第壱頁 文化露寇………ゴロツキ蛮行の裏で意外な防疫

事件名文化露寇(ぶんかろこう)
発生年月日文化四(1807)年四月二三日〜同年五月三日
事件現場択捉島紗那
下手人ニコライ・フヴォストフ
被害者中川五郎治、左兵衛
被害内容シベリア抑留による帰国困難
非の割合日本:ロシア=2:8
事件概略 一言で言えば、ゴロツキ軍人による略奪行為である。
 その背景には日本に通商を求めていたが、言を左右にされて果てに黙殺に近い態度を取られたことに業を煮やしたニコライ・レザノフと、その部下ニコライ・フヴォストフの存在があった。

 当時ロシア帝国では日本との通商に新たな経済的活路を見出さんとしていたが、通商を求めて根室に来たアダム・ラクスマンは長崎への廻航を命じられ、長崎での入港許可証を幕府から渡されたものの、その許可証を元に長崎を訪れたレザノフは上述した様に散々待たされた挙句無視に近い待遇を受け、日本を開国されるためには武力を用いるしかない、との考えを持つに至った。
 ただ、レザノフ自身、一度は皇帝にそのように騒擾したものの、すぐには撤回し、程なく長年の航海による疲労が祟って若くして病死したのだが、その一時的な悪意は部下のフヴォストフによって実行動に移されてしまった。

 フヴォストフは本頁で扱っている事件の約半年前にも樺太に二〇数名の兵士を上陸させ、銃で脅した上に略奪とアイヌ人一人の拉致という暴挙を働いていた。幸いアイヌ人少年は程なく解放されたが、この時ロシア兵は船を焼いたため事件の発生が幕府に知らされるのに半年もの時間を要した。

 そしてその半年とチョットとなった文化四(1807)年四月二三日、フヴォストフに率いられた不良ロシア兵どもが択捉島を襲撃した。
 当時択捉島では日本人による交易の為の会所が設けられ、現地のアイヌ人もこれに協力していた。択捉島最大の集落である紗那(しゃな)にも会所があり、中川五郎治(なかがわごろうじ)はそこで小頭を務めてた。一言で言えば小役人であった。
 勿論会所には責任者として立派な士分である戸田又太夫が箱館奉行支配取調役下役として二、三〇〇の警護兵と共に着任しており、その中には有名な間宮林蔵(まみやりんぞう)もいた。

 当時、日本は鎖国中で、ロシア帝国との間に国交も通商も無かった。ただ千島列島、樺太、カムチャッカには日露両国の軍人や探検家が侵略進出しており、双方とも相手国を警戒しつつも、つかず離れずの関係にあった。
 そんな状況下、突如ロシア艦が内保を襲撃した。

 時を同じくして、二隻のロシア艦が択捉島最大の会所・紗那に面する湾内にも入り込んでいた。内保襲撃に駆け付けたくても最大要地紗那を守ることの方が大事と見た会所警備兵は襲撃に備えていたが、四月二九日に至って、ロシア艦は動きを見せた。
 襲撃は軍事行動ではなく、略奪を目的とした確信犯的犯罪で、ロシア艦は警告も威嚇もせずにいきなり艦砲射撃を会所に向けて行った。事前に会所側ではロシア語の話せる下役人が短艇に乗って白旗を掲げて交渉に挑まんとしたが、返って来たのは砲撃だった。
 このときのロシア艦に搭乗していた兵数は不明だが、このとき紗那会所にいた二、三〇〇人程度の兵力では盗賊や海賊から防衛出来る程度で、軍艦攻撃に耐え得るもではない上に、艦砲射撃自体が前代未聞だった(島原の乱で一時、オランダ艦から原城に向けて為されたことはあったが)。
 この突然且つ前代未聞の砲撃に会所の守備兵は忽ち潰走し、間宮等の督戦に関わらず逃げ出してしまった戸田又太夫は後にこれを恥じて切腹する始末だった。


択捉島


 軍艦から降りて上陸した不良ロシア兵どもは会所に押し入ると倉庫内にあった米・酒・その他の品々を略奪した。
 これに対し、会所側では訳が分からないなりに状況を確かめるために不良ロシア兵との交渉を試み、不幸にしてその役を担わされたのが五郎治だった。小役ながら会所小頭の職務上、アイヌ語と僅かなロシア語を解したことが数奇な運命の発端となった。

 いきなりの艦砲射撃に逃げ出し、相手が何者かも、相手の意図も、相手の武陵のほども全く分からない状況で、僅かなロシア語が分かるだけで交渉役を強要されたとあっては五郎治でなくても戸惑ったことだろう。
 訳が分からないなりに取り敢えず友好を示す態度で、「Здраствуйте(ズトラストヴィーチェ:こんにちは)」と声を掛けた五郎治だったが、忽ち不良ロシア兵どもの袋叩きに遭った。

 略奪行為は五月一日から三日までに及び、五郎治以外にも下は会所の平役人、上は津軽藩砲術士・大村治五平が捕虜になる有様だった。
 ともあれ、この時捕虜とされた者達は六月六日に介抱され、宗谷に送還されたが、成り行きから上役と見られた中川五郎治と左兵衛という平役人がそのままシベリアに連行された。

