第捌頁 源満仲……見事なまでの腰巾着

冤罪事件簿 捌
事件安和の変(あんなのへん)
讒言者源満仲(みなもとのみつなか)
讒言された者源高明(みなもとのたかあきら)
処罰実行者冷泉天皇
黒幕藤原伊尹(ふじわらのこれただ)
讒言悪質度


事件 事件が起きたのは冷泉天皇の御代で、安和二(969)年三月二五日のことである。
 右大臣藤原師尹(ふじわらのもろただ)の元に、左馬助源満仲・前武蔵介藤原善時が謀反の密告をもたらし、その背後にいると見られた左大臣・源高明が謀叛人として裁かれた事件である。



讒言者 謀叛を訴え出た源満仲とは、賜姓源氏の一つである清和源氏の当主だった。
 曽祖父が清和天皇で、清和天皇の孫にして、満仲の父である経基が清和源氏の始祖だった。経基は平将門の乱藤原純友の乱鎮圧に功があり、その影響もあって満仲も武官貴族として朝廷に仕えていた。
 村上天皇(冷泉天皇父)の御代には蔵人に任じられ、廷内では源高明と懇意だったが、密かに藤原摂関家に通じ、半ば高明を裏切る形で安和の変において彼に謀反の意有り、との注進に及んだ。

 これにより高明派から藤原摂関家派に鞍替えした満仲は摂津・越後・越前・伊予・陸奥等の受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至った。しかし高明に対する裏切りに等しい行動を経ての出世は世人の嫉妬や恨みを買ったらしく、安和の変から四年後の天延元(973)年には武装集団に自邸を襲撃・放火までされた(周辺の建物三〇〇〜五〇〇軒まで延焼する大火災となった!)。

 それ故か、満仲は武官として武力の保持に努め、二度国司を務めた摂津に土着すると多田盆地に入部して、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成した(それゆえに彼は「多田満仲(ただのまんじゅう)」とも呼ばれる)。
 この自前の武力から三男・頼信が平忠常の乱を(戦わずして)鎮圧したの皮切りに、頼信→頼義→義家→義親→為義→義朝→頼朝に至る訳だが、まあ、それは後世の話である。

 満仲自身は摂関家の懐刀に徹し、寛和元(986)年の花山天皇退位事件に際しては、半ば花山天皇を騙して出家させた藤原道兼に同行し、これを警護した。



注進と処断 源満仲等に直接謀叛人として訴えられたのは、中務少輔橘繁延と左兵衛大尉源連(嵯峨源氏で妻は源高明の姉妹)で、密告内容は詳らかではないのだが、『源平盛衰記』 (←成立時期から、史料としての信憑性は高くないとされている)によると、密告を受けた師尹以下の公卿は直ちに参内して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白藤原実頼(師尹の兄)に送るとともに、検非違使・源満季(満仲の弟)に命じて橘繁延を捕らえて訊問させ、繁延の背後に源高明がいて、高明が娘婿である為平親王(冷泉天皇同母弟)を東国に迎えて乱を起こし、冷泉天皇を退位させて為平親王を帝に即けようとしていたと断じられた。

 直ちに検非違使によって関係者が逮捕された訳だが、逮捕された者の中には高明の従者の前相模介・藤原千晴とその子息の久頼も含まれていた。このことからも容疑は高明にも及び、密告翌日には検非違使が高明邸を取り囲むと、彼を大宰権帥に左遷する詔が伝えられた。
 高明は息子の忠賢共々出家するので京に留まらせて欲しいと申し出たが許されず、そのまま九州に赴任させられた。

 謀叛に関わったとされた者の中で、主だった者として高明の息子である忠賢と致賢は出家することで罰を逃れた。上述の従者・千晴は隠岐に、直に訴えられた橘繁延は土佐に流され、源連は五畿七道諸国へ追討令が出された。
 大宰府に左遷された高明は二年後に罪を許されて京に戻ったが、政界に関わることはなく、帰京から一〇年後の天元五(982)年一二月一六日に享年六九歳で薨去したのだった。



