物でもあった(それゆえ、鎌倉時代末期の後醍醐天皇は醍醐天皇を理想として、生前から自分への諡号を「後醍醐」とするよう命じていた)。
 それゆえ、醍醐天皇が父から付けられた道真を次第に疎んじ、その影響力を排除したいと考え、年齢的にも、姻戚的にも自分に近しい時平以外の重臣を排除する傾向が生まれ、「動機」の似た二人が悪い意味で同志となったと見れなくもない。

 ともあれ、かかる背景があったからこそ、讒言を受けた醍醐天皇は、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的に道真を過酷に罰したのではあるまいか?或いは、冤罪を承知だからこそ、「何の疑いもなく毅然と罰している。」と云うパフォーマンスを見せる意味で過酷に罰したのだろうか?
 過去作「チョット待て!その呪詛おかしくないか?」でも触れたが、道真の左遷における仕打ちは、史上何人もいる大宰府送りにされた罪人達と比較しても眉を顰めたくなるものが有った。
 詳しくは上述の過去作を参照して頂きたいが、如何に重罰による左遷とはいえ、太宰府権帥は皇太子が兼任する太宰府長官を補佐する重職で、かなりの高官である。にもかかわらず、道真は道中の食糧にも事を欠き、劣悪道中環境下で側室とその胎児、息子の一人を失う有様で、赴任後も廃屋での軟禁に等しい状態だった。

 結局、無実の罪で過酷な流刑に苦しむ日々に心身をすり減らしたものか、道真は二年後に大宰府の地に五九歳で没した。勿論、当時の平均寿命からすれば「天寿を全うしたと。」と云ってもおかしくない享年だったが、道真の置かれた環境が彼の寿命を延ばす様な物だったとはお世辞にも思えない。
 そして周知の通り、無念を抱いて世を去った道真は崇徳上皇に並ぶ大怨霊になったと見られた。これも上述の過去作で詳しく触れているが、道真逝去の六年後に時平が三九歳の若さで急死し、その一四年後に醍醐天皇の皇太子・保明親王(時平の甥でもあった)が二一歳の若さで薨去し、更に二年後に皇太孫・慶頼王(保明親王の皇子で、時平の外孫)が五歳の幼さで病死した。
 そして五年後の延長八(930)年六月二六日、清涼殿が落雷を受け、大納言・藤原清貫が雷撃を受けて死亡した(清涼殿落雷事件)。清貴は宇多法皇が道真を救わんとして内裏に駆け付けた際にそれを阻止したことがあり、それを祟られたと人口に膾炙し、このショッキングな出来事に醍醐天皇は体調を崩し、三ヶ月後の同年九月二九日に崩御した。

 過去作にて薩摩守は、道真の死から醍醐天皇崩御まで二七年の開きがあることから祟りと捉えることに違和感を抱いていると述べた(時平急死ですら六年も経過してからである)。
 ただ、それはあくまで薩摩守の所感で、当時の人々は「物凄く祟っている。」と捉え、醍醐天皇は息子・保明親王薨去の一ヶ月後に道真に対して従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を追贈した。
 そして清涼殿落雷事件に衝撃を受けると直ちに道真の無罪を宣言し、道真の息子達の流罪を解き、京に呼び戻した。その後も京の人々が道真の怨霊を「雷神」と結びつけ、北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとしたのは有名だが、古今東西権威・権限の大きい政治家程己の非を認めることに消極的である。それが二七年間も祟られること怯え、無罪を宣告し、追贈まで行ったのも、相当な後ろめたさが心底に在り、罪の確定も極めて一方的なものだったからではあるまいか
 つまり、相当えげつない罪の落とし方をした意識でもないと、ここまで祟りに怯えるとは思えないのである。

 薩摩守個人的には「祟る」という事を信じていない(もしそうならもっと祟られて然るべきものが古今東西多過ぎると思っているので)。まして大罪人を公明正大に罰したのであれば何も恐れる必要もない(その必要があるなら刑吏や軍人などこの世に存在し得ない)。
 ただ、(結果論でしかないが) 時平及び時平醍醐天皇の血を引く者達が次々と世を去り、落雷で要人が死ぬ出来事まで起き、藤原氏における氏長者としての地位は道真讒言に反対した弟・忠平の家系に移ったのを見た人々が当時の人々「菅公の祟り」と受け止めたのは無理ない話だとは思うし、そう受け入れられるほど藤原時平醍醐天皇菅原道真を失脚させた流れは悪質だったのであろう。

 少し可哀想な気もするが、未来の世における讒言への歯止めになる為にも、藤原時平醍醐天皇の両名には「人を呪わば穴二つ。」の例であり続けるべきと思う次第である。


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令和六(2024)年二月二一日 最終更新