独断と偏見2.嫌でも「被告」に味方しなければならない業務的義務

■「被告の味方」=「悪の手先」にあらず
 目を覆いたくなる凄惨な凶悪事件の真犯人は間違いなく悪人である(例えどんな大義名分を持っていても、何の罪もない人間を大勢殺したことを善人とする理論など存在しないし、俺は認めない)。

 それゆえ、ともすれば凶悪犯への無罪判決や減刑獲得の為に尽力する弁護士を「悪の手先」と見かねないときがある。
 だだ、裁判にあるのは「有罪or無罪」、「量刑」であって、善悪が論じられる訳ではない。それゆえ弁護士の活動に善も悪もなく、事件の内容や判決がどうあろうとまずは「被告の味方」をするのが弁護士の責務なのだ。

 例え、自分が弁護を担当することになった被告に対して、「絶対コイツやってるよ。」と確信していても、被告人が「俺はやってません!無罪主張します!」と云えばその主張に沿った弁護を行わなければならないのが弁護士の責務である。
 同時に、守秘義務もある。弁護活動の為に被告との打ち合わせの中で、被告の有罪を疑いなくする事実を知ったとしても、弁護士はそれを決して口外してはならない。被告に不利な情報を口外することは被告との信頼関係に反するからだ。

 それゆえ、弁護士は自らの主張や、思想信条がどうあろうと、時には被告の有罪や重刑となる証拠を知って尚、それに知らない振りをしなければならないときがある。
 そのこと自体は、俺は大問題だと思っている。
 真実を隠蔽する悪しき傾向を生んでいるのは明白で、そのことで過去に弁護士が被告の犯行(←当該事件だけとは限らない)を知りながら、その犯行が(充分な証拠が得られなかったことで)裁かれずに逃げ得した被告がいたであろうことや、守秘義務上被告の犯行に口を噤み続けることで心を病んだ弁護士がいたであろうことは充分に有り得る。
 だが、やはり被告の「味方」をする存在は必要だろう。ましてや冤罪であった場合、無実の人間の名誉を公的に法的に回復し、不当な逮捕・拘留による補償を求めるのに、プロの法律家がサポートしないのは被告人に甚大な「疑われ損」をもたらすことになる(まあ、「疑われ得」など存在し得ないだろうけれど)。

 被告人の犯行が凶悪極まりなく、現行犯逮捕などで冤罪の疑い様がなく、それでも尚、自分の罪に向かい合おうとしなかったり、被害者の方を悪く云って罪を認めない態度を取ったりした場合に、被告本人に大きな怒りを抱くのは当然のことだ。
 だが、それを弁護する弁護士の、弁護内容を批判するのはまだ自由としても、弁護することそのものを悪し様に罵るのは、秩序無き私刑と何ら変わらない。
 万一、その被告が無実だった場合、その弁護士を「悪の手先」と罵った「悪行」に対して、どれだけの人間が心の底から真摯に向き合うだろうか?
 少なくとも、マスゴミの無責任を見る限り、リトルボギーには期待出来ない。


 不良刑事三白眼かく語りき
 話の持って行き方、っていうのもある。



■一部の弁護士に凶悪事件の弁護依頼が集中する悪しき傾向
 勿論、弁護士も人間である。仕事を選ぶ権利はあるし、例え弁護活動に非はなくとも、凶悪極まりない事件の被告の弁護を引き受けることで世間から悪し様に罵られることを厭うて弁護を断ったとしてもおかしな話ではない。

 実際、弁護士の成り手が全くいないことも有る訳で、それゆえにそのような場合は国選弁護人が付けられることになる。
 ただ、これは決して望ましい事ではないだろう。誰もが嫌がることを義務的に強制されての仕事なのだから、職務に対する責務は全うするにしても、心の底から被告人に味方することは極めて困難だろう(私選だって、必ずしもそこまで出来る訳ではあるまい)。

 そうなると気を付けなければいけないのはもう一つの悪しき傾向である。
 それは凶悪犯罪の弁護が一部の有名弁護人に集中することである。実際、和歌山毒カレー事件林真須美(現姓「稲垣」)死刑囚オウム事件の首謀者・松本智津夫元死刑囚(執行済み)、光市母子殺害事件 F・T (現姓「 O 」)、名古屋アベック殺人事件(主犯は無期懲役)等の凶悪事件の弁護を手掛け、数々の裁判で被告の死刑判決を回避した実績を持つ安田好弘弁護士にはかなり昔から凶悪犯罪の被告からの弁護依頼が殺到していたらしい。

 安田弁護士安田弁護士死刑廃止論者でもあることから、どんな凶悪犯罪者であっても死刑になることを防いだり、或いは凶悪犯罪への世間の憎悪から確たる証拠も無しに不当に有罪となることを防いだり、といった使命感なり、信念なりがあって弁護活動をしていると思う。
 ただ、余りに凶悪犯罪の弁護を手掛け、多くの死刑判決を回避(←一審で死刑判決が下ったのを、二審で無期懲役に減刑させたのも多い)してきた経歴から、凶悪犯の死刑判決を願う者達からは「悪の手先」の様に見做す傾向が存在しているのを無視してはいけないだろう。
 安田弁護士の弁護内容には、俺個人として時として眉を顰めたくなるものもあるが、正当な弁護活動まで批判してはそれこそ検察側の非となるし、死刑廃止論者であっても、安田弁護士自身は法廷を政治活動の場とすることを断固として否定しているのは認めなくては公正さを欠くだろう。

 ともあれ、このような傾向が生まれてしまっているのも、凶悪過ぎる事件だと断る弁護士も多く、死刑廃止、引いては死刑回避に物凄く熱心な弁護士に依頼が極端に集中するために、

 「凶悪犯罪の弁護を盛んに行っているいる弁護士」=「悪の手先」

 という偏見図式が生まれてしまっているのだろう。
 そして注意しなくてはならないのが、この図式を生んでいるのは凶悪犯の極刑を望んでいる者達だけではなく、凶悪犯そのものも同様であると云うことだ。
 凄惨過ぎる凶悪犯罪を行い、多くの弁護士から弁護依頼を断られる状況に(自業自得で)陥った極悪人は、凶悪犯罪でも助けてくれる有名弁護士を頼ることとなり、その弁護士の評判を貶めることに一役買ってしまっているのである。

 納得出来ない弁護内容や、犯行そのものを批判するのはいくら行っても良いと思う。
 ただ、弁護することそれ自体への非難や、弁護を手掛けた案件歴をもって悪し様に罵るのはどんな凶悪犯罪の弁護活動に対しても行ってはならないことである。

 不良刑事三白眼かく語りき
 でも、今回は安田弁護士は完全にやらかしたと思う。


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令和五(2023)年九月二一日 最終更新