暴言六、様々な意味でガキを軽視するな!

 少年と云えども「一人の人間」である。法の下に、個として尊重されなければならない。


日本国憲法第14条第1項 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない。


 ただ、実際に未成年はその未熟さゆえに法で禁じられていること(飲酒・喫煙・双方の親の了承のない婚姻等)があり、与えられない権利(選挙権・参政権)があり、その代わり成年ではあり得ない保護も与えられる。
 要は義務や責任を果たすから権利や自由がある訳で、それを充分に果たすのが困難な未成年は権利や自由が制限されると同時に義務・責任が免ぜられる。これは少年法の理念にも通じていよう。

 だが、一口に「未成年」と云っても、その成熟度合い・社会貢献度・身体能力は様々である。それゆえ、男子18歳以上女子16歳以上なら(双方の良心の合意と云う条件が付くが)婚姻が認められ、種類によっては運転免許の取得も認められる(大型自動車運転免許は普通自動車運転免許の取得から二年以上経ないと取得出来ないので、自動的に未成年は取得不可能である)。
 段階的なものを考慮に入れる必要があるが、未成年もいつかは大人になることを考えれば、ある程度は「一人前」と認めることである程度の「自由・権利」を与え、「義務・責任」を背負わせることも必要だろう。

 勿論その線引きは容易ではない。
 ただ、未成年を「未熟」の一言で一緒くたにして、「保護」一辺倒で「責任・義務」と向い合せないことは、却って未成年を軽視していることにならないだろうか?



■知識的に未熟にあらず
 「暴言二」でも書いたが、インターネットを初めとする情報媒体が発達したことで、未成年に限らず、万人が数十年前よりは遥かに豊富な知識を入手可能としているだろう。
 それゆえ、触法少年の中には少年法の(処罰面における)甘さを認識し、「その程度で済むのなら………。」という考えで愚行に及んだ者も少なくなかろう。
 それゆえ、「未熟さゆえに知らずしてやってしまう可能性」の高かった終戦直後の触法少年と、「自己に有利な情報を仕入れ、重い罰を受けないことを知った上でやらかした可能性」の高い現代の触法少年を同様に遇することに多くの非難が集まるのだろう。勿論、「更生」・「指導」・「教導」だけを考え、「処罰」を全く無視する立場の者なら、現行少年法で全く問題なしとなるのだろう(道場主の馬鹿の親友に約一名そういう思考の人物がいる)。

 ただ充分な知識を持ち、それを知った上で行われた犯罪を「悪質」と見ないのは通常感覚では相当困難である。それでなくても被害者の立場に立てば、「知らなかった。」としても「こっちの知ったこっちゃない。」となるのに、「知っていてやった。」となれば、許せなさは極限に達しよう。
 例え、「処罰」を一顧だにしなかった場合でも、「知っていてやったのさ!」と云うふざけたクソガキを「更生」させるのは並大抵ではないことは、少年法擁護派の人達こそ重視してもらわなくては困る。



■未熟さを直したら本当に更生するのか?
 一口に「未熟さ」と云っても様々な面があるし、大人の犯罪者を見れば「未熟さ」で片づけるのは考え物なケースも多い。

 確かに、人格的な未熟さや、終戦直後宜しく劣悪な家庭環境下に起因する未熟さなら、然るべき教導を受ければしっかりした更生が望め、触法少年も再犯を繰り返すことなく、被害者への償いに務める者も出てくるだろうし、その様な更生を果たした者も決して少なくないと信じたい。
 ただ、「知識量」の未熟さを克服しても、「知識との向かい合い方」を誤ったままでは「都合の良い知識の悪用」は止まず、再犯は決して縁遠い話ではなくなるだろう。

 ITの発達により、知識・情報を入手し易くなったと云うことは、確かに良い面も多い。ただ、「知識・情報を入手し易い」と云うことは、「知識・情報を流し易い」と云うことを兼ね、その中には「誤った知識」や「虚偽」も含まれる。
 そして人間は誰だって自分に都合の悪いことは信じたくないし、受け入れたくない傾向を持つ。「少年法があるから、どんな悪いことをしても大丈夫!」なんと考えるクソガキは、正しく都合の良い知識だけを吸収し、犯罪が被害者のみならず自分の未来をも大きく損ねることを全く理解していないと云える。
 こうなると情報の「入手」だけ発達して、「理解」が丸で未熟としか云い様がなく、その辺りの未熟さを矯正しないと更生プログラムは丸で意味を成さないだろう。

 少年院における触法少年の更生プログラムが定められた知識を教えるだけのものだとは思わないが、触法少年の更生に携わる方々には、本当に矯正すべき「未熟さ」と正しく向き合っているかを、それまでの成功例・失敗例共に重視して常に振り返って欲しい。



■「認め」た上での「責任」を
 ほぼほぼ前述しているが、未成年もいつかは大人になる。
 例え人間として丸で成長せず、クソガキのまま体だけデカくなった様な屑野郎だったとしても、生まれてから20年を経れば飲酒・喫煙が許され、選挙権が与えられ、日本国憲法で保障される自由と権利はすべて尊重される(「公共の福祉に反しない」と云う条件は付くが)。
 それゆえ、成人した者は能力や人格がどうであろうと法と秩序を守り、国民の義務を果たしてもらわないと困るし、何らかの事情でそれが果たせない者は自由と権利が制限されることになる(触法による服役だってその一種だ)。

 その制限に対する範囲や種類や程度は千差万別で一言で云い表すのは無理だが、未成年だって基本的人権は尊重されるし、社会(学校・地域・所属する場所)のルールを守る分には自由な存在である。
 かつて道場主の馬鹿は、弱い人間であった故に親や教師の保護を必要とし、それを確保する為に愚直なまでに校則を守り、「勤勉真面目な中高生」に徹した(実際には喧嘩したり、早弁したり、漫画を持ち込んだり、エロ本を読んだり、酒を飲んだりしたこともあり、完全遵守した訳ではなかったが)。逆に強い人間だったら、ただただ「〜は厳禁する。」一辺倒の校則(道場主の出身中学校はスポーツ刈りすら校則違反だった!)に反発し、もっと学生にも自由や権利を求めることを声高に訴えただろう。
 現在、当時を振り返ると弱気故に(少なくとも大人の前では)ひたすら大人しくしていた自分を情けなく、恥ずかしく思う一方で、ただただ禁止事項で行動を束縛するだけで「真面目」を作り上げんとしていた校則の在り様には、余りに未成年を軽んじているものを感じる。

 未成年の未熟さに注目して「処罰」より「更生」を重んじる少年法の理念は一面大切なことだが、未成年を未熟と決め付け、充分成熟した面をスルーした教導は未成年の為にならない一面もあることを訴えておきたい。



次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
法倫房へ戻る

令和四(2021)年六月一四日 最終更新