真相と悪質度 藤原摂関家の最盛期を築いたのは云わずと知れた藤原道長である。
 この安和の変は道長の大伯父・藤原実頼が関白太政大臣、大叔父・師尹が右大臣を務めていた(道長の祖父・師輔は既に亡くなっていた)時に起きた事件で、この事件によって藤原家は対抗馬となる有力貴族や賜姓源氏の勢力を削ぐことに成功し、その後道長による一家三立后の最盛期に至るまでの政争は藤原家中間での醜い争いだった(苦笑)。

 それゆえ、この安和の変は実害のある事件に至らず、謀叛に対する処罰としてはかなり軽いものながら、歴史的には有名な事件である。しかしながらこの事件、知名度の割には今一つ<S>薩摩守の研究不足もあるが事件の実態が詳らかではない。
 「元々、謀叛なんかなく、事件そのものが良くあるでっち上げなんだから、中身は無くて当然。」と見る人も多いと思うが、たとえ冤罪やでっち上げでも「謀反」=「反逆罪」は、例えそれが主上の殺害を伴わないものや、企画倒れで終わったものであっても「天下の大罪」とされ、かなりの大騒ぎとなる。
 時代が二〇〇年程異なるが、鹿ケ谷事件等、「酒を飲みながらの駄洒落大会」が「謀反の密議」として関係者が厳罰に処されている(過去作「怪僧大集合」を参照頂けると有難いです)。

 だが、この安和の変、調べてみてもろくな取り調べが行われた形跡もないのである。また、昨今の報道じゃないが、高明が謀叛に対して容疑を認めたか否かもはっきりしない。
 通常、近代以前における帝王への謀叛は一族連座での死罪が相場であることが大半なので、相当な確信犯であっても可能な限り惚け倒し、拷問で苦痛の余り認めざるを得なくなったり、自供・自白の無いまま最高権力者の強権発動で有罪認定されたりすることが多いのだが、この事件はその辺りが全く詳らかではない。
 唯一はっきりしているのは、高明が出家を条件に都に留まることを願い出たことだが、これとて罪を認めた上で贖罪の意から申し出たことなのか、「疑われた時点で終わり」的に諦観に憑りつかれてのものなのかはっきりしない。

 加えて不可解なのが、処罰の軽さである。
 前頁の昌泰の変、前々頁の応天門の変、前々々頁の承和の変でも触れているが、この時代の中央政界ではもう百五〇年も死刑判決の出されないよとなっていた。現代でも死刑執行の無い時期が長く続くと法務大臣は死刑執行命令を出し辛いと云われている。まして軍事からも遠ざかった平安貴族ともなると血を見るのも怖い風潮が根深く、高明が死罪にならなかったこと自体は然して不思議な話ではない。
 ただ、昌泰の変における菅原道真の例と比べてもこの高明の太宰府行きは「流刑」よりも「左遷」のカラーが強い。更に道真が大宰府に赴任する際の移動が護送に近く、大宰府赴任後も困窮の生活を強いられ、死後まで許されなかったのに対して、高明は二年で罪を許されて京に戻っている。

 ここから先は薩摩守の推測になるのだが、どうもこの事件(と云うか醜い政争)、様々な血縁関係から、藤原氏サイドで高明をライバル視したものの、当の高明に政治的野心は弱く、早々に矛先を治めた為に、一種の出来レースで比較的穏便に終息したのではないかと思われる。
 と云うのも、そもそも藤原家と高明の仲は決して悪いものでは無く、それは安和の変前後を通して一定の友好・血縁関係が保たれていたの様に思われるのである。
 まずは下記の皇室と藤原家と高明の関係を示した系図を見て頂きたい。



 まず、系図の一番上を見ればわかっていただけると思うが、この頁に登場する重要人物はほぼ全員が醍醐天皇と藤原忠平の子孫である。
 高明は醍醐天皇の皇子に生まれたが、家系図が示す通り、藤原氏の血を引いていないものの、実頼の娘(次女)を娶り、後々には娘が道長に嫁いでいる(正妻ではないが)。