 五郎治のシベリア抑留は五年に及んだ。
 ロシア側では早くにこの暴挙を犯罪と認め、オホーツクに連れられた五郎治と左兵衛は商会でロシア役人の謝罪を受けた。フヴォストフもロシア政府によって逮捕され、軽い処分だったとはいえ一応は刑罰に服した。
 蛮行の被害者として謝罪と一応の待遇を与えられた五郎治と左兵衛だったが、帰国は容易には叶わなかった。幾許かの誠意を見せたロシア側も帰国に関しては全く非協力的だった。
 とうのも、日本を新たな交易地として狙っていたロシアでは日本語教師は貴重な人材で、五郎治と左兵衛は多少優遇してでも留めおきたい存在でもあった。それゆえ二人は便所掃除で稼いだ金銭で猟銃を手に入れると日本海海岸沿いに満州−朝鮮半島経由で帰国する事を図って二度脱走を企てたが、いずれも失敗に終り、その途中で左兵衛は鯨の腐肉にあたって死んだ。
 結局、五郎治の帰国が叶ったのは、次頁のゴローニン事件に絡む一種の人質交換の様な形でのものとなった。


事件の日露交流への影響 突然のロシア兵の襲撃は幕府に外交と国防について考えさせられる契機となった。簡単に言えばこの事件は次頁のゴローニン事件へと繋がり、日露両国が両国間のトラブルへの対処を真剣に考えるようになった。
 それ以前にも国防を説く者は少なくなかったが、その者達はことごとく祖法の鎖国に逆らう不平分子と見做され、時にえげつない弾圧に遭った。
 この時点での幕閣は決して開国に積極的ではなかった。だが、武器を持って殴り込んでくるものに対処しないのは只の馬鹿である。後の不平等条約に苦しみながらも物凄い勢いで西洋文明を吸収し、アジアで数少ない独立を維持した国となり得たのも日露間のトラブルが布石となっていたと云えよう。



不幸中の幸い 騒動の責任を取って戸田又太夫が切腹し、ロシア軍にろくに抵抗出来ない体たらくを晒した武士達が何人も処分対象となったが、民間人に犠牲は出なかった(負傷者や、一時的に捕縛の憂き目を見た者はいたが)。
 まあ、前述の左兵衛は犠牲者と言えなくもないが、直接の死因は食中りで、この事件が無ければそんな死に方はしなかっただろうけれど、すべてを不良ロシア兵のせいにするのは無理がある。

  一方、中川五郎治は災難の中で奇妙な偶然を得て、その後の人生を一変させた。
 帰国の目途が立ち、イルクーツクに連れて来られた五郎治は、手続きで待たされている間に『Оспння Книга(オスペンナヤ・クニーガ) という本を見つけ、その内容に驚愕した。  『Оспння Книга』を日本語に直訳すると『天然痘の書』となり、所謂、種痘の方法を記したものだった。
 当時、天然痘は世界中で猛威を振るっていた恐ろしい伝染病で、昭和五五(1980)年にWHO(世界保健機構)が撲滅宣言を出すまで数多くの悲劇をもたらして来た。詳細は過去作の『天然痘との戦い』における中川五郎治の項目に譲るが、五郎治は医師でも、科学者でもなかったが、その書を熟読し、牛痘接種による種痘術を身に付けた。それほど「生涯天然痘に罹らなくなる方法」というのは驚愕の存在であり、人類が咽喉から手が出る程求め、しかしながら、「本当にそんなことが可能なのか?」と疑わしく思われる存在でもあった。

 五郎治とていきなり種痘に着手した訳ではなかった。まずは平穏な日常を取り戻すことが先決だった。
 一応、被害者の立場ではあったが、国禁である海外の情報に触れて来た者として、帰国直後に取り調べを受け、キリスト教に帰依してはいないことを必死に訴えたことで無罪放免となって番屋小頭に復職したが、海外でのことを話したり、理由もなく箱館を出たり、することを禁じられた。
 そんなこんなでようやくにして平穏な日常を取り戻した五郎治だったが、帰国から一一年経った文政七(1824)年、箱館に天然痘が流行し、種痘に走ることとなった。
五郎治は幸運にも牛痘に罹っていた牛の情報を得て、そこから痘苗を入手出来たことで「植え疱瘡」の看板を掲げ、日本史上最初の種痘師となった。

 五郎治によって始められた種痘は、当初わざわざ体に獣の病毒を入れ込む異国の妖術と見做され、理解者も少なかったが、その年、その一一年後、更に七年後の箱館での天然痘流行に際して、種痘を施された者達が感染しない事実に希望者が増え、五郎治はこの方法の独占を図った。
 つまり誰にも教えず、自分だけの生活の糧とした訳で、この行為には後世数々の批判が為された。ただ、当時は医家にあっても医術は門外不出の秘伝とされ、「年老いた五郎治にとって糊口をしのぐ数少ない手段だった。」との同情意見もある。
 結果論だが、自分の死後に情報と痘苗を譲る約束をした五郎治は川に落ちて溺死し、その妻は痘苗の価値を知らずに処分したため、箱館発の種痘術は僅かな成功に終わり、日本に種痘が根付くには緒方洪庵等の登場まで待たなければならなかった。

 ただ、それでも五郎治の種痘が多くの人々を天然痘の間の手から救った事実は消えず、明治政府は大正年間に中川五郎治に従五位を追贈した。
 五郎治の波乱万丈の後半生と、それにより(一時的とはいえ)種痘普及による人命救助が不良ロシア兵の蛮行に端を発していた訳で、誠、歴史は面白いと云おうか、皮肉と云おうか、人間万事塞翁が馬と云おうか。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
日露の間へ戻る

平成三一(2019)年三月八日 最終更新