 既に安子の伯父・時平と醍醐天皇の時代から双方の家系は蜜月関係を結んでおり、藤原氏は醍醐天皇の代には皇室と切っても切れない血縁関係を結んでいた。
 長じて臣籍降下した高明だったが、臣籍降下して二代目の源満仲より皇族に近く、その毛並みは抜群で、左大臣に任じられもした訳だが、安和の変の時点ですぐ上である太政大臣を岳父である実頼に、すぐ下の右大臣をもう実頼の弟・師尹に挟まれていた。
 ちなみに上掲の家系図には書いていないが、高明は師輔の娘(三女)も妻に迎えており、両者の間に生まれた子供達は藤原摂関家全盛の時代に権大納言、権中納言にまで出世している。ただ、高明との仲が良好だった師輔はこの時既に世を去っていた。

 賜姓源氏の初代で、藤原家との血縁も深い故にそんな高明だったが、一方で高明の娘の一人が為平親王に嫁いでいたことから、為平親王が天皇に即位すれば藤原家にとっての重大な政敵になるのでは?との見方があった。
 ただ、様々な状況から見て、正直、藤原家の杞憂だったと薩摩守は見ている。安和の変勃発時、帝は冷泉天皇だったが、彼は藤原氏のごり押しで幼少時にすぐ立太子され、村上天皇の崩御を受けて即位していたが、皇太子時代から気の病がある故、先行きが長くなく、子も為せないだろうと懸念されていた(実際には六二歳まで生き、花山天皇・三条天皇と云った子を成している)。
 それゆえ、早々に冷泉天皇の同母弟から皇太弟を立てるべしとの意見が廷内にはあり、年齢順で云えば為平親王が最有力候補だったのだが、これまた藤原家のごり押しで弟である守平親王が皇太弟となり、後に円融天皇となり、円融天皇と藤原詮子(師輔の孫娘・兼家の娘)との間に生まれた家系が藤原摂関家全盛期に繋がる。

 ただ、当の高明は学問を好み、朝儀・有職故実に練達し、和歌にも優れた文化人的な人物で、政治家としてどこまで野心があったかは詳らかではない。安和の変に際して早々に出家を条件に在京を請うたのも、事実上の死刑廃止状態における平安京で命の心配がないことを踏まえ、同時に自分の政治力では藤原摂関家に抗し得ないことを悟っていた故、下手に抗うより世捨て人を装うことで重罰を避けようとしたのではないだろうか?
 事件後僅か二年で許されて京に戻った後に政界復帰を図らなかったのも、下手な野心を見せることで藤原家から再度睨まれるのを避けた気もする。
 ちなみに高明の娘が藤原道長の妻妾となったのは高明帰洛後で、もし高明がその時点で「天皇に反逆した謀叛人」と見做されていれば、道長もそんな人物の娘を公に娶ることは出来なかっただろう。

 そしてそんな前後の状況から、高明を政敵と見做し、安和の変を策謀したのは師輔の息子・藤原伊尹ではないかと云われている。上述した様に、この時点で師輔は世を去っており、藤原家の実権は師輔の兄である実頼と弟である師尹が握っていた。
 実頼は安和の変の翌年に亡くなっており、これを受けて伊尹は氏長者になり、摂政となったことから、推理小説で云うところの「最も得した者を疑え」の理論から陰謀の黒幕と見る向きがあるが、伊尹は変の三年後に飲水病(糖尿病)で早死にしており、詳細は不明で、他に黒幕がいると疑う向きも多い。
 そしてその後の藤原家中の覇権は伊尹の弟達(兼通と兼家)が醜く争い、やがて兼家の家系が我が世の春を築いた。

 結局のところ、事件の実態も詳細も不詳なのだが、もし高明に強い政治的野心があれば、もっと早々に、露骨に、厳しく潰されていたと思われる。少なくとも、謀反の意など無く、強い抗いを見せなかった故に、藤原家サイドでも下手に強く攻めることが出来ず、高明の家系は細々ながら朝廷内に生き残ることが出来たと思われる。


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令和六(2024)年三月一日 最終更新